摘めない芽
人の「芽」が見える。
それはカブトムシの角のように、人の眉間に生えている。形は様々で、可愛らしい双葉もあれば、若木と呼べそうなほど育っているものもある。芽の若々しさと元気さは、生やしている人間のそれと比例する傾向にあるが、あくまでも傾向であって絶対ではない。
子供の頃の私は、「みけん」という言葉を、この「芽」のことだと誤解していた。正しい言葉の意味も、芽が他の人には見えないことも知らなかったからだ。
この顔の部品が自分にしか見えていないらしいと気付いてからは、私は人の「芽」を見て話すようになった。それが何なのかを知りたくて、いつも観察していた。
子供の芽は大抵つやつやしているけれど、中には黄色く枯れている子供もいる。一方で、そこいらの若者より見事な芽を生やしている老人も時折見掛ける。どうやら若さを表すものではないらしい。
私の祖父も、美しい芽を持つ人だった。眩いほどの黄緑色、透ける葉脈の繊細さと力強さ。私がその芸術品のような姿に見惚れた数日後、祖父はこの世を去ってしまった。芽は残りの寿命とも無関係のようだ。
そういえば亡くなった祖父を見て、私は「芽」が死者にはないことを知った。
心が満たされているかどうかや、経済的な豊かさとも無関係のように見える。子供連れの主婦にも、スーツのサラリーマンにも、公園のホームレスにも、「芽」は生えている。
初めて「芽」が見えることを恐ろしいと思ったのは、駅のホームである女の子を見掛けた時だった。鞄から顔を覗かせている教科書類のお陰で、大学生だろうと見当は付くのだが、長い髪と服は真っ黒で、まるで喪に服しているようだ。顔には年相応の華やぎも生気もなく、数秒後には線路に飛び込んでいそうな、危うい足取りをしていた。
彼女の芽は見事だった。早回しの映像のように、みるみる内に伸びて新たな葉を茂らせ、つややかな若葉は電車のヘッドライトを反射して輝いていた。
死人のように虚ろな目と、禍々しいほどに健やかな「芽」の対比は、私の心に焼き付いて離れなかった。あまりの恐ろしさに、しばらくは眠ることもままならなかった。これは人の力を奪う宿り木なのではないか、と。
そんなはずはない。誰にだって「芽」は生えているのだから。それに、顔の他のパーツ、眉や鼻に生気を吸い取られるなんて聞いたこともない。
もしかして、と思ったのは、その数ヵ月後、同じ駅で同じ女の子を見掛けた時だ。あの子だ、と気付けたのは、鞄と、その口から顔を覗かせた教科書が同じだったから。それがなければ気付けないくらいに、彼女は変わっていた。
ミディアムボブの髪は優しい茶色に染められ、明るいベージュのコートによく馴染んでいる。ワイン色のトップスと、小ぶりな金色のアクセサリーも、以前の彼女を思い出すのが難しくなるくらい似合っていた。薄化粧をした顔は、いかにも大学生活を楽しんでいるのだろうな、という印象。
そして、彼女の「芽」。本人の変化とは対照的に、随分と控えめな姿になっていた。
あれが何なのか、私には分からない。摘んでみて変化を見れば、もちろん分かりやすいだろうけれど、私にそんな勇気はない。人の目を抉り取る人がいないのと同じことだ。