熱視線
人はどうして、視線を感じ取れるのだろう。こちらを見つめる人がいたことに、ふと気付く瞬間というのがある。相手をこちらの目で確認する前から、呼びかけられたわけでもないのに、見られている、と感じ取るセンサーがある。
私は最初、そのセンサーが誤作動を起こしたのだと思った。次いで、泥棒や覗きといった犯罪の心配をした。友人に泊まってもらったりして、視線を感じる時にも何もいないことを確認して、そして今。
それでも見られている、と確信を持ったのはいつ頃だっただろうか。私はレースのカーテン越しに、無人のベランダを眺めていた。
そう、無人だ。誰もいない。時々は雀が降りて来たり、野良猫が通り過ぎることもあるが、基本的に生き物の気配はない。一人暮らしのこの部屋のベランダに立つ人といえば、それは布団や洗濯物を干す私自身以外に居ないはずだった。
そのベランダから、まとわり付くような視線を感じる。清しい秋の夜風や虫の音とは別の、粘着質で熱いものが、網戸の目から流れ込んできている。
最初は漠然と、見られている、と感じただけだった。それが今は、相手の位置を何となく察知出来るようになっている。どうやら目の位置がとても低いようだ。しゃがんだ子供か、動物なのかも知れない。それがじっと、こちらを見ている。飽きもせず、ひたむきに、私に視線を注いでいる。
友人たちは視線など感じないというのも、納得出来ない話ではなかった。「それ」は常に私を見つめていて、友人たちの誰にも見向きもしなかったのだろう。
視線の主が何者であるのかは気になるが、相手の姿を見たいかと言えば微妙なところだ。気分のいいものではないに違いないし、見えたところでどうにか出来るとも思えない。
かといって、完全に無視をすることも出来なかった。見られている、と一度感じてしまえば、意識の片隅に引っかかって影響を及ぼしてくるものなのだ。見知らぬ人の前、親しい人の前、一人きりの場合のだらけ方が、それぞれ無意識に違っているのと同じ理屈。注がれる視線を感じている限り、無人の部屋の開放感を謳歌することは出来ないのだろう。
せっかくいい夜なのに。
私は溜息をついて、分厚い遮光カーテンを閉じた。
風が止み、虫の声がくぐもる。同時に、自分に注がれていた視線が途切れたのを感じた。
今のところ、対策はこれで十分だ。