お受験応援隊
灰色の空に、積もらない程度の小雪が舞う、陰気な日だった。
朝に目にした数字のせいで、僕の気持ちは一層憂鬱に傾いていた。
三十八.四。体温計にこんな数字が表示されれば、普通は学校を休む。
それでも僕は今、中学校の寒い廊下に立って、雪の中庭を見つめていた。熱を持った関節の痛みは、冷えると幾分ましになった。それに、エアコンの風と人の体温に炙られながら教室に座っていては、脳味噌も溶け出してしまうような気がした。
あんなに頑張って、知識を詰め込んだ脳味噌なのに。
熱でどろどろになった脳の中に、どろどろの感情が渦を巻く。
勉強、あんなに頑張ったのに。塾だって学校だって皆勤賞だったのに。どうして本命の受験の当日に、熱なんか出るんだろう。
頭を働かせるのに効果的だという朝ご飯を、母が準備してくれていたけど、とてもものが食べられる体調ではなかった。お腹は空いているのに、食べた端から吐いてしまいそうな気がした。
試験会場では監督も隣の席の子も、僕の顔色の悪さに気付かないふりをした。薄情なわけじゃなくて、僕が試験を受けることすら出来ずに不戦敗になってしまうかも知れないと気を使ってくれているのだ。
分かっていても、素知らぬ顔をされるのは辛い。弱音を吐きたくても相手がいない。
僕はぼんやりと中庭を見つめる。
味気ない冬の庭だった。ほとんどの木々は葉を脱ぎ捨てた姿で、常緑樹の緑は暗く深い。他の季節ならとても綺麗なのだろうが、今の僕にはそれを想像するだけの余力がなかった。想像の景色の中に、この学校の制服に身を包んだ自分自身を加えることなんか、尚更出来なかった。
ああ、もう駄目だな。
まだ最初の教科が終わっただけだけど、そんなことを思う。鼻水が出るのは熱のせいだろうか。自覚がないだけで、泣き出してしまう寸前なのだろうか。それは悔し涙なのか、情けないからなのか、熱が辛いせいなのか。
ああ、もう、どれだっていい。どうだっていい。
僕は氷嚢の代わりにと、冷えた窓ガラスを額に押し当てた。つきん、と小さな痛みが頭蓋骨の隙間を駆け抜ける。
あんなに頑張ったのに。
僕の背後の教室には、今も少ない休み時間を惜しんで参考書を睨んでいる子たちが大勢いるはずだった。僕もそうするつもりでいた。
でも、こんなぼんやりした頭じゃ、もう頑張れそうにない。
僕は馬鹿になってしまったみたいに、自分の息がガラスを曇らせる様を見つめた。吐く。曇る。吸う。薄れる。吐く。また曇る。その繰り返し。試験開始の予鈴まで、あと何分くらいこうしていられるだろう。涙で景色が滲む。
そんな僕の目に、白い手が映った。正確には、ガラスが手の形に曇ったのだ。指が長くて大人の女の人みたいな形だけれど、赤ちゃんの手みたいに小さい。
手は滑らかに動いて、ガラスに映った僕を撫でた。まずは目の辺りを、涙を拭うみたいに。それから髪をくしゃくしゃと、塾の先生が僕を褒める時と同じ撫で方で。最後に、ガラスに押し付けたままの僕の額を手のひらで包み込んだ。今朝も母がしてくれたような、労わりを感じさせる優しい動作。
いつも少し冷たい母の手は、熱をすぅっと吸い上げていくみたいだった。僕はその心地よさに甘えて、安らかに目を閉じた。
予鈴のチャイムが鳴る。
目を開けると、手はもうそこにはなかった。
顔を火照らせていた熱も、手足の痛みも、一緒に消えてなくなっていた。