夕空の傘
外から見ると真っ黒だが、開いて内側を見上げれば一面の青空。そういう意匠を凝らした雨傘がある。
最初にその傘を考えた人は、きっと子供の感受性と遊び心を持っていたのだろう。今では模倣品が巷に溢れ、木漏れ日の差す梢や天体図を描いた傘なども売り出されている。
そういう類の傘を、インターネットの通信販売で買った。惹かれたのは商品の但し書きだ。表側は漆黒、裏側に夜桜を描いた傘の写真の横に「※図案は選べません」とあった。どんな絵柄の傘がやってくるか、届いたものを開いてみてのお楽しみというわけだ。
元々は派手過ぎない花柄の傘を捜していたのだけど。さして高価なわけでもなし、裏まで真っ黒の詐欺商品が届いたとしても笑い話の種にはなる。外れと分かり切っている縁日のくじ引きのような、ワクワク感に対して金を払うような気持ちで、私はその傘を購入した。
届いた傘は一見しても分かるほどしっかりしたつくりで、それだけで価格の元は取れたように思われた。思わぬ掘り出し物に当たったと、それだけで嬉しくなっていた私は、傘を広げてみて目を瞠った。
夕焼けの空だ。流れる雲が黒く焦げて見えるほどの、爛れたような赤い夕焼け。
胸に甘酸っぱいものが溢れ出す。子供の頃に遊んでいた近所の空き地。家もまばらだった新興住宅地の、鉄条網で囲われたその場所が、幼い私にはとても広大なものに見えていた。西向きの山の中腹に造成されたそこに、夕日を遮るものはなく、他愛ない遊びに興じる私の背にはいつも巨大な夕焼けが掛かっていた。
外から見ると真っ黒な、その傘は私のお気に入りになった。
だから職場の後輩にこう声を掛けられた時、思うところがなかったわけではない。
「先輩、この傘ちょっと借りても良いっすか」
「……うん。大事に使ってね」
正直を言えば人の手に渡すのは嫌だったが、そう言ってしまうと器の小さい人間みたいだ。あざざっす、と砕け過ぎて粉微塵になっているお礼の言葉に不安を煽られながらも、彼を送り出す。流石の駄目後輩も人のものを壊したり失くしたりはしないだろう。
駄目後輩はほどなくして、私の傘ともう一本、コンビニで買ったと思しきビニル傘を携えて戻ってきた。
「ありがとぅっした。これで濡れずに帰れそうです」
「そういう時は、ありがとうございました、よ」
「それよか先輩、あの傘すげーいっすね」
私の注意などそっちのけな辺りが、駄目後輩の駄目後輩たる所以である。
しかし、気に入りの持ち物を褒められて悪い気はしない。私は相好を崩した。
「でしょう。気に入ってるの」
「なんか懐かしいっつーか」
「お、分かる?」
「はい。俺、子供の頃川遊びしてたんっすよ。飛び込んだ時の水の緑色とか、ばしゃーってなってキラキラする感じとか、すげーきれいに描かれてて」
緑色の水がばしゃーってなって、きらきら? ……束の間、彼の言葉について考え込んだ私は、慌てて傘立ての傍に駆け寄った。
「ちょっとあなた、他の人の傘と間違えたでしょう」
「え? それはないと思うんすけど」
「私の傘はそんなんじゃないわ」
ぱっと見は頑丈そうな黒無地の傘だ。特徴は少なく、間違えられても無理はない。
後輩が戸惑った様子で、傘の柄を指差す。
「けどこれ、先輩のタグっすよね?」
彼の言う通り、傘の柄にはネームプレートがぶら下がっている。この傘は失くしたくない、と私が付けたものに間違いなかった。
どういうことだろう。
「そうだけど……だって、見ててよ、私の傘は夕焼けの──」
雨粒が飛び散らないように手で押さえながら、ゆっくりと傘を開く。
開いた傘の内側には、夕焼けも、緑色の水飛沫もなかった。表側と同じ、黒無地の布が、ぴんと張られているばかりである。