(4)妹
千葉のど田舎へ引っ越す時に、僕には妹ができていた。
詩織は我が家に初めてやってきた女の子だったから、それはそれはみんなに可愛がられた。
ゆで卵みたいにつるんつるんのぽっぺたはほんのり桃色に色づいて、そこだけがいつまでも春みたいに暖かく土の匂いがした。
僕はいつも詩織のほっぺたを両手で包むようにくるんで、顔を近づけたり遠ざけたりして詩織が両腕をわちゃわちゃと動かす様に夢中になっていた。
詩織の腕も足もハムみたいにパンパンに膨れ上がっていて、それでも指先で押すとカステラみたいにふんわり柔らかくて、つくづく赤ちゃんというものは愛されるために生まれてくるんだなと、今更ながら思う。
引っ越し先のテレビの前で、左右を山積みの段ボールに挟まれてこじんまりと手を挙げて写真に映る僕ら兄弟と、その真ん中で泣きながらゆりかごチェアに座る妹の写真を今でもたまに眺めることがある。
きっとこの頃は、ボタンがあれば手当たり次第押していたし、道路という道路をたかの外れた犬みたいに駆けずり回っていた。
下敷きがあれば脇の下に挟み込んで静電気を起こして友達の髪の毛を逆立てて遊んでいたし、消しゴムのカスを水ノリで練りこんで練りケシを作るという謎の流行りにも乗っかった。
何より自分に妹ができたと言う事実に発狂していた僕は、「吉郎もお兄ちゃんだな。」という言葉にひどく誇らしげだった。
きっと僕も兄ちゃんみたいな兄貴になるぞ、という意気込みが多少空回っていた感は否めないけれど。
平和、とは体感していないうちが一番平和なのかもしれない。
平和をありがたく感じるような頃になれば、何かしらの不安や葛藤を抱えているのだろうし、もう二度と手に入らないものと絶望しているかも知れない。
それは平和ボケと呼べるのかもしれないし、トルストイ先生の意思に反するかもしれないけれど。
とにかくそんな平和ボケ一家は妹の誕生から少し後にのどかなど田舎に引っ越した。
引っ越し先に千葉を選んだ理由は、海が近かったからだそうだ。
まさに、平和、ボケ、である。
当時、父親は海釣りに没頭していた。
朝から晩まで働き倒した後に夜釣りに出かけるものだから、母親はテトラポットの間で気を失って落っこちて死んでやしないかと気が気でなかったらしい。
家のことはまるで手伝わないし、子供らには顔を見せなすぎて人見知りされる始末だった父は、きわめて健全なダメ親父だったと言える。
それでも怒るときは真剣に怒ったし、愛情もたっぷり注いでくれた。
一人っ子特有の不可解な行動はあったけれど、概ねその時代に即した、世間の言う一般的な父親像からは外れていなかったと思う。
妹一歳、僕は六歳、そして兄ちゃんは九歳の夏の頃だった。
我が家が一番平和だった頃だ。