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断食小姓

作者: まぶし

すすを吹いた胡桃くるみ床板ゆかいたにぽっかりと空いた矩形くけいの奥底にある糞尿と対峙している時は、三助は鏡を見ているよりも自分自身と対面している気がするのだった。その周りを雑巾で拭う時、お屋形様の土間の入り口に婢女はしためが捨てていった水呑田吾作みずのみたごさくの餓鬼である自分の顔を、井戸水を汲んだ桶でもって洗っているより、綺麗にしている気がしたのだ。同じように働く小姓たちには、恥ずかしくてこの心持ちは言えない。

糞尿の匂いを存分に吸った後、掃除桶そうじおけを提げながら厠を出た時、三助にはははあと犬のように辞儀をする用事ようじがあった。向かいからお屋形様の殿下様が、上等な平服を着て、すたすたと真っ白な足袋たびで床板をはらうようにしてやってきたのだ。ははあと三助は汚い掃除桶を包み込むように辞儀をする。ひょっとしたら殿下様がこちらに目を溢してくれるかもしれない。ぼんやりと口を開けた掃除桶が、あの対面した矩形の鏡であるような気がした。殿下様は道端の小石のように、三助を気づかずにして置いていった。殿下様の眉目は美しく整い、諸学文武に秀でた秀麗な額で風を切るようにして三助を打ちすてていったのだ。

聞くところによると、殿下様は最近姫君を嫁御に迎えるらしい。お屋形様の上等な女中たちがその日がやってくるのを騒がしくしていた。

迎える姫君の美しいこと美しいこと、例えるなら、なんでも今まさに陽光に照らされようとしているやまぎに、快活とした雲が登っているような面差しで、三助の知らぬなんとかとかいう上等な桃色の衣をまとってくるらしい。

ところで三助には、一つのロマンシズムがあった。埃臭い布団が、所狭しと敷き詰められたところの隅で、薄暗い天井を寝ずに夜遅くまで見つめながら、ああ、俺も殉死じゅんしというものを遂げてみたいと毎夜思いを馳せるのだった。三助の生命は百姓小屋の麦わらのたんと敷かれた床で生まれ、暇を出された婢女はしため揺籃ゆりかごのついでに捨てていったところから始まり、そこを一番の広がりとして、あとはそのまま死へと収束していくようなものであった。

天井から目線をごろんとさせた三助の視界には、開いたたなごころが映り、そこには確かに脈が通り、それが夜半でも変わらず、一定の拍でどくどくと動いている。脈動が一辺に弾けるような炸裂のような瞬間がなければ、年老いた小男が、朝晩の掃除で不意に糞尿に顔をうつ伏せてぽっくりと逝くような死しかないのだろう。三助はそれを思うといつも臓腑がきつく引き締められる思いをするのだった。他の小姓の笑い者であった三助だったが、何よりも自分を卑しいと思う瞬間は、老いさらばえた自分の顔が糞尿に写って、それが糞尿と一つになって、どちらが自分か区別がつかなくなるのを思い浮かべた時だった。

 そんな三助の心持ちを、夜の寝床で未だ見たことのない姫君が救った。

三助が臨む天井には、まばゆいやまぎの明朗にあがった雲が見えて、それがこちら側に優しく微笑みかけてくれるのだった。ありがとう、三助、毎日あなたがいてくれるおかげで、私の生活は随分と助かっているわ。と姫君が微笑みかけてくれるおかげで、決して自分の空想の中の自死とは違う、確かに現実を伴った殉死の根拠を、その空想の姫君が与えてくれるのであった。

今まさに姫君がお屋形様にやってきたという時、土間の隅だのうまやの影の草取りだのをしている一番卑しい小姓たちの間にも、話題はわっと蚊トンボが広がっていくようにして広がった。馬の尻を拭いながら、三助はその尻の駒毛こまげが綺麗に照っているのに、あの明朗な雲を見ているのだった。そして三助は前々から密かに誓っていたように、自分が殉死するほどの一物であることを証しめすために、ある決意をしてみせるのだった。

(今日から俺は一切ものを食わん。お姫様が俺の存在を認識してくれるその日まで、俺が殉死の精神を持ち合わせていることを示しつけてやるのだ。)

その日から、三助は一切ものを食わなくなった。

おい、なぜあの三助は飯を食わなくなったんだの、虱助は便所の匂いを嗅いでるうちに、とうとう飯も通らなくなったかという輩がいた。挙げ句の果てには三助の前にうまそうな麦飯を持ってきて、勿体つけながらそれをかっ食らうものたちもいたし、おい、ばば助、お前はなんで飯を食わなくなったんだと、小姓の中の偉ぶったのにはそうやって三助を怒鳴りつけてくるやつもいた。興奮したものもいて、理由を聞いても一切口を開こうとしない三助を思わず打擲ちょうちゃくしてくるやつもいたが、それでも三助は一切口を開かずものを食おうとはしなかった。

(食わん。俺はどんなことがあっても絶対に食わん)

さりとて三助にも口を開いて訳をいうほどの理屈があるわけでもなく、例えば立派に口上を立てることによって噂を広げ姫君と会う手立てを立てるだとか、殉死の精神が自分には確かに存ずることを君主に示し明かすだとか、そういった方面へは全くの無知で、理由を言わないのも自分の中にどこか周りの小姓への頑なさがあるだけで、口の前に一枚くっついた床板を弾き飛ばして舌鋒を振るうなどいうのは、三助には思うだにしなかった。

三助は厠の掃除をするとき、いつも一人になる。最近は断食をする自分に自惚れて、いつもより余計に熱心に矩形の周りの自分の顔を拭いあげる。いつ姫君に見られてもいいように、三助はそうして自分の顔を綺麗に拭いあげるのだった。

さて、糞尿の臭いを存分に吸った三助は厠を出たところで、今日という今日に念願叶って出くわすことができた。向かいから、殿下様と共に、お姫様と思しき方が、この卑しい卑しい小姓が湧くような廊下を、わざわざお通りに来てくださったのだ。ははあ、とお姫様の容貌にはほとんどまなこを叶わせることなく、こうべを深く深く垂らした三助。その向こう側には、かのやまに曙の光があたり、そこから快活に上がる雲が見えるような光景が浮かんだように思えた。こうべが垂れている視線の先にはぼんやりと開いた掃除桶がこちらを見ている。そこに明確な縁を描いて目に浮かぶ、ぽっかりと空いた矩形の中の糞尿。ははあ、と三助はもう一度心の中で思い切り声を出した。その時の三助はこうべの向こうのまばゆい光景と、目の前に映る糞尿との間になんとかとかいうえにしが存在すると思っていた。

ははあともう一度心の中で思い切り叫ぶ三助。目の前には汲み取りを待つだけの糞尿。ちらっと上目を使えばまばゆい光景が見られるはずなのに、向こうが見てくれなければ三助はその糞尿から目を逸らすことができない自分があるのに気がついた。光景と糞尿とに、そもそも縁などというものが存在しない事実を前に、すでにその時にはこうべを垂らした石像のように冷たく打ち捨てられるしかなかった。目の前の糞尿が掃除桶の底になって、その底には鏡よりも明瞭な縁取りをとって卑しい小姓でしかない自分の顔が浮かび上がった。ぐー、と突然腹が鳴った。それはお二方が目の前を通り過ぎようのしている時のことだった。お二人はその音に気づいたのか気づいてないのか、そのまま向こうに行ってしまわれた。

殿下様とお姫様の祝言の祝いということで、その日の夕餉ゆうげには上等な鮪の刺身が一つ皿に盛られて出た。

それに同僚の小姓たちがありついているのをごろんと背にして、伸ばしたたなごころが上に開いて脈打っているのを、明瞭な輪郭を持たせて見ている。先ほど写った掃除桶の底の自分の顔を、ぼんやりとたなごころの先に思い出していた。

おーい三助、刺身が終わるぞー。小姓の中の優しいのが、そう三助に話しかけてくれた。

にもかかわらず三助は、たなごころの先で自分の存在がなくなっていくような気を覚えていた。まるで自分の人生そのものがただ幻想のうちにだけ屹立きつりつしていて、一歩釣り糸から足を踏み外せば、そのまま真っ逆さまに自己という存在が消えていくような心持ちがした。開いたたなごころが、いつもの寝床のように上に向かってぽっかりと開いている。このたなごころはおっ母が産んでくれた時から、存在したのだろう。三助の瞳には、幼くなった自分の、柔いもってりと膨らんだたなごころが見えた。それが見えた時、心にあったのは、魔が差したような一瞬の残酷さだった。釣り糸にたつ自分を背中から押した。自己を落下させる自己があることで、三助は自己の存在の証明を決することにした。

三助はわあわあと情けなく叫びながら小姓たちを押しのけて残りの刺身を全部食らった。その有様を目にして、小姓たちは皆、囃し立てながら三助を踏みつけにしていった。三助がぼろきれになるまで踏みつけが続き、ようやく終わって皆が座敷を出て行った後も、三助は寝転がったままじっとしていた。どうせまた起き上がって毎日のように糞尿の世話をしなければならない時が来るにもかかわらず、三助はその場でじっとうずくまっていた。

 

さて、時が来て三助は何事もなかったように立ち上がった。とっとと寝床に入って睡眠を取らなければ、明日の仕事に遅れてしまう。そうして部屋を出たところであった。

縁側に置いた灯火ともしびの光によって、殿下様の清美な顔が浮かび上がる。そこに腰掛けていた殿下様はその灯明とうみょうに照らされたまま誠に優しげな顔でこちらの方を向かれて、

「どうだ?鮪はうまかったか?」と今ようやく三助の誕生に気づかれたような顔で微笑まれた。

お読み頂き、有難うございました。

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