41回:あーっ!? 誰もいない!
「壇ノ浦先生……何という事を!」
打席に向かう芯太郎は、息が止まりそうだった。
何という事をしてくれるのか。
ただの満塁じゃない。タッチアップでの得点まで放棄して満塁で回した。
敬遠を避けるために。もしも、もしもここで打てなければ。
打てれば明日も日常。打てなければ囚人の様な非日常。
「振りたくない……」
打席に向かう足には、枷が付けられた。
引き摺りながらやっとの事で打席に辿り着く。
「ぶつけない為に、上げるしかない。上れ……」
「プレイ!」
気合いの入った声でプレイがかかる。
手が汗でベトベトだ。ロージンを取りに戻りたいが、最上はもう振りかぶっている。
振りたくない。振らなければ。
筋肉が動き出す。意識した軌道よりもずっと上を動き出す。
ボールが放られる。
ゆっくり、ゆっくりとボールがこちらへ向かって進む。
バットもゆっくり、ゆっくりと動く。
意識した軌道よりもわずかに上を。そのずれがだんだんと大きくなる。
制御が効かない。筋肉がいう事を聞かない。
ボールが止まって見えるほどの緊張。
打たなければならないプレッシャー。それに被さる『記憶から来るプレッシャー』。
この両輪が、イップスを引き起こす。
急速に汗が引いて行く。グリップにピタリと張り付いた手の皮が、握力を最大限に引き出した。
いつもの芯太郎が、出来なくなる。『打てない芯太郎』が、いなくなる。
そして体に振動が伝わり……。
「上れぇぇーッ!」
視界から白球が消える。
******
「打った!」
ナイン全員がベンチから乗り出す。
「回れ!三つ行け、三つ!」
放物線を描く打球は間違いなく長打コース。成田も伊集院も高坂も、腕をグルグルと回している。隣のチームメイトを殴っている形になっている事にも気づかず、宗教の儀式の様に回し続けている。
「あ~これって……」
座っていた真柄も立ち上がり、茫然としている朝比奈の横に立つ。
「いっちゃう~?」
「あ……」
クッションボールを待つレフトの頭上を遥かに超えて、カシン、とフェンスの上にバウンドした。
そしてそのボールは、塀の向こう側へと消えていく。
審判が理解するのにも三秒を要した。そして頭上でグルグルと手を回し始めた時、球場全体が時間差で認識を完了する。
「入ったぁ!」
「逆転満塁ホームラン!」
「すごいすごいすご~い!」
その場に白目を剥きそうな勢いでへたり込んでいる芯太郎に、祝福の声援が飛ぶ。
田口が、片岡が、そして里見が返って来たところでようやく立ち上がり、歩き出す。
「何者なんだお前はーーーッ!?」
最上が帽子を地面に叩きつけて叫び、一塁手も殺気を放っている。逸れもその筈、芯太郎は徒歩でベースを回っているのだから。ここまでゆっくり進むと、流石に侮辱行為と思われても仕方がない。しかしそれほどに消耗したのだ。
不可能なはずのスイングをしたのだ。意思に反して体が動いたが故の消耗。
夢遊病の様に本塁に返って来る芯太郎。ベンチでナインが迎え入れた。
「朝比奈」
壇ノ浦監督が朝比奈に語り掛ける。
「お前の打率は」
「さ、三割五分ですが」
「打率はな。その打者の輝度値だ。輝きだ」
その言葉の要領を、朝比奈は得なかった。
「ランナー三塁での斎村は七割五分」
何を言いたいかが分かった。
「殊その状況に置いて。全ての打者が、アイツの前では黒だ」
真柄が最終回のマウンドで躍動する。しかし疲労は明らかな進行を見せていた。
先頭バッターは最上。初球、甘く入ったアウトコースのボールをレフト前に運ばれた。
『芯太郎』がボールを取り、『朝比奈』へ投げ返す。
試合には影響なかったが、朝比奈は、ボールを掴みそこなった。
「しっかり」
芯太郎の声がグサリと刺さる。
真柄にボールを投げ返す朝比奈は、先ほどの壇ノ浦の言葉が頭から離れない。
俺が必要だから特待生にしたのではないのか。
俺に頼るためにレギュラーにしたのではないのか。
四番バッターが送りバントを決める。ワンナウト二塁。
「五番、ファースト、馬原……君」
外野が前進守備を敷く。その間に朝比奈は雑念を入れる。
そう、芯太郎だってエラーぐらいするだろう。例えばこの場面でレフト前ヒットを後逸して、ランニングホームランなんかになってみろ。一転、あいつは戦犯だ。
真柄のストレートがまたも甘く入る。インコースにヤマを張っていた五番・馬原の打球は鋭く三遊間を抜いた。
しかし芯太郎は後逸しなかった。憎たらしいほど澄ました表情で、当然の様にボールを捌く。
朝比奈は芯太郎の首を絞めてやりたかった。
「六番、セカンド、井上……君」
内野は前進守備。当然第一にスクイズ警戒である。
同点になれば、一気に高津の流れに傾く。逆転サヨナラ勝ちまで有り得るのだ。
朝比奈は思いつく。
そうだ。この場面で最後のプレーを飾れれば、それでいいじゃないか。
その勝利の一端に俺が居れば、それでいいじゃないか。確かにヒーローは芯太郎だが、それがどうした。
それでいい。それで行こう。そうと決まれば、エラーの後では遅い。肩の力を抜いて、いつも通り。練習通りにプレーするんだ。
――カィン!
スクイズの予想に反して、まさかの強攻策であった。
「うおっ!?」
そして朝比奈の望み通り、ショート真正面を強襲した。
それをギリギリ体で、腹筋で受け止める。
「セカンド!」
6(ショート)―4(セカンド)―3(ファースト)のダブルプレー。それで試合終了である。
ファーストランナーの全力疾走を見て、朝比奈は急いでボールを握り直し、セカンドへ投げる。
だが未来を悟った瞬間、朝比奈の背中が急速冷凍された。握り直しが、甘かった。
「え……?」
ボールはセカンドの遥か頭上を越え、右中間へ飛んでいく。
「ライト! センター! 止めてくれ!」
里見が叫ぶ。
「ちくしょぉぉ!!」
送球のカバーに入ったセンター高坂が、声をあげて走る。
ボールは無情にも、差し出したグラブの1センチ先を通り過ぎた。
「バックホーム!」
送球の勢いがなまじ強かったのが災いし、フェンス手前までボールは転がる。
サードランナーはホームインして同点。ファーストランナーは二塁を蹴って三塁へ。
――頼む、止めてくれ!
朝比奈は願った。声に出したいぐらいに。自分の何を放りだしても叶えたい願いだった。
「ゴーッ!」
三塁コーチの声によって、本塁突入が決定する。
セカンドの高木が中継。さらに一塁の主将、片岡が中継。
バックホームをしようとしたその腕が、力なく下げられた。
ランナーは既にホームを踏んでいた。
5対6。九回裏、智仁高校のサヨナラ負け。
歓喜に満ち溢れた甲子園行きの予定は、二十分でキャンセルされた。




