39回:打つなよ、絶対打つなよ
ようやく自らのバットで一点を返した真柄は、グラブを受け取ってマウンドへ向かう。
土の盛り上がりが、投手という存在の特別性を象徴している。自分だけが、一段高い位置にいる。
息を整えて、投球練習を始める。
真柄はこの間に想像する。もし自分がブラスバンド部だったらこの試合、どんな気持ちで演奏しているだろうか。
「何で俺が野球部の応援なんかを」
「せめて日陰の下でやらせろ」
「楽譜覚えきれない」
そんなところだろうか。
とりあえず心の中でのごめんなさいとありがとうを済ませる。
「あ~」
と同時に、ストレートがシュート回転している事に気づく。
「ラスト!ボールバック!」
ファーストとレフトからキャッチボールに使っていたボールがベンチへ転がされる。
真柄が最後の練習球を投げ、里見が二塁へ送球練習。
「六回!しまっていこー!」
「オイッ!」
同時にマウンドへ寄り、一言声をかける。
「シュートしてるぞ」
「うん。んじゃ残りはアレ中心で」
「ああ。打たれるまでな」
真柄のストレートがシュート回転する時。それは握力が落ちて来たサインである。
右投手が外角……つまり利き腕に対する対角線のコースへコントロールするには、ある程度の握力が必要である。その握力が維持できないほど五回までの投球、というより準決勝までの投球で消耗していたのである。
「プレイ!」
「六回の裏、常葉高津高校の攻撃。三番、ピッチャー最上……君」
この回からは振りかぶらず、ノーワインドアップでの投球になっていた。
第一球。
「ふっ」
気持ちの良い音と共に、ミットにボールが収まる。里見は緊張しながら判定を待った。
「ットライーッ!」
里見は小さくガッツポーズを作った。
打者である最上は動揺を隠せない。ストレートのスピードだった。にも関わらず、五回までと全く球質が違う。
これまでは、綺麗なバックスピンに近い……つまり真っ直ぐな回転、真っ当なストレート回転だった。しかし今のボールの回転は、ストレートとは似ても似つかぬ汚い回転。
それがナチュラルなシュート回転を生み、インコース胸元いっぱいのコースまで曲がりながら伸びて来た。
まるで左ピッチャーのカットボール……クロスファイヤー気味の軌道であった。
「不味いな……」
最上は聴こえない様に呟いたのだが、真柄は唇を読んだ。
これまでの相手と同じである。今までの投球はアウトコース一辺倒であったため、少なくともこの球質に慣れるには一打席は必要である。
つまり慣れる頃には試合は終わっているということになる。
真柄は、これ以上点を取られない事を確信した。
「ットライー!バッターアウッ」
八回裏を三者凡退に抑えた真柄は、肩で息をしながらベンチへ戻る。
******
「真柄、どうだ?」
「無理ッス」
これは片岡達三年生にとって引退を賭けた試合である。そうそう『無理』という言葉は口に出せないはずだった。
しかし真柄は三回戦からこの決勝までを一人で投げている。心の底から出た本音であった。
「でもあと一回ぐらい、根性で投げますよ~」
どちらかというと、この台詞の方が根性で吐いていた。そしてこの言葉が、チームメイトの闘志に火をつけた。
「っしゃ!どうあっても後一回投げてもらうぜ!」
先頭の二番、田口が打席に向かう。
最上の方も、明らかに握力が落ちてコントロールがつかなくなっていた。
「芯太郎、ちょい」
真柄が芯太郎を呼ぶ。
「お前に回れば逆転しちゃうんでしょ~?」
「何で?」
「この大会、まだ満塁で来てないじゃん」
「まぁな」
「じゃあそろそろじゃん」
「ボール!フォア!」
「ほら」
片岡が八球も粘り、四球を選び吼える。
「うぉぉ!」
「三番、ライト、芝原……君」
首の方向を芯太郎へ戻し、真柄が言葉を続ける。
「正直俺さ、もう投げたくないから。三振してきていいよ」
「馬鹿、先輩の前でそんなこと」
「いいっていいって」
その場にいる三年生達は即座に感じ取った。真柄は芯太郎の心労を取り除いているのだと。
ボコッ、という音で詰まった当たりだということが分かった。芝原の打球はボテボテのサードゴロ。セカンドは間に合わず、ファーストのみでアウトを一つとった。ワンナウト二塁。
「ゲッツーは無くなった」
里見は既に防具を全て脱ぎ去り、バットを握ってネクストバッターズサークルへ向かう。
「里見、返しちゃダメだよ」
真柄が声をかける。
「満塁で芯太郎。んで三振して試合終了だから」
「分かってる」
「分かっちゃダメだよ」
芯太郎のツッコみを無視してネクストに座り込む。
「頼む、斎村」
「満塁なら、お前しかいない」
三年生が芯太郎の周りに集まって来る。
「頼む」
「まだ終わりにしたくないんだ」
「お前なら打てる」
芯太郎は背筋が凍りかけるのを感じた。
「いやいや、打たなくていーって~」
真柄が必死にプレッシャーを軽減しようとする。
「先輩達、芯太郎を頼りにするよりまず朝比奈を頼るべきですよ~。ほら、あいつ嫉妬してるじゃん」
その通りであった。
朝比奈は、頭に血が上っている。
三割五分の自分より、一割台の芯太郎を先輩達が頼る。
この野球部に入ってから、何もかもが可笑しくなった。この野球部は数字の見方を知らなすぎる。
「ボール!フォアボール!」
「っしゃあ!」
片岡もツーナッシングから執念で歩いて見せた。
「返すなよ~」
再度真柄からアドバイス(?)が飛ぶ。
里見もまた緊張していた。四球の後の初球。狙うべきか?
満塁でなければ、監督は恐らく芯太郎に代打を出すだろう。だが、代打率が八割を超える打者は存在しない。
やはり満塁で芯太郎に……。
ゴスッ。
「おっ!?」
審判のマスクにボールが直撃した。ベルトの金具に当たってボールの軌道が変わったのだ。
「デッドボール!」
里見は打つまでもなくワンベースを与えられた。これでワンナウト満塁。
「朝比奈」
「何だ」
「選べ」
そう言い残して、里見は朝比奈にバットを渡す。
瞬間、体温が二分ほど上がるのを朝比奈は体感した。
――選べだと?打つなだと?
満塁であのまぐれスラッガーに任せろだと?
「シャッ!」
捕手と主審がビクリとするような、まるで野良猫の様な声をあげて朝比奈は打席に入った。
「六番、ショート、朝比奈……君」
――俺は、何のためにこの高校に来たと言うんだ……?




