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グレーテルは肩で息をしながら、その場に倒れた男を見下ろしていた。
かまどの扉を開ける。中の肉は十分に焼けており、見た目も香りも申し分ない。グレーテルは雑巾越しに鉄板を掴み、慎重に引き出した。男の額から抜いたナイフを使って、二枚とも皿の上に移す。
二枚のステーキは、グレーテルの食欲を先ほど以上に刺激した。
だが、彼女は食指が動くのをぐっと抑えつけた。自分以上に、これを欲している人物がいる。なんとしても生きてほしい家族がいる。
グレーテルは皿を持って、家の裏口から外に出た。
「ヘンゼルお兄さま!」
檻の中でぐったりとしているヘンゼルは、相変わらず動く気配がない。彼女のように水浴びもしていないせいか、ひどく臭った。
「お兄さま、これを食べて。とっても美味しいはずだから」
檻の前に皿を置いても、ヘンゼルから反応はない。
「……ヘンゼルお兄さま?」
中の様子を窺おうとしても、檻の中は薄暗くてよく見えない。ヘンゼルの表情一つすら、確認できなかった。
「そうだ、鍵……」
グレーテルは、もう一度家の中へ戻った。男が脱ぎ捨てたズボンの近くに、鍵束が落ちている。恐らく、ベルトに引っかけてあったのだろう。
部屋の隅で、下半身を丸出しにした男の死体が横たわっている。グレーテルの手に、自然と力がこもった。
自分と兄を閉じ込め、辱めた男に対する罰が「死」のみというのは、あまりにも軽すぎやしないだろうか?
暖炉の炎が勢いを増していくのと同じように、グレーテルの心で燻っていた感情が燃え広がっていく。
両手には、鍵束と、ナイフがある。
グレーテルは鍵束を床に置いて、死体の方に歩み寄った。男の顔は、何が起こったのか未だに理解しかねているような表情で硬直している。だらしなく開いた口からは、もう何の命令も下されない。
グレーテルはナイフを逆手に持って、とりあえず男の服を切り裂いていった。
全裸になった男をどうしようかと考えていると、テーブルの上の猪の頭に目が留まった。
男への罰が、決まった。
「まずは、皮」
グレーテルは男の胸部にナイフを突き立て、そのまま下腹部まで走らせた。力の加減がわからず、勢い余って刃が背中に貫通してしまった。切り口から、腸が飛び出してくる。力任せにしていたため、ナイフは腸を傷つけていた。腸の中から、糞便になる寸前の消化物が悪臭を放つ。
グレーテルは臭いに耐えきれず、腸を全て引きずり出すとまとめて窓から投げ捨てた。その他、猪の解体を思い出しながら、内臓と思しきものを次々と放り投げていく。内臓の中に、一つだけグレーテルの目を引くものがあった。丁度胸の中心辺りから取り出した、掌大の大きさの、赤い果実のような――心臓だ。柔らかく、温かく、力を入れて握ると周囲に伸びる管から血が滴った。最初はそれが面白かったが、すぐに飽きて捨てた。
それから、他の部分の皮を剥いでいった。指や股間など細かい部分はそのままにしておいたが、頭部だけは集中した。特に顔面は、一度も途中で切れることなく剥くことができたので、男の顔を象った仮面のようになった。イボの隆起がおぞましくもあり滑稽だった。
次に、首の切断に取り掛かった。最初は何度ナイフを往復させても骨を断つことができなかったが、付け根の辺りの骨同士の繋ぎ目を狙い、叩きつけるようにしてナイフを振るうと上手くいった。男を中心に広がる血だまりが、床についたグレーテルの膝まで到達する。単にグレーテルが不慣れなのか、男が猪を解体したときとは、明らかに血の量に差が出ていた。
グレーテルは構わず、男の両手両足も切断した。首の際にコツを掴んだおかげか、さほど時間はかからなかった。
だが、既に窓の外からは夕日が差し込んできている。グレーテルは男の生首を、テーブルの上の猪の隣に置いた。皮が剥がれているため、男の面影はほとんど残っていなかった。目玉をくり抜いて、夕日へ向かって投げ込む。
それから、部位ごとにバラバラになった男の体を、一つずつかまどの鉄板の上に乗せていく。そのままの状態では、とても入りきらなかっただろう。グレーテルは顔を綻ばせながら、鉄板を奥へと追いやり、かまどの扉を閉めた。猪の肉と違い、あまり美味しそうな音は聞こえてこなかった。
グレーテルは、もう一度ヘンゼルの様子を確かめに向かった。鍵束を持っていくのを忘れない。
家の裏手には、檻が三つ。そのうちの一つの傍らに、先ほど彼女が置いた皿があった。乗せられた肉には、手がつけられていなかった。
「ヘンゼルお兄さま、起きて」
声をかけても、やはり返事がない。
「お兄さま、ヘンゼルお兄さま」
グレーテルは、格子の隙間から伸びたヘンゼルの腕を引っ張った。
ごとん、と音がして、ヘンゼルの頭が格子にぶつかる。その表情が、夕日の元に晒された。
「ヘンゼ――」
グレーテルは、兄の顔を見て言葉を失った。
ヘンゼルの表情には、およそ生気と呼べるものが宿っていなかった。虚ろな両目は、何処に焦点を合わせているのかわからない。微かに開いた口元や鼻からは、呼吸の音が全く聞こえてこなかった。加えて、鼻を突き刺す悪臭である。
ヘンゼルが、死んでいる。嘘だと否定する心よりも、ずっと深いところでグレーテルは悟った。
よく見れば、体の至る所が欠損している。右手は肩から、左足は膝からなくなっており、わき腹も大きく抉れている。その他にも噛み千切られたかのような傷跡が幾つも体中を貪っており、全てに蛆虫が湧いていた。
「あっ」
ヘンゼルの左胸に、ぽっかりと大きな穴が空いていた。グレーテルは、ほっと胸を撫で下ろした。
「よかった……本当に、よかった」
ヘンゼルの抜け殻には、心臓がなかった。と言うより、心臓がないからこそ、既にそれはヘンゼルではなくただの抜け殻にすぎない。
いつからだろう、とグレーテルは頭を捻った。
――いつから、ヘンゼルは私の心の中で生きていたのだろう?
恐らく森を彷徨い始めてから、二日目の夜のことだった気がする。ヘンゼルから分けてもらったパンも尽き、空腹が最大限に達した頃だ。
その日、グレーテルが手ごろな大きさの尖った石を持っているのを見ても、ヘンゼルは何も言わなかった。
彼女がその石を頭に打ち据えても、彼は抗おうともしなかった。反撃する力がなかったわけではない。ヘンゼルは、ほんの少しだけ笑っていたのだ。大きく欠損したヘンゼルの抜け殻には、まだその笑みの面影が残っている。
「ヘンゼルお兄さま……」
そのときから、ヘンゼルはグレーテルの心の中で生きていたのだ。ヘンゼルの抜け殻を食らうことで飢えを凌ぎながら、彼女はこの家に辿り着いたのだ。
ヘンゼルの抜け殻は、もはや肉と呼べる部分がほとんど残っていなかった。細くなった腕は、裏を覗くと白い骨が剥き出しになっているのが見える。
グレーテルは、ヘンゼルの心臓をも食した。
――そうすれば、ヘンゼルは私の中で生きていけるから。
グレーテルは、しばらくその場に腰を下ろしていた。もう、ヘンゼルの抜け殻に語りかけるようなこともしない。語りかけるときは、胸に手を当てればいい。
「ごめんなさいお兄さま。私ったら、ずっとお兄さまの抜け殻に話しかけていたなんて……本当にごめんなさい。きっとお腹が空いていて、そんなことにも気付けなかった私を許してくださいね」
ヘンゼルはグレーテルの中で生きている。これからも、二人は一緒にいられる。
肉の家の窓から、黒い煙が漏れている。男を焼いている暖炉の火が、何かに燃え移ったのかもしれない。
グレーテルは立ち上がった。近くの皿の肉を、二枚とも口の中に入れる。
「お家に、帰らなきゃ……」
川の流れる方に向かって、彼女は歩き出した。
7
何日もかけて彷徨っていたはずの森を、一夜にして抜けることができた。朝日が痛いほど眩しい。開けた視界には、なだらかな丘が一面に広がっていた。
川は、家の近くを流れているものと同じだった。森を抜けてさらに辿っていくと、目的地が見えてきた。たった数日離れていただけなのに、自分の住む家がとても懐かしく思える。
グレーテルは、無我夢中で走った。家族が待つ家に向かって。坂道は少し急だが、グレーテル途中で一度も立ち止まらなかった。
家の前に辿り着くと、グレーテルは力の限り扉を叩いた。その中に、家族がいることを願いながら。まさか、あのまま森に迷い込んでしまったわけではあるまい。
何度目かのノックは、内側に開いた扉によって空振りに終わった。その勢いでバランスを崩したグレーテルは、前のめりに倒れかかる。
「おっと――」
扉の向こう側に立っていた人物が、彼女を受け止めた。その瞬間に、二人は目を合わせた。グレーテルの瞳に、涙が浮かんだ。受け止めてくれた人物を、彼女はきつく抱きしめた。
「グレーテル……グレーテルなのか?」
「そうよ。私、帰ってきたの!」
やはり、家族は待っていてくれたのだ。
グレーテルを受け止めた父親はしかし、どこか不安げに外の様子を窺っていた。
「ヘンゼルは、どうしたんだい?」
グレーテルは父の体を離すと、小さく溜息をついた。やはり、父は少し察しが悪い。
「ヘンゼルお兄さまは、私の中で生きているわ。それより、お母さんは?」
グレーテルがそう言うと、父は安堵の表情を浮かべた。額には汗が滲んでいる。よほど緊張していたのだろうが、むしろ心配しているのはグレーテルの方だった。
父は、ちゃんと覚悟を決めたのだろうか?
「あ、ああ……お母さんは、僕の中で生きているよ」
父はグレーテルに、家の中に入るよう促した。
入ってすぐの居間には、胸に空洞を作った母――正確には、母の抜け殻が壁にもたれかかっていた。
グレーテルは歓喜に打ち震えた。彼女と同様、彼もまた覚悟を決めてくれていたのだ。
二人で飢えをしのぐために、ヘンゼルと母を互いの心の中で生かすこと。それが、二人の決めた覚悟だった。
「嬉しい。これからは、あなたと二人で暮らせるのね。お兄さまも、お母さんも一緒のままで」
グレーテルはうっとりとしながら、父の首に腕を回した。そして、唇を重ねる。互いの舌が、貪り合うかのように絡んでいく。
「そうだ、もう誰の目も気にすることはない。飢えることもないんだよ……」
父はグレーテルの細い体に、下半身をぐっと押し付けてきた。グレーテルは彼の股間に手を這わせながら、耳元で囁く。
「愛しているわ、あなた」
父が、グレーテルをテーブルの上に押し倒した。
「僕も、愛してるよ」
「もう、これからはベッドの上でもできるのに」
父がグレーテルを貫くと、彼女の中をたちまち快感が駆け巡った。肉の男とは比べ物にならないほどだ。
グレーテルは、今も焼かれ続けているであろう肉の男を哀れに感じながら、心地よさに身を委ねていった。
この心地よさを、きっとヘンゼルも共有してくれているだろう。父の中では、母が同じように感じているに違いない。
どこまでも、いつまでも、家族四人でいられる。
わかりますかお兄さま、伝わりますかお母さま。
私は今、とっても幸せです。
当初の予定よりも大分短くなってしまいましたが、これにて完結です。




