4~5
4
川を渡り、グレーテルは家のドアを開けた。
中には、誰もいなかった。代わりに、とても香ばしい匂いが鼻先をくすぐった。口の中に涎が広がる。
ドアを入ってすぐ目の前に広がる居間――そこにある小さなテーブルの上に、ステーキの乗った皿が置いてあった。壁際にある暖炉で焼いたばかりのものなのだろうか、美味しそうな香りと共に湯気を立てている。
グレーテルはヘンゼルを放ると、わき目も振らずに皿に飛びついた。ステーキは熱く、とても手で掴めるものではなかった。グレーテルは犬のように、口だけを使ってステーキを貪った。
舌の火傷も厭わず、一口噛み切り、噛み締める。口の中で、肉汁が溢れる。我が家では、ステーキなど滅多に食卓に出るものではなかった。数日ぶりのまともな食事は、グレーテルにとってはあまりにも贅沢すぎた。
「んんっ。ふふぅ」
散々味わってから、ようやくのみ込んだ。思わず、笑みが零れる。ほとんど空っぽだったお腹の中が満たされると、自分がどれだけ飢えていたのかを改めて実感した。
「ヘンゼルお兄さま! これ、とっても美味しいわ!」
これを食べさせれば兄も目を覚ますだろうと、グレーテルは玄関を振り返った。
そこには、見知らぬ人物が立っていた。その人物は何か棒状のものを振りかぶっていて――
「あっ」
同時に、強い衝撃がこめかみを襲った。
グレーテルの意識は、そこで途絶えた。
痛みで、目を覚ました。仰向けに倒れていた体を起こそうとすると、途中で額を何かにぶつけた。それ以上、頭は上がらない。天井にしては、あまりにも低すぎる。
「ここは……」
そこは、狭い檻の中だった。ひどく狭く、四つん這いの姿勢でないと動けなかった。自分の家にも同じようなものがあったことを思い出す。家畜や、狩りで仕留めた動物を閉じ込めておくための檻だ。実際に使用されているのを見たのはほんの二、三回ほどしかない。
グレーテルは、此処に閉じ込められた動物たちに、少しだけ同情した。人間が入るには、あまりにも窮屈すぎる。
鉄格子から外を覗くと、手前には先ほどの小さな家の外側が見えた。外壁には一つドアがあったが、グレーテルがくぐったものではない。どうやら、家の裏手にいるらしかった。
向かって右側には川が流れていて、左側にはグレーテルが閉じ込められているものと同じ檻が二つ並んでいた。
そのうちの一つの中から、ヘンゼルの手がはみ出していた。格子の隙間を抜けてしまうほど細くなった腕は、間違いなく兄のものだった。
「ヘンゼルお兄さま!」
グレーテルは力の限り叫んだ。体は細くなっているとはいえ、ヘンゼルは彼女よりも四歳年上でずっと背が高い。檻の中では、彼女以上に身動きが取れないはずだ。
しかし、ヘンゼルが返事を寄越すことも、骨ばった指がぴくりと動くこともなかった。
代わりに、家の裏口から男が姿を現した。
先ほど、彼女を気絶させた男だ。兄妹の父親よりも、少し若そうに見える。だが、髪も髭もぼさぼさで服も皺くちゃ。目はぎらついていて、肉食の獣を連想させる。
男に見下ろされ、グレーテルはウサギのように体をちぢこませた。
だが、何よりも彼女を恐怖させたのは、男が持つ猟銃だった。それだけで、男が猟人であることがわかる。
男はその場にしゃがみこむと、グレーテルと目線の高さを合わせた。男からは、すえたような臭いが漂ってきた。
「お前よお、何勝手に他人の肉を盗み食いしてんだ?」
男が、格子の隙間に差し込んだ猟銃でグレーテルを突いた。何度も、何度も銃口を彼女にあてがう。
「ご、ごめんなさい……」
ぞっとするほど冷たい銃口が肌に触れる度に、グレーテルは身をよじって後退した。が、一番奥まで逃げても、猟銃は伸びてきた。
「お前が食っちまった分、お前がなんとかしてくれんのか? ええ? お前を食えばいいのか?」
男は猟銃で鉄格子を叩いた。カアンと体の芯を震わせる音が響き、グレーテルは一層怯えた。男は口の端を醜く歪ませ、黄ばんだ歯を見せて笑う。
「本当にごめんなさい。何でもします。何でもしますから、お兄さまと私を助けてください」
グレーテルは瞳に涙を浮かべながら懇願した。目の前にいる男は、本当に彼女を丸のみできそうなほど大きかった。
こんなところで死にたくはない。
飢えと孤独の果てに、彼女に残されていたのは生への限りない執着だった。
「お兄さま? ああ、あいつのことか……」
男はヘンゼルを閉じ込めている檻に目をやりながら、顎髭を弄っていた。
しばらくして考えがまとまったのか、下品な笑顔を目一杯グレーテルへと近づけてくる。このときばかりは、檻の中にいることが幸せに思えた。泥のような目が、彼女を射抜く。男の顔面には無数のイボがあり、それら全てがグレーテルのことを見ているような気がした。
「お前、何でもするんだな?」
グレーテルは黙って頷いた。覚悟もなく言った言葉ではない。ここから出るためなら、何だってするつもりでいた。
「わかった。なら、今から俺の言うことは絶対だ。一度でも逆らったら、お前もお前の兄も助からないと思え。わかったな?」
「わかりました。あなたの言うことに、必ず従います」
改めて口にすると、思わず声が震えた。もう引き返せないところまで来てしまったのだと、辿り着いてから後悔する。
男は満足そうに頷くと、腰の後ろに手を回した。再び手がグレーテルの視界に入った時には、そこに鍵束が握られていた。
「なら、まずは家の中を掃除しろ。埃の一つも残すなよ」
5
グレーテルは男の言うことに従った。ヘンゼルのためでもあり、自分のためでもあった。勝手にステーキを食べた罰だと思えば、たかが掃除ぐらいで彼女の心は折れなかった。
服の袖を破って雑巾代わりにし、床から壁、暖炉、窓枠、隅々まで磨き上げた。
掃除をしていると、男の人となりがなんとなくわかってきた。独り身で、嫁はいない。何処を拭いても埃が出てくる。保存食は木の実や茸以上に、干し肉が占めていた。塩漬けにされた干し肉は暖炉の隅に乱暴に積み上げられていて、一番下のものは完全に腐っていた。こんな環境で暮らしていれば、嗅覚も慣れてしまうのかもしれない。
埃が出なかったのは、暖炉だけだった。暖炉の上には、かまどと思しき鉄の扉が取り付けられている。かまどがあるため、煙突の内側は一部湾曲しているのだろう。扉を開いて中を覗くと、わずかに焦げ臭さが残っていた。今まで嗅がされてきたものに比べれば、随分とましなものに感じる。
家は二階建てになっていて、上の階は寝室として使われている。一階が終わったので、二階に上がって階段を掃除する。
階段は上から掃除する――母がいつもそうしていた。ふいに家族のことを思い出し、グレーテルの胸に暖かな光が生まれた。
生きていける。確かに、そう感じた。今頃、父と母はどうしているだろうか、家で帰りを待ってくれているだろうか。
二階の部屋の真ん中には、小さなベッドが置いてあった。案の定、異臭を放っている。
向かって右側の壁からは幾つかフックが飛び出していて、猟銃が二つそこに掛けられていた。見たところ、銃の手入れだけは怠っていないらしい。
「銃には触るな。シーツの洗濯もしろ」
男が猟銃で指し示したベッドのシーツは、元の色の判別がつかないほど汚れていた。黒や黄色の染みの他にも、土や動物の血などもこびりついている。
抱え込むと、鼻が曲がりそうなほどの悪臭が立ち込めた。あの男を絞ったエキスに浸したかのような臭いに、グレーテルは顔をしかめる。
駆け足で階段を下りて、家の近くの川へとシーツを浸した。根気よく擦っていくと、ほんの少しずつ汚れが薄くなっていった。
男はしばらくその様子を見つめていた。時々グレーテルが振り返ると、見せつけるようにあの下品な笑みを浮かべる。グレーテルは汚いシーツを男に見立てて、乱暴に川の中の砂利に押しつけた。男の顔も、こうして砂利で削ってやれば少しはましになるかもしれない。
グレーテルは口の端を綻ばせながら、もう一度振り返った。が、そこに男はいなかった。
なんだ、つまらない――グレーテルがそう思った矢先に、銃声が鳴り響いた。森の静謐も、川のせせらぎも、一瞬だけ無慈悲な轟音に支配された。グレーテルは、危うくシーツを手放すところだった。
男が狩りに行っていたのだとわかったのは、シーツを干した後のことだった。
彼は、ぴくりとも動かない猪の牙を掴んで引きずっていた。猪の頭部からは、まだ新鮮な血が流れ出している。
「終わったか、なら飯にしよう」
猪を片手で軽々と持ち上げながら、男は笑った。
グレーテルは思わず生唾を飲み込んだ。腹はもっと正直で、情けない音を出してしまった。
男は、ベルトに挟んだ大振りのナイフで豪快に猪の皮を剥いだ。乱暴な手つきのせいか、皮は散り散りに引き裂かれていく。まるで罅の入ったゆで卵のようだった。
しかし、その割にするすると猪の皮は剥されていった。掃除や洗濯といった家事には無頓着であるのに、こういったことに限って男の手際は良い。剥いだ皮は、開け放した窓から次々に投げ捨てられていったのだが。
肉が露になった猪は、この世の動物とは思えない姿だった。男はそこからさらに内臓を取り出し、部位ごとに肉を丁寧に切り分けていく。男は保存用に塩漬けにするものをそこから選び出し、テーブルの隅に除けた。
「まあ、こんなもんだろ」
グレーテルにはどういう基準があったのかわからないが、残った部位を薄く切っていくと、猪は遂に彼女も目にしたことのあるような肉へとその姿を変えた。男は完成だと言わんばかりに、テーブルにナイフを突き刺した。木製のテーブルに、ナイフは浅く、だがしっかりと固定された。禍々しいまでに無骨なナイフに、グレーテルは改めて恐怖を覚えた。
大きさこそ、グレーテルでも片手で扱えそうだが、峰は分厚く、まるで斧をナイフの形に削ったようだった。イノシシを斬り落とす際も、叩くかのようにして振り下ろしていた。
「暖炉に火をつけろ。やり方はわかるな?」
グレーテルの前で、まだ焼けていない肉をちらつかせながら男が言った。彼女は餌を欲する犬のように、何度も頷きを返した。
グレーテルは誘われるように暖炉の元へ向かった。すぐ横で無造作に積み上げられている薪を暖炉にくべて、乾燥した藁をその上に重ねた。火をつけたマッチを放り込んで、藁に引火させる。火はやがて薪に燃え広がり、炎に変貌した。パチパチと音を立てて燃え盛る炎の熱が、川の水で冷えた両手を優しく溶かしていく。
「ふん。そんなに肉が欲しいのか」
男はグレーテルと暖炉の間に割って入ると、かまどの扉を開けた。二切れの肉を、中に放り込む。かまどには鉄板が敷かれており、たちまち熱気が充満したその中で、肉がじゅうじゅうと食欲をそそる音を奏でる。
グレーテルは、男の陰からその様子を眺めていた。
「さて、肉が焼けるまでにはまだ時間があるな」
男が唐突に、彼女に体ごと振り返った。グレーテルの倍近い背丈のある男の存在感に、グレーテルの心臓が跳ねた。思わず一歩後ずさりしたところで、片腕を男に掴まれる。痛くはないが、どんなに力を込めても振り払えない。
グレーテルの困惑を余所に、男は片手で器用に自らのベルトを外していく。
「何でも言うことを聞くんだろ?」
泥のような目が、先ほどよりも濁っていた。歯の隙間から零れる吐息が、グレーテルの頬を舐める。
ベルトを使って、男はグレーテルの両手の自由を奪った。瞬間、グレーテルは己の身に迫る危険の正体を理解した。理解したところで、もはや逃れる術はなかった。
男は自らの下半身を露にしながら、グレーテルを後ろ向きに立たせた。バランスを崩しかけたが、ベルトで縛られた両手で、テーブルの端を掴んで踏み止まる。男に尻を向ける格好になっていることに気づき、いよいよグレーテルは背筋が凍りつかせた。
スカートをたくし上げられ、下着が力任せに引きちぎられる。グレーテルの股の間を、風が通り抜けていく。その冷たさの次にやってきたのは、固く熱くなった男のそれだった。
男の突きは激しかった。グレーテルは、男のそれが己の奥に到達する度に声を上げた。そこに悦びなど、見出せるはずもなかった。あるのは、痛みを伴う屈辱だけだ。
グレーテルは、皮を剥がされた猪の頭を見つめた。目玉をくり抜かれた猪は、その窪んだ眼窩でグレーテルを見下ろしている。
ここには、肉しかない。肉のような男が、肉を食って暮らす、肉の家だ。グレーテルは、歯を食いしばって耐えた。
ここで男の肉に成り下がるなど、地獄以外の何物でもない。グレーテルは、最愛の家族と一緒に暮らしたいのだ。
グレーテルの指が、何かに触れた。テーブルに突き立てられたままの、無骨なナイフだ。幼いころに聞かされた、勇者の話を思い出す。
――勇者ならば、この剣を引き抜くことができるはず。
グレーテルは横目で男を見やる。腰を振るのに夢中になっている男は、「ああ、ああ」と息が抜けるような声を発しながら天井を仰いでいた。この機を逃すわけにはいかない。
グレーテルはまず、突き立てられたナイフの刃に、両手首を縛るベルトを擦りつけた。音を気取られないように、わざと甘い声を出しながら。
やがてベルトが切断され、両手が解放される。グレーテルは素早くナイフを掴むと、上体を起こした。
「ん、お前――!」
振り上げたナイフは、そのまま男の額に突き刺さった。
溶けた脂身のような液体を迸らせながら、男は倒れた。




