1~3
あらすじにも書いてありますが、本作はグリム童話『ヘンゼルとグレーテル』をベースにしたオリジナルの小説です。
原作と違い、魔女もお菓子の家も出てきません。
その分、読者の皆様を楽しませることができるように頑張ります。
1
夜。
部屋のランプの灯は消え、微かな月明かりだけが辛うじて二人の輪郭を闇に浮かべている。
男と女が、テーブルを挟んで向かい合っていた。
「もう、限界だ」
男の方が切り出した。ここ数日、夜な夜な二人で積み上げてきた沈黙が、ようやく破られた。
女は、その言葉が来るのがわかっていた。だから、何も言わなかった。
「このままだといずれ食料の底が尽きてしまう。畑の野菜も、半分以上はだめになってる。次の冬を越せるかどうか……」
男はテーブルの上で、両手の指をせわしなく動かしている。薄暗い視界の中で蜘蛛のように蠢くそれが、女にとっては少々不愉快だった。
男がこちらの様子を窺うかのように、顔を俯けたまま視線だけを寄越してきた。頼りない男だと、女は思う。
「なら、覚悟を決めないと」
「……」
今度は男が黙る番だった。
やはり、こういう時に限って頼りにならない。不満や後ろ向きのこと以外、何も言えないのだろうか。
畑の不作は、二つ前の秋の時点でわかっていたことだった。土が悪いのか、単に男に農業の才能がなかったのか、それはわからない。
やがて金も食料も尽きて、家族四人で飢え死にしてしまう――そう言ったのは、男の方だ。
「あの二人を何とかしないと、生きていけないんでしょう? だったら明日、森に行かないと」
「森に? どうして?」
男が問う。
察しが悪いなと思いながらも、女はテーブルに身を乗り出した。男は別に、覚悟を決めることを否定してはいないのだから。
「いい? まずは森に連れていって、たき火を焚かせるように言うの。それから――」
女は、自分が考えていた計画を話した。あの二人を何とかするためには、この方法以外ないと考えていた。
計画を聞いた男の顔は青褪めていった。だがしばらくの沈黙の後に頷いた。それを確認した女は、テーブルの上に四つん這いになり男に近づいていく。
「愛してるわ、あなた」
男の顔を両手で持ち上げて、唇を奪う。粘膜で愛を奏でながら、女は男の膝の上に跨った。
「僕も、愛してるよ」
絡ませた舌を離すと、男が鼻息を荒くして言った。
そして、女をテーブルの上に押し倒した。
2
「お父さんもお母さんも、戻って来ないね」
たき火の火を見つめながら、ヘンゼルは呟いた。
隣には、同じように膝を抱えて座っている妹のグレーテルがいる。
「ヘンゼルお兄さま、少し寒くなってきたわ」
グレーテルは肩を震わせながら、ヘンゼルに寄りかかる。ヘンゼルは、何も言わずに彼女を抱きしめた。
夜の森は、冷たい静寂に満ちている。もう冬が近い。いつもなら、二人で暖炉の近くで暖を取っている頃合いだろうか。
夕方、父と母に連れられて、ヘンゼルとグレーテルは森の中に入った。家からそう遠くないところに広がる、鬱蒼とした暗い森だ。木の根がのたうち、雑草が行く手を阻むかの如く生い茂る獣道を歩いていき、辿り着いたのがこの場所だった。一際大きい樹木がある以外は、目印になりそうなものなど何もない。
父と母は二人に「この近くできのこが沢山取れるらしいから、今日はそれを食べよう。二人は火を焚いて待っていてくれ」と言い残し、森の中に消えて行った。
日は完全に暮れ、焚き火も燃え尽きようとしている。
「グレーテル、もしかすると僕たちは……」
ヘンゼルは、そこで口を噤んだ。これ以上、妹を追い詰めたって何の意味もない。グレーテルはまだ十三歳だ。父と母が自分たちを捨てたと聞いたら、涙を流し悲しみに暮れてしまうだろう。そうなってしまえば、今のヘンゼルにはいよいよどうすることもできなくなってしまう。
それに、自分の考えは憶測の域を出ていない。単に父と母は、森で道に迷ってしまっただけかもしれないのだ。
「ヘンゼルお兄さま、どうかしたの?」
「ううん、なんでもないよ」
そう言って、ヘンゼルはグレーテルの頭を優しく撫でた。妹に嘘を吐いたことで、ちくりと胸が痛んだ。だが、これが彼女の涙の代わりになる。そう思えば、取るに足らない痛みだ。
ヘンゼルにとって、グレーテルは父と母以上に大切な家族だった。なんとしても、彼女だけは助けてやりたい。彼女だけは生きてほしい。そう思っていた。
森の中は危険だ――そう言ったのは、父だ。そして、森に置いてきぼりにしたのも父だ。母もそれを止めなかった。
もうグレーテルを守れるのは、自分しかいない。ヘンゼルは決意を新たにし、上空を見上げた。
今は夜。辛うじて木の葉の隙間から窺える空さえも、底無しの闇に沈んでいる。見渡す限りの木々の群れは格子に見え、まるでどこまで歩いても出られない檻の中にいるかのようだった。
「今日はもう、寝よう。朝までにお父さんとお母さんが来なかったら、二人で家に帰ろう」
グレーテルを見ると、彼女はヘンゼルの腕の中ですやすやと寝息を立てていた。
「……もし帰れなくても、二人で生きていこう」
ヘンゼルは妹を起こさないように、慎重にポケットの中を探った。
中には、一切れのパンと火を起こすためのマッチしか入っていない。
これだけで、あと何回朝を迎えられるだろうか。
翌日から、二人は森の中を散策し始めた。
しかし、進んでも進んでも、一向に出られる気配はなかった。
そうして三度目の朝を迎えた日。
ヘンゼルは、目を覚まさなかった。
3
「お兄さま、ヘンゼルお兄さま」
グレーテルが何度呼びかけても、ヘンゼルは返事をしなかった。起きる気配が、まるでない。
「お兄さま?」
彼の腕を取った瞬間、そのあまりの細さにグレーテルは思わず手を引っ込めてしまった。
ごとっ、と音を立てながらヘンゼルの腕が力なく落ちる。森の中を彷徨っている間、あんなにも頼もしかったものが、今やグレーテルと同じぐらいか細くなっている。
自分が独りぼっちになってしまったようで、グレーテルは両手で自分を抱いた。自分の非力な手では、慰みにもならなかった。
「大丈夫だよ、グレーテル」
道中、何度も聞いたヘンゼルの声が、心の中から遠ざかっていく。分け与えてくれたパンも既に食べきった後だ。マッチも、残りは数本しかない。
ヘンゼルが動く気配は、全くなかった。起きているのか、眠っているのか、それとも――
グレーテルは首を振った。そんなことを考えている余裕など、ない。今はただ寝ているだけなのだと、疲れ果ててしまっただけなのだと、必死に自分に言い聞かせる。
グレーテルは、三つ上の兄を背中に担いだ。幸か不幸か、背負って歩けなくなるほど重たくはなかった。ヘンゼルの頭が、力なく彼女の肩に乗った。
「まだだめよ、お兄さま。死んではだめ」
なんでもいいから、ヘンゼルを助けるためのものが欲しかった。水か、食料か、暖かい暖炉。とにかく、ヘンゼルが目を覚ませそうなものを。
日はまだ高い。だというのに、森の中に注がれる木漏れ日はほんの僅かしかない。
グレーテルは、誘われるように日の当たっている点を辿った。いつかは大きな光の下に辿り着けるかもしれないという、ささやかな望みを抱きながら。
森の中は、人間そのものを拒絶していた。まともに歩ける道など何処にもなく、グレーテルは何度も木の根に足を取られた。ヘンゼルを背負っているため、顔を地面にぶつけてしまうことも少なくなかった。
「大丈夫よ、絶対に」
ずり落ちそうになるヘンゼルを背負い直す度に、グレーテルは声を振り絞った。ヘンゼルからの返事は、ない。
日を追うごとに、ヘンゼルの体は軽くなっていった。
ヘンゼルが軽くなれば、その分一日に進める距離は長くなる。グレーテルは、そんなことをふと考えてしまう自分自身に恐怖を覚えた。ヘンゼルが軽くなるほど、その命の灯も小さくなっているというのに。
同時にグレーテルは、家の近くにあった森が想像以上に深いことに驚いていた。自分が森の中のどの辺りを歩いているのか、全く見当もつかない。グレーテルの知る世界など、家と畑と家の近くの村だけしかなかった。森の深遠さは、グレーテルの体に蔦の如く絡みつき、恐怖を刷り込みながらゆっくりと絞めつけてくる。まるで森そのものの養分にされてしるかのように、少しずつ力が抜けていった。飢えがグレーテルに根を張り、その足取りを日に日に重くしていく。
どこかに食べられそうなものはないかと、グレーテルの視線は常に彷徨っていた。だが森には一輪の花すら咲いていない。動物も、ほとんど見かけない。グレーテルは、リスやウサギが近くにいないか、虚ろな瞳を何度も往復させながら、足を引きずる。
「あ…………」
彼女の願いが、木漏れ日を伝って天に届けられたのか、それは聞こえてきた。
森の静寂に沿うようにして、微かな音が流れている。
グレーテルは耳を澄ましながら、音のする方へ足を進めた。
近づくにつれて、グレーテルにも音の正体がわかってきた。砂を掬い上げるときのような音が、途切れることなく続いている。
彼女の足音を上回るほど音が大きくなると、ようやくその正体が目に入った。
「川だわ。お兄さま、川よ!」
森の中を、小さな川が流れていた。濁ってはいるが、底に敷き詰められている小石や砂利も見える。幅は三、四歩分くらいだろうか。
グレーテルはヘンゼルを岸に寝かせ、自分は服を脱いで水の中へ足を踏み入れた。底は浅く、くるぶしの辺りまでしかない。
両手で水を掬った。やはり少し濁っているが、構わず一気に飲み干した。それを何度か繰り返したあと、ヘンゼルにも飲ませてやった。少しだけ、彼の顔色が良くなったような気がする。
そこで、グレーテルは思い出した。確か家の近くにも、川が流れていたはずだ。これが、大きく湾曲して家の方に続いているのだとしたら……
流れに沿って歩いて行けば、家に帰れるかもしれない。水だけでなく、明確な道標を見つけられたことに、グレーテルは神に感謝したいくらいだった。
薄暗い森に、まさしく一筋の光が差し込んだのだ。
「これで、お家には帰れる……」
グレーテルは、川の先に久しく見ていない家を思い浮かべた。
早く帰りたい。帰って、また家族四人で暮らしたい。
そのためには、なんとしても兄を助けなければならない。
グレーテルは服を着て、再びヘンゼルを背負った。
ふと、視界の隅に何かを捉え、彼女は上流の方に目をやった。
「あれって……」
反対側の岸に、ひっそりと佇むようにして小さな家が建っていた。
ごくり、と、グレーテルの喉が鳴った。