後編
「おはよう」
「おはよう、光くん」
翌日、こころは普段と変わらない様子で、分厚い文庫本を読んでいた。
「今日はまだ新田さんは来てないみたいだけど、大丈夫?」
キリの良いところだったのか、こころはプラスチックの栞を挟んで本を置いた。ファンタジーっぽいタイトルの小説だった。
「だいぶ良くなってるよ。早ければ明日にも来るんじゃないかな」
本当なら今日から来る予定だった――らしい。ただまあ、あんなことがあったら登校する気分にはならないだろう。体力的には大丈夫だけど、精神的に厳しいものがある。無理に登校させるのは酷だ。
「今日は一緒に帰れる……かな?」
少しだけ心配そうに言った。
「そうだね、見舞いもほどほどにしないと、帰って疲れさせちゃうからね」
本当は――。
本当は、今夜会う約束をしている。昨日のことがあって、友乃を信じていないわけじゃないのだけど、こころがそういうことをするとは思いたくない。信じたくないから、こころと一緒にいる時間を作ることにした。お見舞いが友乃を疲れさせるというのはただの方便で、ぼくは――こころがやったことじゃないという確信を得たいだけなんだ。
昨日、友乃部屋にて。
「倉木さんだったんだ。さっき、ここに来てたの」
友乃が嘘を言っているようには見えなかった。それに嘘をつくことに全く意味がない。ただ、嘘であってほしいとは思っている。
記憶が混同していると思いたい。
「こころが?」
だけど友乃とこころには、クラスメイト以上の接点はないはずだ。同じクラスになったのも初めてだと言っていた気がするし、話したことだってあまりないはずだ。そんな間柄なのに、どうしてこころがここに来る用があるんだろう?
「……うん」
友乃の表情は浮かない。
「あのさ、光。怒らないで聞いてほしいんだ」
「なんだい?」
友乃は言いにくそうに、言葉を選ぶように黙った。
「怒らないよ。ぼくと友乃の仲だろう?」
「……あたしさ、倉木さんに殺されるかもしれない」
両手で自分の肩を抱き、不安に震える。冗談でも何でもなく、本気でそう言っている。一瞬約束を破りそうになったけれど、そんな友乃を見ていたら、そんなことさえできなくなった。それに、それはさっきも言っていた。
「さっきも言っていたね」
「去年うちの学校で起きた事件、覚えてる?」
ぼくらの学校で語り継がれる(と言っても去年だけど)最大の事件で、そして最悪の事件。
「もちろん。たしか、今頃の時期だったよね」
ぼくらの数少ない――いや、唯一とも言っていいタヴー。
教室に置かれた『彼女』の机には誰も寄り付かず、掃除の時ですらその場を動かない不動の席。
そこまで忌避されるアレを、どうして友乃はわざわざ取り上げたのか。
「アレと今回のこれにはどんな関係があるんだい?」
繋がりは全くない。ぼくはあの事件の当事者のことは全く知らない。だけど、それだけに、友乃があの事件を持ちだしたことには意味があるはずだ。
「倉木さんを見てたらさ、あの事件のことを思い出したんだよ。倉木さんはさ、たぶんあたしを殺せる人だよ」
「友乃」
ただ名前を呼んだだけなのに、友乃はビクッと肩を震わせた。
ぼくにさえ、怯えてしまっているのか。
そんなことにならないために、ぼくがいるのに。
「友乃。ぼくのことなら何でも信じるよ」
「え?」
「でもさ、今回はあんまり信じたくないかな」
「あたしが殺されるかもしれないのに?」
「……そういう意味じゃなくてさ、ぼくはこころも信じたいんだ」
こういう時にすぐこころを疑ってしまうのでは――完全に悪者にしてしまうのでは、ぼくは彼氏失格だ。本当にそうだと確信を得るまで、それでは手遅れになってしまうかもしれないけれど、ぼくは彼女を最後まで信じていたい。
どちらかを信じれば、どちらかを信じていないことになってしまう現状だけど、ぼくは本音で、心底、どちらも信じていたい。本当なら友乃のことは無条件で信じてもいいんだ。
「ねえ、光くん。どうしてぼうっとしてるの?」
「え? あ、なんでもないよ」
「そっか」
くすり、とこころは笑う。そうだった。今は学校にいるんだった。
前に感じた恐怖にも似たあの感覚は気のせい――だったのだろうか。それとも、気のせいじゃなくて、本物だったのだろうか。
否。
ぼくは友乃を信じると同時に、こころを信じる。それがぼくの役割だし、ぼくはその役割を全うしたいと思っている。これはぼくが作ったルールだ。自分で決めたルールは自分で破ることはできるけれど、それを破った瞬間に、ぼくはぼくを信用できなくなるだろう。
後ろが空席で、なんとなく物寂しい時間が過ぎて、昼休み。こころは先生に呼び出され、職員室に向かった。また何かを手伝わされているのだろうか。残されたぼくは空いた弁当箱を片づけて、教室の中を何をするでもなくふらふらと歩いた。
なんとなく、ぼくは不動の机の前に立ち止まった。運動場側の窓際の最前列に、その机はある。事件の後、行方不明になった被害者の女の子の席。普段は別世界のように誰も近づかないその席の前、ちょうどその席に座っていること話すような体勢で、ぼくは窓枠にもたれかかった。
何かが見えるような気がしたけれど、そんなわけはなかった。
結局、机は机でしかない――そういうことなのだろう。
「そこで何してんだ?」
「考え事、だよ」
声をかけてきたのは、どこか沈んだ表情の恭介だった。
「別にそこで考えなくてもよくないか?」
不動の机。
やっぱり不快に思う人はいる。すこし、というか、かなり軽率だった。
「なあ恭介」
もたれていた壁から離れ、教卓に手をつく。恭介はただその場に立っている。
「きみにこんなことを聞いても仕方ないと思うけど、ぼくはどうしたらいいと思う?」
事情は話していないし、恭介には知る由もないことだ。聞くほうがどうかしている。それでも聞かずにはいられなかった。
誰かに――聞きたかった。
それは恭介である必要はなかったはずだ。けれど質問をした今は、それが恭介でよかったと思う自分がいる。
「人間、自分ができることしかできないんだぜ」
恭介は特に考える間もなく、そう言った。
「俺の親友がそう言ってた」
「きみじゃないのか。ま、ありがとう。何か見えそうな気がするよ」
「そうかい」
自分にできることしかできないなら、今のぼくができることをすればいい。やりたいと思うことをやればいい。それはきっとぼくにしかできない。そしてそれが一番いいことなんだ。そう考えると、なんとなく気持ちが楽になった。放課後にこころに寄り道しようと誘われた時も、何の迷いなくうなずくことができた。
日曜日に来たばかりの喫茶店に入る。夕方のこの時間帯は、どちらかというと、ぼくたちのような学生の姿が多い。前に来た時と同じ席に座り、今度はコーヒーを注文した。
「こころは?」
「あ、わたしはアップルティーを」
ウェイトレスさんはハキハキと注文を復唱して、愛嬌のある笑顔を残してカウンターの奥に消えた。
「なんだかすごく久しぶりな気がするよ。こうやってふたりで話すの」
「そうかな? 学校ではよく話してるし、日曜日にはここに来たじゃないか」
少なくともぼくは、こころのように久しぶりだというような感覚はない。
「それはそうなんだけどね、わたしとしてはさ、なんとなく寂しかったんだ。新田さんが体調を崩してからの光くんは、いつも目の前のことに集中してないように見えたし、いつも新田さんのことを心配してるみたいだったから」
目の前のことに集中していない、か。確かにそうだったかもしれない。友乃のことを心配して、目の前にいるこころを置いてきぼりにしていたようにも思う。
しかし、だ。
「もう大丈夫だよ。解決したからね」
本当は解決なんてしていない。問題は山積みで、今にもその山は崩れそうだ。しかし理由はどうあれ、こころを不安にしたという事実は反省しなくちゃいけない。ぼくの勝手な思い悩みで、こころに無用な心配をかけてしまった。
「無用な心配なんてないんだよ」
こころは優しく微笑んだ。
「心配っていうのはね、愛情の証明なんだよ。愛されない人は、心配なんてされないんだから。だからね、どんな心配でもさせて」
「いや、でもさ……」
なかなかそうは割り切れない。心配をかけることは良くないことだと、ぼくはずっと思ってきたのだから。
「じゃあ、そうだね、わたしに心配をかけてもいいけならど、不安にはさせないで」
「心配と不安は違うのかい?」
「うん、全然違うよ」
ぼくにはその違いがよくわからなかったけれど、こころがそう言うのなら、歴然たる違いがそこにはあるのだろう。ならぼくの答えはひとつだ。
「わかった。努力しよう」
これはぼくにもできる努力だ。いや、ぼくにしかできない努力なのかもしれない。今のぼくの立場が、この努力をすることを許されている。ほかの誰かでは、この努力をすること自体が許されないだろう。
ウェイトレスさんがコーヒーとアップルティーを運んできた。
「ご注文は以上でよろしいですか?」
「はい」
ウェイトレスさんは営業用とは思えない笑顔で、「ごゆっくり」と言って歩いていった。ああいう笑顔は素直に素敵だと思う。こころの前だけど、そう思ってしまうのは男の性っていうやつだ。
「コーヒー、おいしいでしょ?」
ぼくが一口飲むのを待って、こころが言った。
「そうだね。これならぼくでも飲めそうだよ」
苦味と甘味のバランスが丁度良い。さらに味に深みがあって、香りも味わい深い。コーヒーを滅多に飲まないぼくでも、それくらいの評価ができるコーヒーだ。
「今日はアップルティーなんだね」
「うん。今日はそういう気分なんだ。それに――」
「それに?」
こころは答える代わりに、ぼくのコップに手を伸ばした。ごく自然な流れで、ぼくのコーヒーを飲んだ。ぼくは何も言えず、ただそれを見ているだけだった。
「間接キスだねって、自然に言えるからね」
さすがに恥ずかしかったのか、こころの頬は少し赤みをさしていた。店の外は見事にどんよりとした天気だけど、ここは快晴だ。
「自然かどうかの議論はまたにするとして、ぼくのコーヒーを飲んだんだから、きみのアップルティーもくれるよね?」
「あら」こころは意外そうな顔で笑った。「まだ一週間も経ってないのに」
まあ。
言いたいことはわかる。
答える代わりに、ぼくはこころのアップルティーを飲んだ。もちろん、さされたストローを使ってだ。
「間接キスってやつだね」
こころは小さく笑うと、コップを自分のほうに引き寄せた。
「それは女の子が言うから価値があるセリフだと思うな」
「そんなものかな?」
「たぶん、ね」
なるほど、それは知らなかった。しかしどうだ、こういう系統のセリフって、ほとんど女の子に有利に設定されているように思う。セリフに限らず、恋愛のあれこれは女の子――いや、より広義的に言うと女性のほうが有利だと思う。
「そうかもしれないね。あ、今ふと思ったんだけどね、女の人は何歳まで女の子って呼んでいいのかな?」
これはまた難しい質問だ。
「そうだね……三十歳くらいかな。可愛い系とか美人系かの顔つきの違いにもよるだろうけれど、可愛い系の人なら三十歳くらいではいいんじゃないかな」
「美人系の人は?」
「美人系の人はそもそも女性って呼んだほうがしっくりするかな。それかお姉さん」
ぼくがためらいなくお姉さん、と呼べるのはだいたいそれくらいの年齢だ。こんなことを言っておいて、二十歳以上と思う人を女の子だなんて言ったことはないのだけど。
単純にそれ、失礼じゃないか?
「てことはさ、光くんにとって三十以上の人っておばさん?」
「おばさんとまでは言わないけど、女の子とは言い難いかな」
女性の呼称は難しくて困る。テキトーな呼び方をすると機嫌が悪くなるし、気を遣うとそれはそれで角が立つ。一体全体、女の人はどうしてほしいのだろう。
しかして。
この議論は結論が出ることなく、ごくごくありふれた結末として、話題の転換によって打ち切られた。お互い、この議論にはまったく生産性がないことに気づいたのだ。
「ところでさ」と、こころが切り出した。「今日も新田さんのお見舞いに行くの?」
どうしてここで友乃の名前が出てくるのかは不思議だったけれど、こころも友乃を心配しているのだろう。表情は真剣そのもので、今まで聞こうとしてやっと今、その質問を投げかけたといった雰囲気だ。
「いや、その予定はないけど?」
友乃に嘘をついたことに、少し胸が痛む。特に理由はないけれど、行かないことにしておいたほうがいいような気がした。
「そっか」
「どうしてそんなことを聞くんだい?」
ここは友乃の言葉に従って、一応、こころに揺さぶりをかけてみたほうが良いかもしれない――そう思っての質問だ。自分の彼女に揺さぶりをかけるなんて、本来なら極力避けるべき――というか、ふつうならしないことだけど、今回はそれが不可欠かはさておいて、必要なことではある。ぼく自身のためであるし、友乃のためでもあるし、こころのためでもある。
妙な疑念は、早くなくなったほうがいい。
「ちょっと気になっただけだよ。光くん、新田さんをとても心配してるみたいだから、今日も行くのかなって」
心配は愛情の証明――だっけ。その考え方なら、こころが気になってしまうというのもわかる気がする。だけど、ぼくが友乃に向けるそれと、こころに向けるそれでは、その性質は違う。友乃に向けるそれは、そういう愛情じゃない。
「あ、そうだ、光くん」
「なんだい?」
「わたしね、聞き分けのできない人って嫌いなんだ」
何か悪いことを思い出したのか、不機嫌そうな顔で言った。
「確かに聞き分けの悪い人は、いろいろと困ることがあるよね」
しかしそれがどうしたのだろう。今ここで話すような話題じゃないような気がする。それとも暗に、ぼくを揶揄したのだろうか。こころは「そうなんだよ」と、ぼくが同意したことがうれしいのか、今度は満足そうにうなずいた。
どうやらぼくを指して言ったわけではなさそうだ。
「そういう人にはどうしたらいいかなって」
「どうって?」
別にどうもしなくていいと思う。確かに周りの人は困るけれど、良くも悪くも――同じだ。いてもいなくても同じ――であるとぼくは思う。結局、そういう人たちは周りから無視されて孤立していくし、それは正しい対処で、ある程度の見切りをつけて相手にしないようにすればいい。
「わたしは光くんとは違って、無視できないんだ。そうするのがきっと一番楽で、一番手っとり早いのはわかるんだけどね」
「じゃあ我慢の子になるしかないんじゃないかな?」
あまりしつこく言い続けて、その人とケンカになってしまうのもつまらない。
「ううん、難しいね、人と付き合うって。あっ、別に光くんがそうだって言ってってるわけじゃないよ!」
慌ててフォローを入れる。
「もしかしたらそうなのかなって思ってたから、それを聞いて安心したよ」
「そんな軽口叩くなんて、やっぱりちょっと変わったね? 新田さんと関係があるのかな?」
また友乃だ。
どうしてここで友乃が出てくるんだ?
「友乃? 友乃は関係ないと思うよ。ぼくとあいつは幼馴染みたいなものだからね」
「ふぅん……あ、ごめんね、わたし先に帰るよ」
「え? どうしたんだい?」
誘ってきたのは友乃なのに。ぼくが何か余計なことを言っただろうか。
「ちょっと、ね」
そう言ってこころは立ち上がり、荷物を持って出て行ってしまった。あれ? そういえばまだ会計を済ませてないぞ。まあお茶の一杯くらいおごるくらいやぶさかではないけれど、一言くらい言ってくれればななぁ……。
それにしても、だ。
「なんなんだ、一体」
よくわからない。まだ付き合い始めたばかりのぼくには、こころの心の機微を理解することはできなかった。
会計を済ませて外に出る。男一人であの空間にい続けるのは、いささか難易度が高い。だというのに、ぼくが外に出た途端に、まるで待ち構えていたかのように雨が降り出した。それは見る間にアスファルトに黒い染みを作り、全体を覆った。雨が地上を叩く音がまたたく間に大きくなる。
「ま、いっか」
服は濡れたら洗うなり乾かすなりすればいいし、体が濡れたらシャワーを浴びればいい。つまり雨宿りをする必要もなければ、近くのコンビニに駆けこんで、本来なら必要もない傘を買う必要だってない。とりあえず今日は濡れて帰ろう。そうすれば、このもやもや感も少しはマシになるだろう。友乃には悪いが、少し待ってもらうことにしよう。
それにしても、これだから梅雨ってやつは嫌いだ。降らないと思っていたら突然雨が降るし、降ると思っていたら降らない。予定が狂ってばかりだ。元々雨が多くて霧がかかりやすいこの土地だ。梅雨が来なくても――は言い過ぎとしても、ちょっと降らないくらいで水不足にはならないのだから、やっぱり悪いことばかりだ。
雨足は強く、体に当たる雨が痛い。数分と歩かないうちに、全身がびしょ濡れになってしまった。そういえばこころも傘を持っていなかったような気がするけれど、大丈夫だろうか。まさかぼくみたいなことはしていないと思うけど。
絶壁の令嬢、である。
「ぼく、何か悪いことしたかな?」
思い当る節はない。むしろ誠意を尽くしているとさえ思っている。
カマをかけたけど。
しかしまあ、理由はどうあれ――それもまた自分のせい、か。うかつなことをするもんじゃないよね、全く。
喫茶店からの帰り道、方向の関係から友乃の家の近くを通ることになる。元々家は近いのだけど、あの喫茶店に行くと、友乃の家の横を通らずに帰るのが一番近くなる。友乃家まではまだ少し離れているけれど、その屋根は見えた。
「あれ?」
今、誰かいた?
一瞬だったけれど、たしかに誰かが傘もささずに走って行った。たぶん、このあたりの女子生徒だ。着ていた服がうちの高校の制服だったように思うから、突然の雨に慌てて帰宅している――といったところか。かわいそうなものだ。ぼくは男だからいいものの。
今から全力で彼女を追えば、もしかしたら雨に濡れて透けてしまった制服の内側を見ることができたかもしれないけれど、さすがにそこまではしなかった。そこまで女性との下着に飢えていない。
ところが、ぼくはどうあれ――ぼくを取り巻くこの世界は、ぼくにそれを見せたいらしい。
さっき走り去ったはずの女の子が、いまだ走り去っておらず(何を言ってる川らかないと思うけれど、これは事実だ)、道の真ん中で立ち止まっていた。十字路の右手側の道、ちょうど友乃の家に向かう道だ。女の子の白いブラのホックが見えるが、ぼくはそれどころではなかった。
「友乃?」
雨に打たれる女の子の向こう側に、水色の傘をさした友乃がいた。どうして友乃が外にいるんだ?
「あ……」
友乃もぼくに気づいたみたいだけど、その後の行動が謎だった。というか、意味不明だった。
「逃げて!」
馬鹿馬鹿しいほどの必死な表情で、友乃が叫ぶ。
「逃げて! 早く! 光!」
叫ぶ友乃。
その叫びに動揺したのは、しかし、ぼくではなくてぼくと友乃の間に立っている女の子だった。体をビクッと振るわせ、恐る恐ると言った風に――ぼくのほうを振り返った。
「――――っ」
「……あ。見つかっちゃった」
平静を装っているけれど、彼女はこの上なく取り乱していた。元々は友乃に向けられていたそれは、今はぼくに向けられている。普段なら絶対にぼくに――ぼくに限らず誰にだって向けないはずのそれを。
「光……くん」
「こころ、それを足元に置くんだ」
全身が雨に濡れ、見るも哀れな姿になっている。十分も前なら、ぼくはこの光景を眼福と言って喜んだだろうが、今はそんな余裕はない。こころが手に持つそれが、凶悪に光っているからだ。
「それを――置くんだ」
知らなかった。まさか千枚通しがこんなに恐ろしいものに見えるだなんて、思いもしなかった。包丁なんかよりもよっぽど怖い。比較的どこででも使われているその文房具。束にした紙を簡単に貫くその貫通力。
「ねえ、光くん」
世界が終わった――さっきまでのこころはそんな顔をしていた。しかし今は、開き直ったような、悟りきったような、そんな「何もない」顔をしていた。次に何をしだすかわからない――そんな危うさを孕んだ顔。しかし「何もない」。
友乃は自分からこころの視線が外れたことから来るからか、その場に崩れた。傘も取りこぼしてしまい、今やぼくらの仲間入りだ。
「こころ……きみは何がしたいんだ?」
見つけたのがぼくだったから、まだ騒ぎは大きくなっていないものの、他の誰かだったなら今頃警察が動いている。
こころはしかし、その両手に千枚通しをしっかりと握っている。今にも均衡が崩れてしまいそうな、不安定な雰囲気。張りつめて、重苦しく、そして不安定だ。
「ねえ、光くん。わたしと新田さん、どっちを選ぶの?」
「どういう……意味だい?」
「大切なのはわたしなの? 新田さんなの?」
千枚通しを持つ手に力がこもる。
「あ、でも、さっき新田さんのところには行くつもりはないって言ってたよね? でも今はここにいる――やっぱり新田さんのほうがいいのかな?」
ゆらり。
幽鬼のように、こころはその視線を友乃に移す。
「ひっ」
友乃から声が漏れる。
「あなたがいたからだよ。あなたがいるから、わたしは光くんの一番になれない。光くんはわたしを――わたしだけを見てくれないの。言ってること、わかるよね?」
一歩――友乃に近づく。
「何言ってるんだよ、こころ。ぼくが好きなのはこころだよ。だからこうやって付き合ってるんじゃないか。恋人になったんじゃないか」
ぼくはこころを蔑ろにしていたわけじゃない。体調が優れない友乃を心配していただけだ。
親友の――家族にも似た友達の相談に乗っていただけだ。
「あなたさえいなければ――」
気づいた時にはぼくの体は動いていた。ははっ――人の体って言うのは、こういう時は理性では動かないみたいだ。
「友乃!」
友乃に襲いかかろうとするこころを道の脇に突き飛ばし、道に座り込んでいる友乃の肩を抱く。友乃の体は震えていた。雨に打たれた寒さでそうなっているわけじゃないことは、考えるまでもないことだった。
友乃をかばうように、ぼくは立ち上がってこころのほうを見た。
「そうなんだ。やっぱり新田さんを選ぶんだよね」
こころの声は震えていた。ぼくたちを射殺さんばかりのその目は、涙をたたえている。零れた涙は雨に流され、まるで元々なかったかのように消えた。
「でも、新田さんがいなくなったら、またわたしだけを見てくれるようになるよね。だって、わたしたち恋人同士だもの」
「こころ、そんなことをしなくても、今ならまだ大丈夫だよ。ぼくはきみのことを見るし、ぼくたちは変わらず友達だ。恋人だ」
「嘘だよ。わたしは光くんのことなら何でもわかるよ。好きな漫画、好きなアニメ、好きなアイドル、好きな雑誌、えっちな本の隠し場所――なんでも知ってる。だからね、わたしは本当の、本音の光くんに見てもらうために新田さんを刺すの」
こころの目は本気だ。
あの時――あの朝の出来事が頭をよぎる。本気でまっすぐで、濁りのない目。今のこころも、あの時と同じ目をしている。
勘違いなんかじゃなかった。
こころは最初から、この性質を持っていた。
「光くん、どいて。わたしが好きならそこをどいて」
「なんで」
「なんでって……言わないとわからないの? どいて。どいてくれないと、その子、殺せない」
逃げた。
友乃の手を引いて一目散に逃げた。ただただこころが怖くて、友乃が殺されるのも怖くて逃げた。濡れた服が体に張りついて走りにくい。
友乃の家に駆け込み、玄関のカギをかけた。その場にふたりで座り込み、肩で息をする。
「どういうつもりなんだ……こころのやつ」
この期に及んで、逃げておいてなお、ぼくはこころを信じたかった。考えもしなかった可能性――否、否定していた可能性だ。ぼくはどこかで、友乃を信じていなかった。
殺すとか。
殺さないとか。
もっと違う世界の話だと思っていた。
身近なのに。
自分が通っている学校で、たった一年前に事件があったばかりなのに。身近で、すでにぼくたちの隣で、我が物顔で学校に居座っていたのに。
インターフォンが鳴った。
ぼくらは反射的に玄関から離れ、奥の部屋に入って、大きなテーブルの陰に隠れた。家族が団らんを過ごす場所だ。
インターフォンが鳴る。
また鳴った。
もう一度。
何度も、何度も。
ぼくたちを呼び出すベルが鳴る。ベルが連打され、家の中がその音で支配される。気が狂いそうな音の波の後、今度はドアを蹴る大きな音が聞こえた。インターフォンの呼び出し音と、暴力の音が交互に繰り返される。
「もうやめてっ!」
友乃が頭を抱えて叫ぶ。
声が聞こえたのか、音が止んだ。
「え?」
終わった――のだろうか。
「諦めたのかな?」
友乃は不安そうに言う。
「もう終わったのかな?」
「そ、そうだ、警察を」
もうなりふり構っていられない。このままじゃ殺される。ぼくも友乃も、あいつに殺されてしまう。こうなったら信じるとか信じないとか、そんな次元の話じゃない。
殺される。
馬鹿みたいだ。始めから友乃だけを信じていれば良かった。友乃を信じて、こころを問い詰めていたら良かったんだ。そうすればこんなことにはならなかった。それとも、それをすることはこの結果を早めるだけ――だったのだろうか。
「きゃあ!」
どこからか、ガラスの割れる音がした。
机の陰から顔を出して、様子をうかがう。二回目の音が聞こえ、音の発生源がこの部屋じゃないことはわかった。ただ、それは隣の部屋だった。
「あ、あの、助け――助けてください!」
友乃が携帯に向かって懇願する。どうやら警察に繋がったようだ。これであとは時間の問題だ。早く来てくれよ――!
「ねえーどこー?」
こころだ。声は家の中から聞こえる。さっきの音は、家に入り込んでくるために窓を割った音だったのか。
「友乃、逃げるぞ!」
手を取り、裏口から逃げようと走る。
しかし。
「どこ行くの?」
裏口に向かう途中、廊下に出るドアを開けたところに――こころはいた。
「ここ……ろ」
「わかるよ。匂いでわかっちゃうの。光くんが使ってるシャンプー、わたしと同じだね。体は……ミルク石けんで洗ってるんだね。肌が弱いのかな? もうね、わたし光くんがいないとだめなの。光くんがどこにいっても駆けつけちゃうよ」
「でも……こっちはだぁめっ」
「きゃうっ――あぁ……ぐぅぅ」
隣に立っていた友乃が――その場に崩れた。
「なっ――」
「くぅうああ」
足元から友乃の声が聞こえる。すぐにでもその肩を抱いてやりたいのに、ぼくの体は蛇に睨まれたカエルのように、ぴくりとも動かない。動かない。
正面に立つこころは満面の笑みで、けれど冷たい目で、友乃を見下ろしている。手には赤く濡れた千枚通し。さっきまで銀色の光を放っていたそれは、今は赤々と、血を滴らせている。
ぽたり――。
血が床に落ちるたびに、自分の体が震えているのがわかる。動かなくちゃいけない。それはわかっているのだけど、体が動かない。蛇に睨まれたカエルのように、体が竦んでしまっていた。
ついさっきまでふつうに話をしていた彼女。
ぼくの恋人。
「お、お前――」
「お前? 光くんはお前なんて言わないよ。そんなぞんざいな言葉なんて使わないもの」
こころが一歩、こちらに近づいた。ちょっと手を動かせば、その千枚通しはぼくの体に穴を開けられるだろう。柄の部分まで赤く濡れたそれ。
「ねえ、光くん。赤井光くん。わたしのこと、好き?」
「……」
「どうして答えてくれないの? 簡単なことだよね? あ、そっか。恥ずかしいんだね。やっぱり光くんはシャイなんだ」
ふふふ、とこころは笑う。
異常だ。
こいつの心は壊れている。
何かが欠落している。
「嫌いだ」
「え?」
「お前なんか嫌いだ。倉木こころ。ぼくはお前が嫌いだ」
「何言ってるの? 嘘吐きは嫌いだよ」
「嫌い? なら丁度いいじゃないか。ぼくはお前が嫌いで、お前もぼくが嫌いなんだろ? 何も問題ない」
「は、はは……」
こころから乾いた笑いが漏れた。
「もう……関わらないでくれ」
構っていられない。はやく救急車を呼ばないと、友乃が危ない。
「わたしは――好きだよ。大好き」
視界が、黒く染まった。
「光くんはわたしの恋人なんだから、わたしとずっと一緒にいるの。幸せでしょ? だって、将来を誓い合った仲なんだもの」
上機嫌な声。
「わたしは光くんのこと、全部好きだよ。本当に大好き。光くんの一挙一動が、わたしの心をつかんで離さないの。光くんの言葉がわたしの心を優しく包んでくれるの。わたしは光くんの排泄物だって愛せるよ」
「……」
「ねえ、光くん。わたしのこと、好きだよね?」
答えは――決まっている。
「きら――」
「素直じゃない光くんも好きだけど、やっぱり素直な光くんのほうが好き。素直な心ってね、やっぱり一緒に暮らすには大切だと思うの。光くんだってそう思うよね」
「そうだね」
「じゃあ――」
「でも、お前は――」
もう嫌だ。
ぼくはどうなっている?
友乃はどうなった。
「あはっ。愛してるよ。光くんのことなら、わたしは何だって許してあげられる。だからね、もう一度一緒に歩こうよ」
「ぼくは嫌いだ」
「ぼくは嫌いだ! お前なんかいなくなってしまえ! 狂ってんじゃないのか! おかしいだろ! 異常だろ! どうして友乃を刺した! どうしてぼくを信じてくれなかった! どうして! どうしてこんなことをしている!」
「お前なんか! お前なんか――消えてしまえ!」
鉄臭い部屋。
赤い部屋。
痛む手首。
倒れている女。
力が入らない。
まぶたも重い。