前編
こころは笑う。その妖艶な笑みは、普段の彼女からは考えられない。クラスメイトが今の彼女を見たら、決して彼女のことをこころとは認めないだろう。
恐ろしい。
何がって、その笑みが決して笑っていないからだ。
こころの妖艶なその笑みは、見る者を戦慄させる。
「ねえ、光くん。ちゃんとわたしを見てよ」
「あ、ああ……」
「もっとちゃんと見て。わたしを――わたしだけを見て」
事態に混乱しているぼくでも、「わたしを見て」という言葉が彼女の本音であることはわかった。だけど、それだけのことだ。
「光くん。ねえ、光くん。わたしのことは好き? わたしは光くんのことは大好きだよ。全部好き。優しいところも、意地悪なところも、少しえっちなところも、頭が良いところも、なんでも、光くんの全てが大好きだよ。ねえ、光くん。光くんはわたしのこと、好きかな?」
「ぼくも、好きだよ」
答えると、こころはころころと笑った。今度はちゃんと笑っている。本当にうれしそうに、このうえない幸福を噛みしめるような笑みを浮かべている。
「あはっ」
何気ない笑み。
普段のぼくなら絶対に「かわいい」と漏らしてしまうその笑みも、今ではぼくの背中に悪寒を走らせるのに十分な破壊力を持っている。現にぼくの全身を何かが駆け抜けた。だけど、そんなことはこころにだけは絶対に、絶対に秘密だ。
「光くん。これからはずぅっと、ずぅっといっしょだよ」
「好きだ。ぼくと付き合ってくれないかな?」
ぼくから告白して、こころと付き合い始めた。もう一週間にもなる。短くて感慨にふけるような期間には思えないかもしれないけれど、ぼくにとってはそうでもない。付き合い始めてから今日までの時間は、今まで彼女ができたことのなかったぼくには新鮮で、本当に充実しているものだった。今まで「爆発しろ」と罵っていたのに、自分がその立場になるとなんとも言えない良い気分だ。一週間も「まだ一週間」と思うほどに長く感じた。
どんよりと曇った日曜日、ぼくとこころは付き合い始めてから二週間目にして、初めてのデートを決行した。とはいっても、繁華街の喫茶店でのんびりと過ごすだけの簡単なものだけど。
この喫茶店はこのあたりでは有名な店で、コーヒーの味が格別なのだそうだ。ぼくはあまりコーヒーをたしなまないから、注文はジンジャーにした。こころはアイスコーヒーとクッキーを注文した。
「ここのクッキーってね、お菓子屋のよりもおいしいんだよ」
こころが運ばれてきたクッキーをひとつかじって、幸せそうな笑みを浮かべた。
今時珍しい真っ黒の髪は、肩よりも少し下まで伸びている。ストレートで特にいじった風でもないけれど、それだけですでに髪型としては完成していると言わざるを得ない。色白で細い繊細な指は、触れることすらもためらわれてしまうほど。目は大きく力があり、すぅっと筋の通った鼻は顔全体に凛とした印象を与える。口元は優しげな印象を見る者に与える。簡潔に言えば、こころは美人だ。
美人なのだ。
可愛いというよりも、美人なのだ。
「ど、どうかしたの? そんなにまじまじ見ないで。恥ずかしいじゃない」
「ご、ごめん。ちょっとぼうっとしてたんだ」
慌てて彼女の顔から視線を外す。何気なく落ちた視線は、細い首筋を眺めてから慎ましい胸に向かう。白いノースリーブのワンピースが、彼女の清楚さをよくあらわしている。すらりとした手足が強調され、慎ましやかなはずの胸もそうではないように映る。
「どうしたの?」
今度はこころがぼくを見ていた。声をかけると、今まさに我に返ったようにびくっと肩を震わせ、わたわたと手を振った。
「え? ううん、なんでもないよ!」
赤面しながら早口で言ったこころは、今まで見た中でも上位に入る可愛さだった。それにしても何をそんなに慌てることがあるのだろう。もしかしたらぼくの顔を見ていたわけではなく、単純にぼうっとしていただけなのかもしれない。
「それにしても残念だね、こんな天気じゃ安心して外も歩けないね」
アイスコーヒーをテーブルに置き、こころは窓から不機嫌そうな空を見上げた。
「仕方ないさ。梅雨の時期なんだから」
この町は少し特殊な環境で、非常に霧が発生しやすい土地になっている。だから雨が止んだ後なんかはよく霧が出て、ひどい場合には外を歩くことも危険な状態になる。さすがにそうそうそこまでの霧は出ないけれど。
ぼくとこころが付き合うことになった日も、雨の降り止まない日だった。普段から放課後居残って本を読み続けるこころと、傘を忘れてきてしまったぼくは、偶然教室でふたりだけになった。今までほとんど話したことはなかったけれど、彼女のことは好きだった。彼女が美人なのはさっきも熱く語ったけれど、普段から面倒見がよく、物静かなのにも関わらずクラスの中心的な立ち位置にいる彼女に自然と惹かれていったのだ。
ふたりきりで何を離したらいいのかわからず――こころは読書に夢中で、そんなことに気を揉んではいなかっただろう――世間話から入っていこうと声をかけたら、気づけばだしぬけに告白していた。心の中で自分を罵ったけれど、驚いたことに今のような状態に至っている。
「光くん?」
なんとなく不安そうな表情で、こころがぼくの顔をうかがう。どうもぼくはまた呆けていたらしく、いつの間にかこころのアイスコーヒーは半分程度減っていた。さっき見た時はまだ、ほとんど飲んでいなかった。こころが不安そうな顔をするのもうなずける。
「ああ、ごめん」
謝ると、こころはくすりと笑った。
「光くんって不思議だよね」
「どうして?」
まさかこの短時間に何度もぼうっとしていたことで、こころはぼくをフシギちゃん認定してしまったということなのか。だとしたらぼくは悲しいぞ。
「わたしが好きだなんて、ね」
こころの言葉は予想外というか、唐突過ぎて意図がよくわからなかった。どうしてそれが不思議なのだろう。いや、今はこうして付き合っているけれど、それ以前の関係の希薄さから考えればそれほど理解に苦しむような感情ではないのかもしれない。
「わたしっていつも教室の隅で本を読んでるだけだよ? たまに友達の話を聞いたりしてるけど、本当にたまにだし。光くんみたいに明るいわけでもなく、人気もあんまりないんだよ?」
こころは自分を過小評価しすぎている。明るくないわけではなくて、ただ静かで落ち着いているだけだ。
人気がないわけじゃなくて、本を読んでいるこころがあまりに様になっていて、声をかけることにためらいを覚えているだけだ。
「それを不人気っていうんじゃないの?」
「違うよ。こころがぼくたちよりも大人っぽく見えるから、少し戸惑ってるのさ」
暗いというよりも物静か。
可愛いというよりも美人。
ついたあだ名は絶壁の令嬢。
高嶺の花と深窓の令嬢を混ぜてみた、とは命名者談。高嶺はどこに消えた。消えた理由は謎で、絶壁が突如現れた理由も謎だ。
「わたしってそんな風に呼ばれてるの?」
おっと、これは失言だったか。いやこれは悪口でもないし、気に病む必要もないか。これを皮肉で言っているやつもいるが、それは一部の連中で、ほとんどは嫌みっ気もなく単純にあだ名として言っている。本人はもしかしたら、そういうのに関係なく皮肉と受け取るかもしれないけれど。
「ま、まあね」
「それが本当なら、光くんはますます変わってるね」
こころは意地でもぼくにそのレッテルを貼りたいらしい。そんな要素はどこにもないのに。
「どうしてそう思うんだい?」
ここはひとつ、原因を究明しておくことにしよう。
「みんなが近寄らないわたしに、あまり接点もないまま告白してるから。しかも何の前触れもなく、偶然居合わせたっていうシチュエーションで」
いたずらっぽく笑うこころは、明らかにぼくで遊んでいた。
「接点ならあるさ」
接点があるからこそ、ぼくらはこうして向かい合って座っているんだ。
接点がないならば、ここでこうしていないだろう。今頃、家でだらだらと休日を消化しているに違いない。
「ふぅん?」
「ぼくらは同じ学校の同じクラスだ。接点としては十分じゃないかな?」
「でもそれじゃあ〝好き〟の理由にはならないよ」
ぼくにはこころの表情が、どこか不安げなそれに見えた。もしかしたら本当にぼくがこころのことが好きなのか、判断に困っているのかもしれない。
「そうだね」
それはわかるのだけど、ぼくには気の利いたことは言えそうにもない。
「でもまあ、なんていうか、好きなんだよね」
「――っ」
こころがぱたぱたと顔を手であおいだ。耳が少し赤くなっている。手元にあったアイスコーヒーをゆっくりと飲んで、ふぅ、と息をついた。
「そう」
まるで興味がなさそうに――某アニメのヒロインのように答えてみせたけれど、それは今更すぎる強がりだった。そもそもまだ耳は赤くなっているし、頬も紅潮している。今まではふつうに接してきたから、これではツンデレにもなりきれない。ちょっと残念な照れ隠しになってしまった。
「それは言い過ぎだよ。っていうか、わたしはツンデレになろうなんて思ってないから」
ふくれっ面で講義をする。子どもっぽいしぐさで講義をするこころは、やっぱり教室にいる時とはイメージが違う。どちらかといえば、こちらのほうが素のこころなのかもしれない。
「そうかもしれないね」
「前から思ってたけど、光くんって何気なくひどいこと言うよね」
割らないながら言っているということは、あまり怒っているわけでもないようだ。心の中でそっと胸を撫でてから、首をかしげた。
「そうかな?」
少なくともぼくは自覚がない。しかし――そうか。これからは少し考えてから発言しなくちゃいけないみたいだ。不用意な発言で身を滅ぼしかねない。
ちょっとケンカになるくらいなら良いが、人間関係をそこで崩壊させるかもしれないとなれば、少しは慎重にもなれるというものだ。
「注意しなくちゃね」
「そうだね」
これじゃまるで兄弟だな。恋人というよりもそれっぽい。それはそれでなんだか複雑な気持ちになるのだけど。
「ぼくはまあ、そういうわけできみに告白したわけだけど――」実は自分でも予想外の告白だったなんて、どの口が言えるのか。「――こころはどうして、ぼくの告白を受け入れたんだい?」
不思議と言えば、それはこころのほうだ。あまりに唐突な告白だったのだから、断るなり返事を延ばすことだってできたのだから。
「えっ?」
自分が聞かれるとは思わなかったのか、間抜けな声を上げた。
「そんなのは簡単なことだよ」
微笑み、こころは言った。どうしてそんなことを聞くのかわからない、そんなことを言いたげな笑みでもあった。
「簡単なこと?」
「そう、簡単なこと。わたしはね、光くんに告白されるその前から――光くんのことが好きだったんだよ」
「えっ――」
まさか……そんなことが。
「わたしは光くんのことが好き」
この喫茶は客の入りは少なくない。周りのテーブルには客の姿がある。けれどこころはそんなことなど意に介す様子も見せずに、言葉を続ける。他の客のことなど眼中にないと言わんばかりに。
「好き。好き。大好き。わたしは光くんに言われるまでもなく、光くんが大好きだったの」
ぞくり、とぼくの背を何かが駆けた。本当はうれしくて小躍りしそうなものなのに、なのにも関わらず、ぼくは恐れにも似た何かを感じたのだ。この感覚は言葉では表現しづらい。喜びと恐れと、それ以外の何かが混ざったような、混沌とした感覚。こんなものを感じたのは、生まれて初めてだ。
「ねえ、光くん。赤井光くん。光くんはわたしのことは好きなんだよね?」
けれど、こんな感覚は些細なことだ。ぼくがこころのことを好きである限り、無視してもいい感覚だ。
一体彼女の何を恐れる必要がある?
「もちろんさ。だからこうしてるんだろ?」
これは本音だ。
人生初のあの感覚が何だって言うんだ。こころは自分の思ったことを話してくれた。ぼくが恥ずかしがっても仕方がない。変な感覚を信じて口をつぐんでも仕方ない。ぼくはぼくで、思ったことを素直に言えば良いのだ。それ以外にすることはない。
愛が重いとか。
想いが重いとか。
そんなことは全くない。
こころは満足そうに笑うと、アイスコーヒーを含んだ。
「うん、おいしい」
なんだかここに来て初めて話をしたような錯覚にとらわれる。
「今度はぼくもコーヒーにしようかな」
コーヒーはあまり得意じゃないが、ちょっと挑戦するのも悪くないかもしれない。味覚なんて、ころころと変わってしまうものなのだから。
「んー。飲んでみる?」
からん、とコーヒーに浮かぶ氷が音を立てた。
「はい?」
「せっかくだからさ、ちょっと飲んでみたらどうかなって」
こころは無邪気にコーヒーをぼくのほうへ寄せる。円筒形のコップに注がれた黒々としたコーヒー。投入された氷がコップを冷やし、水滴がコップの外側を濡らす。そこに刺されたストローはまさに聖域。その頂上に立つことが許されるのは、女神と黒衣の信徒だけだ。
絶対不可侵。
たとえ誘惑されようとも、蛇の言葉に耳を貸してはいけない。
「い、いや、またにしておくよ」
こう見えても、ぼくはチキンなんだ。笑うなら笑うがいいさ。しかしひとつ言っておこう。いつかはその頂に立って見せる、と。
コップを自分のほうに引き戻しながら「本当にいいの?」と、こころがいじらしい表情でぼくを見つめる。そんな目で見られてしまうと、まるでぼくが悪いことをしているような錯覚に陥ってしまう。まるで飲まなければいけないと言っているようだ。
「飲まない」
ぼくはチキンだが、一度自分で決めたことはなかなか曲げない。頑固というか融通が利かないというか。
「あーあ、残念。せっかく間接キスだね――って言えると思ったのに」
「へ、へえ……」
なんだこれは。まるでカップルじゃないか。下手すればバカップルじゃないか。
「カップルだよ。馬鹿じゃないほうのね」
シラフで答えられた。
こころには羞恥という感情はないのかもしれない。さすがこころだ。名前に負けず精神的に強い。
「でもね、こころ。まだ付き合いはじめだし」
「光くんってシャイなんだね」
いたずらっぽい笑みで、くすくすと笑う。
こころってこういうキャラだったんだな。学校では見られない彼女の一面を、また見ることができた。
「もっと前に出てくるタイプかと思ってたよ」
「そうでもないさ。特にこういう場面ではね」
「あら」
顔を見合わせて笑う。
この時間がずっと続けばいいのに。
終わりが見えたわけでもないのに、ぼくはふとそんな風に思った。先が見えないという現実に、細いぼくの心は不安をかきたてられてしまったのかもしれない。
ほら。
人生って何があるかわからないって言うだろう?
翌日月曜日。いつものように登校し、いつものように教室に入ると、いつもと違う雰囲気に身構えた。
それは一瞬のことだった。
気づけばぼくはクラスの連中(主に男)に囲まれてしまい、進むことも退くこともできなくなっていた。状況に追いつけなくて混乱しているぼくに、クラス内のムードメーカーでありながら絶妙なウザったさに定評のある経島恭介だった。今ではそのムードメーカーとしての資質も、とある一件を機に衰えてしまっているのだが。
「倉木と付き合ってるんだって?」
群衆を代表して前に出てきた恭介は、訳知り顔でうなずく。
「高校生に恋はつきものさ。恥ずかしくない。ほら、素直に打ち明けてごらん!」
恭介はこの調子だが、周りのみんなが固唾をのんだのがわかった。気になって仕方がないらしい。難攻不落(クラスの男子たちの勝手な設定)の倉木こころが、本当に男と付き合っているのかどうか。そしてその相手がぼくなのかを。
しかしそれにしても、ぼくがこころと付き合っているということは秘密にしていたはずだ。別にこころに口止めをしたわけでもないけれど、こころの性格からして言いふらすようなことはしないと思う。それともこころが友達に話したのだろうか? でもそうなら、こういう事態にはならず、もっと確信的に迫ってくるだろう。
恭介を無視して教室内を覗きこむ。こころはまだ来ていないようだ。と、女子たちが興味深そうにこちらの様子をうかがっていることに気づいた。聞き出す役目を男子が担当し、女子たちはおいしいところを持っていくという算段なのだろう。
「で、どうなんだ? ん? おじさんは怒らないから言ってみ?」
そりゃあこいつは怒らないだろう。何せこいつは地元の中学の……名前は覚えていないけれど、とにかく中学生の女の子に気があるらしい、ともっぱらの噂なのだから。
「どうしてそんな風に思うんだい? 金曜まではそんなことは言ってなかったじゃないか。それなのに週明けになってこんなことを言い出すのは、少しばかりおかしくないか?」
そこまで言って思いつく。もしかして昨日のことを、誰かに見られてしまったのではないだろうか。昨日のデートを誰かに見られていたのなら、こんな状況になるのも納得できる。いや待て、どうして他人が付き合ってるだけでこんな騒ぎになるんだ? 冗談じゃない。
そんなぼくの心を見透かしたように、ニヤリと恭介が笑った。
「昨日さ、お前と倉木が喫茶店で仲睦まじくおしゃべりしてるのを見たやつがいるんだ。おおっと、情報提供者の名前は言えないぜ?」
やっぱりか。ちょっとうかつだったか? まあいつかはわかることなのだから、早いうちに打ち明けてしまうのも手か。
くく、と恭介は喉を鳴らす。大詰めを迎えた場面に、ギャラリーは身を乗り出してぼくの出方をうかがう。恭介は獲物を追いつめた獣のような、勝ち誇った笑みを浮かべてぼくに詰め寄る。
ぼくが打ち明けようと口を開いた時だった。
「おはよう」
教室に静かな声が突き抜けた。教室にいた全員の視線が声の主――倉木こころに注がれる。なんとなく気まずい沈黙が教室を支配し、状況を理解していないこころは不思議そうに首をかしげた。
こころが首を元に戻す前に、
「光に聞くより、倉木に聞いたほうが早いな」
と、恭介がこころの前に出て行った。
「何のこと?」
「倉木ってさ、光と付き合ってんの?」
これこそ単刀直入。
恭介はまったくためらいもせずに聞いた。そのストレートすぎる質問のせいか、それともこころの回答への期待か、教室はこころが入室した時よりもさらに静かになった。この教室がここまで静かになったのは、今学期始まって以来のことかもしれない。先生が本気で怒ったって、こんなに静かにはならないだろう。
「うん。それがどうかしたの?」
あっさりと。
こちらの何のためらいもなくうなずいた。照れも恥じらいも、何もない。むしろ誇らしげにうなずいて見せた。それはこのシチュエーションでは、めったに見られない光景だった。
あまりに堂々としたこころの態度に、さすがの恭介も二の句が継げなかった。対してこころは清々しい笑みを浮かべ、ぼくのほうに歩いてきた。
「こころ?」
ぼくを取り囲んでいた男子たちが、まるでこころを恐れるように後ずさりして道を開けた。こころの目はまっすぐぼくを見ていて、ぼくはこころから目が離せなくなった。ひきつける魔力のようなものを感じた。
こころはぼくの目の前――三十センチくらいの距離――に立つと、その白い両手でぼくの顔を固定した。そして気づけば、彼女の顔がぼくの眼前に迫っていた。
キメの細かい透き通った肌。
澄んだ瞳。
柔らかそうな唇。
そして場違いなほどに妖艶な笑み。
周りから息をのむ雰囲気が伝わってくる。
「あ……」
こころと接触をするその直前、始業を告げるチャイムが鳴った。
「ちぇ」
こころはぺろっと舌を出して、ぼくから顔を離した。教室の時間が動き出し、しんと静まり返っていた教室が息を吹き返した。こころは何事もなかったように自分の席に着席し、見計らったかのように先生が教室にやってきた。教室はいつもの弛緩しきった雰囲気と、どこか浮ついた雰囲気が漂っている。先生はそれを感じとったのか、教室を怪訝そうに見まわして、ふいにぼくとこころを交互に見た。
「ふぅん?」
なんとなくわかりましたよ、と言いたげな顔で勝手に納得し、諸連絡に移った。
「光、光」
背中をとんとん、とつつかれた。
「なに?」
後ろは見ないで返事をする。
今度は背中を軽く叩かれ、視界の端に白い指が現れた。指先に小さく折られた紙片を持っている。どこからか回ってきたらしい。
『付き合ってんじゃん!』
この字は……友乃だな。
新田友乃。
ぼくの後ろでニヤニヤしているであろう、ぼくの親友と言って過言ではない女子だ。どういう経緯で親しくなったかは覚えていないけれど、それなりに付き合いは長い。
『おかげさまでね』
紙片の空白に返事を書いて後ろに回す。
返事はすぐに帰ってきた。
『大事にしなよ。それにしても倉木さんって大胆だね。すんごい迫力だったよ』
さっきよりも大きめの紙には、整った文字でそう書かれていた。
大胆。
傍目から見たらそんな感じなのか。でも当事者からすれば、そんなものではなかった。もっとこう……鬼気迫るものがあったように思う。
『わかってる。さっきのはぼくも予想外だった。ああいうことを人前でするようには思ってなかった』
これはクラス全体に共通する感想だろう。そうでなければ、こころが絶壁の令嬢などと言われまい。
『舞い上がってるのかもね』
友乃から回された紙を見て、ぼくは思わず苦笑した。それと同時に、そうだといいなとも思った。舞い上がっているという風には思えなかったけれど。だからこそ、なのかもしれない。休み時間の最後のあの数瞬、ぼくはこころが異質なもののように見えた。
怖くすらあった。
馬鹿馬鹿しいかもしれないけれど、それがぼくの本音だ。
ホームルームが終わり、一元までの休み時間になる。いつもならこの時間は席についているこころが、なぜかぼくのところにやってきた。まさかさっきの続きが展開されるのかと身構えたけれど、それは杞憂に終わった。筆箱を忘れるという暴挙を犯したらしく、ぼくに筆記用具を借りに来ただけだった。
「ありがとう」
「いいよ、これくらい。でも珍しいね、こころが忘れものなんて」
「そうかな? そうでもないと思うけど」
「忘れ物をするイメージがなかったよ」
どういう心境からか、こころは微笑んだ。
「あ、倉木さん」
外に出ていた友乃が教室に戻ってきて、好奇心を隠すことなくこころを呼んだ。
「こいつのどこが良かったの? 見かけによらずダメなヤツだよ」
あははは、と、ぼくの背中を何度も叩いた。赤くなっているのは確認しなくても確実だろう。最初は勢いよく叩いていたのだけど、だんだんと勢いは落ちて、今はもうぼくの背に手を置いている。その手から焦りのようなものを感じた。
痛みに耐えるために伏せていた顔を上げ、後ろに立っている友乃を見上げた。友乃は驚きに満ちた表情で、正面を見つめている。
「どうした?」
友乃の視線を追った先には、見慣れた人物の見慣れない顔があった。
冷たいほどに燃える劇場が、こころの目から放たれている。憎しみにも似た怒りが友乃に向けられていて、それを見るだけのぼくですら思わず身震いをした。
「――から」
「え?」
こころは何かを言った見たいだったけれど、ぼくはほとんど聞き取れなかった。
「ううん、なんでもないよ」
さっきまでの威圧はどこに消えたのか、さわやかな笑顔で言った。さっきの威圧を思えば、このさわやかで明るい笑顔も怖い。
怖い?
怖がってどうする。こころは自分の彼女だぞ? 恐れる必要なんてないじゃないか。でもまあ、あまり怒らせないようにしよう。
「ご、ごめんね、変なこと言って」
こころの転々とする表情に、友乃が困惑しているのがわかる。それこそこころを恐れているのかもしれない。
謝る友乃を見て、こころはより優しい笑みでうなずいた。それで安心したように友乃は息をついていたけれど、ぼくは見ていた。こころの目は全く笑っていなかった。
「あ、さっきの質問だけどね、わたしは光くんのことは全部好きだよ。優しいとこも、意地悪なとこも、少しえっちなとこも、頭が良いとこも、それでいて間の抜けたとこも、全部好きだよ」
目は笑わないまま、こころは言った。
「そ、そうなんだ……。じゃあ、あたしなんかが心配する必要なんてないね。はは」
「うん。大丈夫だよ。新田さんが気を揉む必要はないよ」
にこやかに応える。
あくまで友好的な笑みだ。
「あ、もうこんな時間。ペン、ありがとね。光くん」
今度は目も笑っている。さっきのは勘違いだったのだろうか。まあ冷静に考えればそうなのだろう。ちょっと最初にこころがムッとしてしまったから、ぼくが勝手にそういう風にイメージをしてしまっただけなんだ。それか朝のことで動揺していて、まともな判断ができなかっただけなのだろう。そうでなければ、こころを怖がるなんていうわけのわからない精神状態には陥らないはずだ。
「いいよ、気にしないで」
うなずき返すとこころは微笑んで、自分の席に戻った。それとほぼ同時にチャイムが鳴り、気だるい授業が始まった。
こころの席は、ぼくの席から見ることができる。ちょうどこころの斜め後ろにぼくの席があって、距離も適度に空いている。ぼうっとこころを眺めるのには、うってつけの場所に、幸運にもぼくの席はある。
さっきまでのこころは少し変だった――という前提で、ぼくはこころを眺めている。それは、ぼくの中にあるモヤモヤしたものを排除するためだ。
「さっきのはきっと、ぼくの気のせいさ」
友乃と一緒に何か悪いものを見たに違いない。ぼくと友乃はよく遊び、時には同じ布団で寝た(もちろん小さい頃の話だ)。その程度のシンクロは起きてもおかしくはないだろう。おかしくないはずだ。
こころは前を向いて真面目に授業を受けている。たまに窓のほうを見ては、冴えない空にため息をついている。こうして見ていると、やっぱりさっきのは勘違いなのだと思える。
そうだ。
うん、勘違いだ。
そう思うと安心できて、後の授業も集中して受けることができた。
昼休み。こころの席で、お互いの弁当を広げた。
「光くんのお弁当って、おいしそうだね」
「そうかな? 結構適当に作ってるんだけど」
ぼくの親は共働きで、家にいる時間は限られている。いつも疲れて帰ってくるふたりを見ていると、飯や弁当程度のことで気を遣わせられないと思う。
「自分で作ってるんだ?」
「まあ、ね」
そんなぼくにとって、弁当を作ることはすでにルーチンと化していて、こうやって褒められると照れると同時に戸惑う。
「こころは作らないの?」
「わたしは作らないよ。っていうか、作れない。料理は苦手なんだよね」
「はは、じゃあぼくが主夫になればいいんだね?」
「ちょっと、もう……気が早いよ」
こころは赤面してうつむいた。
「照れてるのもかわいいね」
「もう!」
ばんっ! と勢いよく頭をしばかれた。体勢が傾いて、体の半分以上が椅子から落ちた。
「あれ? 友乃?」
元に戻そうとした時、昼休みになったのに弁当を机の上に置いてさえいない友乃が見えた。友乃は教室の隅――と言っても自分の席なのだけど――で、沈鬱な表情を浮かべて座っている。
「新田さんがどうかしたの?」
ぼくで隠れて友乃が見えないこころが言った。
「ちょっとごめんね」
こころに断ってから席を立ち、友乃のほうへと向かう。友乃はぼくが近づいても、しばらく気づかなかった。暗い雰囲気がぼくにまで伝わってきて、声をかけるべきだとわかっていても、それをためらってしまう。
こういう時はどうするか。
ぼくはそれを友乃との長い付き合いの中で、嫌というほど知っている。嫌とは思えないほどに、どうするべきかを知っている。
自分の椅子を横に向け、友乃の席に対して横向きに座った。こころには背を向ける形になってしまったが、別に深い意味はない。
「どうしたんだい? 悪いものでも食べた?」
右手の人指し指で友乃の机をトントン、と小突きながら聞く。友乃は自分で気づいているのかいないのか、一定のリズムを聞くと落ち着くらしい。それも友乃と何度もケンカしたり、慰め合ったり内に気づいたことだ。今回だって今にも窓から飛び降りそうな顔から、今にも教室から飛び出しそうな顔にまで落ち着いた。
「うん。今日さ、腐った卵食べちゃった」
「そりゃ災難だね。でもそれだけじゃないだろ? それだけだったら、そんなに深刻そうな顔はしないと思うんだけど」
友乃は自分にとって辛いことを話すのが苦手だ。だから遠回りに、直接的にではなく間接的に聞き出してやらないといけない。具体的に何があったのかは、ちゃんと落ち着けば話してくれるのだ。さらにこの話し方なら、他の人が聞いてもそういう話にしか思えない。そこも重要なポイントで、交友関係の悩みなんかも周りを気にせず、ある程度話すことができる。
もっとも、これもぼくと友乃ならでは、なのだけど。
「他の卵なら大丈夫かなって思ったんだけど、やっぱり全部腐っててさ。なんかもうダメ」
うーん、これは見た目通りのまずさなのかもしれないな。相当こたえているようだ。
「そうかい。まあ明日は大丈夫さ。今日はひとまず、ぼくが腐ってない卵をあげよう。買いすぎちゃって余ってるんだ」
こくん、と友乃はうなずいて、ぐずぐず鼻を鳴らした。何があったのかは全く見当もつかないけれど、友乃がこうなる程度の何かはあったんだ。そこはまず間違いがない。でもそうは言っても、ぼくだって友乃を四六時中見ているわけでは当然ないから、やはり後で話を聞く必要がある。
まあ、その約束もちゃんと取り付けた。放課後に友乃がぼくの家に来て、その時に話を聞くことになったから、それまでは聞かないことにする。
「じゃあ、また後で」
努めて気負いないように、ぼくはそこから離れてこころの席に戻った。
と、今度はこころが不機嫌そうに頬杖をついていた。その表情さえも様になっていると思うぼくは、相当以上にまずいのかもしれない。
「どうかしたの?」
「別に、なんでもないよ」
明らかに何でもあるわけなのだけれど、こころのそれは深追いを咎めているように見えた。
「本当に?」
それでも深追いしてみるぼくは、なかなかどうしてナイスガイ。
いや、知らないけど。
「気にしないで。自分でなんとかできるから」
往々にして、こういうことはどうにもならないことが多いのだけど、本人がどうにかすると言っている以上、どうにかするための努力を講じるのだろう。そこに他人が入り込む余地なんていうのは髪の毛一本分さえもあるはずがないので、ぼくは素直にこころが話す気になるのを待つしかない。
別に話してくれなくても、それはそれでも良い。
それはきっと、どうにかできたということの証左だからだ。
物憂げにふぅ、とため息をついたこころの唇が妙に印象的だった。
放課後、こころは先生に呼び出されて職員室に向かった。聞けば時間のかかる作業の手伝いを頼まれたらしく、彼女はぶつぶつと不満を漏らしていた。しかしそれも学級委員という役職を考えれば、致し方ないのだけど。
というわけで、ひとりの下校となった。しかしそれも今日に限って言えば、なかなか良いタイミングだ。先生には心の中でお礼を言っておくことにしよう。
下駄箱まで降りると、学校から逃げるように走っていく友乃の姿があった。何が彼女にそうさせているのだろう。
疑問に思いながら家路につく。遠い西の空が灰色に埋められていて、明日あたりにここへ雨を運んでくるのだろう。天気予報でもそう言っていたはずだ。そう考えるだけで憂鬱になれる。
梅雨は、嫌いだ。
雨は嫌いだ。
前にも言ったかもしれないが、これはこの地域に住んでいるほとんどの人がそう思っている。思っているはずだ。
学校の敷地から出た後は歩いていたようで、ぼくの前方数十メートルに友乃の姿があった。帰る方向がいっしょだからそれも自然といえばそうだ。ちなみに家も近く、行き来するのに十分とかからない。ここで声をかけていっしょに帰ってもいいのだけど――実際、いっしょに登下校する時期はあったけど、いつの間にかそうしなくなった――あえて声をかけることはせず、友乃の後ろをついていった。
友乃が角を折れたのを確認し、ぼくは家に入った。小学校低学年の頃から鍵っ子だったぼくは、家に誰もいないことを自然であると感じる。今も、ぼくを迎えてくれる人はいなかった。静まり返った空気が、ぼくを迎えてくれる唯一の存在だ。
二階に上がって、自分の部屋の窓を開け放つ。新鮮な、それでもじめじめとした風が部屋の中を通ると、それだけで少し、雰囲気が明るくなった気がした。制服も脱がずにベッドに倒れ込み、学校で溜めこんでいたものを息に乗せて吐きだした。
いつの間にか眠っていたらしい。ぼくを眠りから解放したのは、インターフォンの機械的な音だった。時計を確認すれば、帰って来てから半時間ほど経過している。
「はーい」
たぶん友乃が来たのだろう。家で何かしらの準備をしてから来たのなら、だいたいこれくらいの時間になるのが妥当だろう。
だけど。
そこに立っていたのは、友乃ではなかった。
満面の笑みを浮かべ、ぼくの玄関先に立つこころ。
「来ちゃった」
あはっ、ぺろりと舌を出してお茶目な笑顔で言った。
「先生に仕事を頼まれていたんじゃなかったの?」
時間がかかる作業だと言っていた。不審に思いつつも、予想よりも早く終わったのだろうとそういうことにしておく。
「思ったより早く終わったの」と、こころは思った通りの理由を述べた。「ねえ、突然で悪いんだけど、今、大丈夫かな?」
今。
今はちょっと都合が悪い。
「ごめんね、今日はちょっと駄目なんだ。これから人が来て、大切な話をするんだよ」
こころはむぅ、と頬を膨らませたけれど、すぐに元の表情に戻ってうなずいた。
「ま、仕方ないよね。急におしかけちゃってごめんね」
「気にしなくて良いよ」
「ごめんね」
「じゃ、また明日」
「うん。また明日」
こころの手がドアノブに伸びた。
「あ、こころ」
「どうしたの?」
「好きだよ」
「え? あっ、うん。わたしも」
ばいばい、と手を振ってこころは出ていった。玄関のドアが閉まり、ぼくは小さく振り返していた手を下ろした。
なんとなく。
本当に何の根拠もなく、ぼくは何やら嫌な予感がしていた。この感覚は説明できるようなことではないけれど、胸がもやもやするような、吐き気を催すような不快感がある。
その結果なのか何なのか。
的中したのか何なのか。
結局、友乃は家には来なかった。
翌日。
友乃は学校を休んだ。
「友乃が熱出すなんて珍しいよね」
「うんうん。元気が取り柄って感じだもんね」
クラスの女子がそんな話をしていた。友乃の欠席は女子にも戸惑いを与えていて、男子の中でも少なからず、友乃の欠席の話をしているのを聞いた。こうしてみると、友乃は意外にもクラスではそこそこの人気を博しているようだ。
とまれ。
クラスで噂になる程度には、友乃と欠席は結びつかない言葉だ。
「新田さんが休むなんて珍しいね。大丈夫かな」
心配そうにこころが言った。昨日、三人で話した時のような違和感もなく、自然に――本心からそう言っているのがわかった。
昨日の違和感はきっと、こころが不機嫌だったから生じたものなのだろう。ちょっと機嫌が悪かったから、友乃に対して当たるようなことになってしまったのだろう。
「丈夫なヤツだし、明日には来るさ」
そうは言っても、昨日の今日だ。気にならないわけがない。明日には来るさ、なんて呑気にも構えてられないのが本音だ。
「軽口叩いてるわりに心配そうだね」
お見通し、か。
全く、やれやれ、だ。
「実はすごく心配してる」
「幼馴染なんだっけ?」
「どうだろう? 気づいたらそこにいたからね」
本当にいつからの付き合いなんだろう。あいつは本当に空気みたいなヤツで、そこにいるのが当たり前だといつの間には思うようになっていた。そこにいることは意識しないけれど、いないのは意識してしまう。
いないと困る、とさえ思う。
「まるで恋人……というよりも夫婦みたいだね」
「夫婦、ねぇ。そんなこと言い合ってた時期もあったかな。でもまあ、今は頼れる友人さ。それにぼくにはこころがいるしね」
そう言うと、こころは何やら勝ち誇ったような笑みを控えめに浮かべ、
「たまには良いこと言うんだね」
と、ぼくの顔を覗き込んだ。これはぼくで遊ぼうとしている時のしぐさだ。
「何を馬鹿な。ぼくの言葉はいつも良いことさ」
遊ばれているとわかっていて、それでもこころが期待しているであろう反応をしているぼくは、きっと将来、こころに頭が上がらなくなる。そんな自分を想像して、あまりの情けなさに泣きたくなった。けれど、こんなところで長さないのが男の涙ってやつだ。
「どうかした?」
不思議そうにぼくの顔を覗くこころ。
「いや、何でもないよ」
何でもないというか、どうでも良い。
それはともかく、放課後は友乃の見舞いに行くことにしよう。ふだんは見舞ってもらうほうだから、たまには行ってやるのも悪くはない。こころには悪いけれど、今日は先に帰らせてもらうことにしよう。
事情を説明すると、こころは案の定、ぶーぶー、とぼくにブーイングを飛ばした。こころも本気でブーイングを飛ばしたわけではないのだろう。あの手この手で機嫌を取ろうとするぼくを見て、いたずらっぽい笑みを浮かべて「冗談だよ、冗談」とうなずいてくれた。
一度家に帰っても良かったのだけど、どうせ近いのだからと学校から直接友乃の家向かい、インターフォンを鳴らした。少し間があって、友乃の声がかすかにドア越しに聞こえた。
「ぼくだよ」
玄関のドアが開けられ、赤と白のストライプのパジャマにカーディガンをはおった友乃がぼくを迎えた。顔色はあまり芳しくないけれど、こうして出てきているところを見ると、辛くて仕方がないということはなさそうだ。寝起きだからか、それとも体がだるいのか、はたまたその両方か、とろんと気の抜けた目でそれでも驚きを隠さずにぼくを見つめる。
「どうして光がいるの?」
どうして、とはまた、ごあいさつだ。まあそう言われて仕方のない今までではあったのだけど――それでも、あんまりといえばあんまりだ。
「見舞いに来たんだよ。お前が休むなんて珍しいからね」
「ありがと」
素直にお礼が言えるあたり、ぼくよりも素直だ。ぼくはそれなりに憎まれ口を叩いて、内心で喜ぶ面倒くさい野郎だ。そんな面倒くさいぼくに友乃は微笑み、半身を開いてぼくを家に招いた。
「光は先に上に上がってて。飲み物持っていくからさ」
「何言ってのさ。友乃が先に上がりなよ。飲み物はぼくが持って行くから」
勝手知ったる他人の家とは、まさにこのことだ。友乃が階段を上るのを見送ってから、台所に行ってコップをふたつと一リットルの紙パックのりんごジュースをお盆に乗せ、五百ミリのスポーツドリンクをペットボトル用の保冷容器に入れた。落とさないように二階の友乃の部屋魔で運び、行儀は悪いが足でノックをした。
少し待つと友乃が「ありがと」と、ドアを開けてくれた。
久しぶりに入った友乃の部屋は、ぼくが思っていたよりも女の子っぽい部屋だった。カーテンは薄いオレンジで柔らかそうな雰囲気があり、部屋の真ん中に陣取る丸テーブルの上には、ふわふわした見た目の小さなウサギのぬいぐるみが置かれている。そのテーブルにお盆を置いて、ぼくはほっと息をついた。
友乃はベッドに戻り、上半身だけを起こしている。
「りんごジュースとスポーツドリンク、どっちがいい?」
「りんご」
「あいよ」
コップにりんごジュースを注いで、ぼくのベッドの友乃に渡す。
「ありがと」
くいっ、と一口飲んで、友乃はコップを膝の上に置いた。顔色――というか、表情があまり優れない。何かを言いたそうにしているのだけど、言いだせない――そんな雰囲気が伝わってくる。けれどぼくはあえてそれについては聞かず、友乃が話し出すのを待った。最悪、いつまでも言いださないなら、ぼくから聞くけれど、言いだせないのは何かしらの理由があるからで、ぼくはそれを知らないのだ。
「昨日のこと、覚えてる?」
控えめに、友乃は切りだした。
「昨日のこと? もちろん」
むしろ今日の見舞いの本当の目的は、それだったりする。もちろん友乃のことを心配していないわけではないけれど、それは悪いがついでのようなものだ。
「そうだよね。光は約束を破ったり忘れたりしたことなんて、一度のもないもんね」
果たしてそうだっただろうかと思い出してみたけれど、友乃がそうだというのだからきっとそうなのだろう。自分のことを他人のほうがよく知っている、というのは往々にしてよくあることだ。
「昨日はどうしたんだ? 連絡がなかったから心配してたんだ」
「そのことなんだけどさ――」と、友乃は言いにくそうに言う。「怒らないで、聞いてほしいんだ」
「なんだい? 改まって」
行くのが面倒だった――なんて理由じゃなければ、ぼくはきっと怒らない。
けれど、友乃の言葉は、もっとよくわからないものだった。
「あたし――怖いよ」
うつむいて目を伏せ、絞り出すように、言った。
怯えるように、言った。
「怖い?」
何が怖いのだろう。友乃はそういう感情から遠いものだと、ぼくは思っていた。だからこそ――だからこそ、友乃は今こうなっているのか? そういうことなのだろうか。いやそうであるならば、もっと大事になっていそうなものだ。
「倉木さんが怖い。いつかあの人に……倉木さんに、殺されるような気がする」
「殺される?」
殺される。
それはつまり、殺されるということだ。
ふだんなら「馬鹿馬鹿しい」の一言で済ませてしまうだろうが、ぼくの前でうつむく友乃を見ていると、どうにもそう一言で済ませられる雰囲気ではない。少なくとも彼女は、本気でそう思っている。
「倉木さんはたぶん、自分にとって大切なことのためになら――人を殺せる」
どくん、と激しく胸を打たれたような衝撃が、ぼくを襲った。理解ができないのと同時に、どこかでそれを受け入れてしまいそうな自分を自覚したからだ。「そんなことはないさ」と、否定できない自分に気づいたからだ。
教室でのあの一件。
まるで彼女が彼女ではなくなったような――あの一件。
「こころが……きみを?」
しかし、彼女が友乃を殺す理由なんてない。同級生を殺すほどの理由なんて、きっと彼女は持ち合わせていないだろう。それなのにどうして、友乃はそんな発想があるんだ? どうして自分が殺されると思っている?
殺すとか殺さないとか、それは言葉で言うほど簡単な問題じゃない。
「実は昨日、光の家に行く途中で――」
と。
インターフォンが鳴って、友乃の話が途切れてしまった。
「ちょっと、ごめんね」
友乃はベッドから下りて、ぼくの脇を通り抜けて部屋から出ていった。友乃が階下に下りていく音を聞きながら、りんごジュースを飲んで帰りを待つ。どうやらお客さんは若い女性のようだ。会話の内容までは聞こえないが、初対面というわけではないのだろう。
何かがおかしい――そう思いはじめたのは、二杯目のジュースを注いでいる時だった。はっきりとは言わずとも、それなりに聞こえていた友乃と女性の声が聞こえなくなっていたのだ。にも関わらず、友乃は戻って来ないし、ドアが開閉した音も聞こえない。
「友乃?」
部屋のドアを開け、すぐ左手にある階段を見降ろす。そこには玄関に力なくへたり込んだ友乃の姿があった。
「友乃!」
階段を駆け降りる。途中で音がしたような気がしたけれど、そんなことに気を取られている場合ではなかった。まさか容体が悪化してしまったのだろうか。友乃の肩をつかみ、額に手を当てる。熱が上がったりしているわけではなさそうだ。ほのかに熱いが、元々校だったのだろうと思う。問題なのはその顔色だ。蒼白で、肩も震えている。そして――
怯えた表情で玄関を――いや、虚空を見つめている。
心がぬけてしまったように。
「大丈夫か? おい、しっかりしろって」
虚空を見つめていた友乃の目が、ゆっくりとぼくに向けられる。そこには恐怖に染まった、弱弱しいそれがあった。いつもの元気で快活な友乃のそれではない。
一体、何があった?
玄関を飛び出し、ここに来ていたであろう人物を探す。しかし目に移るのはいつもの通学路と、呑気に犬の散歩をする男の人だけだった。
「ひかる……光」
ぼくを呼ぶ声が聞こえて、ぼくはすぐに家の中に戻った。今は誰かもわからない客のことよりも、友乃のほうを優先するべきだった。
「大丈夫だ。いるよ、ここにいる」
元々大きな体ではなかったけれど、怯える友乃はいつもより小さく感じられた。
「誰がいた? 何があった」
しかし友乃は首を振り、教えてくれようとはしない。
「どうして教えてくれないんだ?」
「チルチルとミチルは……青い鳥をどこで見つけた?」
消えてしまいそうなほど小さな声で、友乃はそう言った。そしてそれを聞いた途端、ぼくは全身に鳥肌が立った。幸せの青い鳥を探しに家を出たふたりは、結局見つけられず、疲れて帰ってきた自宅で青い鳥を見つけた。結局鳥には逃げられてしまうものの、ふたりは確かにその姿を確認したのだ。
つまり。
この家にやってきた人物は、まだこの家の近くにいる可能性が十分にあるということだ。よもや家の中にはいないだろうが、それだって完全には否定しきれない。ぼくは出て行った姿を見ていないのだから。だからこそ――友乃は声をひそめ、遠回りな表現をした。悩みを相談するように――嫌なことを話す時のように。
ぼくは親指で二階を示し、上がろうと合図する。友乃はうなずいて、よろよろと立ちあがった。足元がおぼつかない友乃を支えながら、やっとの思いで部屋まで戻る。友乃をベッドに寝かせると、じっとりと汗をかいていた。
「で、誰が来たんだ?」
友乃はぼくをためらいがちに見るだけで、誰が来たのかを言おうとはしない。それは当然の警戒であったし、当然の反応でもあった。だからぼくは、黙って友乃が話し出すのを待った。トントン、と一定の音を出しながら。友乃が落ち着くのを待つ。
友乃は深呼吸をして、重い口を開いた。
「倉木、さん」
「え?」
誰……だって?
「倉木さんが――来たの」
後編に続く。