9イエスの由来とエリーの誓い
子犬を抱きしめたまま泣き続けるわたしに、職員のみんなは優しく接してくれた。
坂東が規律を破った事に対して、みんなに頭を下げてくれていた。
「本来ならいけない事だが・・・事情が理解できるから」と案内してくれたおじさんが言うと、職員さんたちは笑顔で許してくれた。
そうしてわたしは、飼い主としての諸々を学ぶための講習を受けた。
(その間、坂東が子犬を預かってくれていた)
講習の内容は、冊子に記載されていた事柄の再確認だった。
(愛情と責任をもって終生飼養し、他の飼い主の模範となる事がテーマだったわ)
「約束してくれますか?」講習に当たった職員のおじさんにそう聞かれて、わたしは姿勢を正して答えた。
「誓います」と。
最後にわたしは、子犬の事について職員さんに聞いてみた。収容されていた間の様子などを。
「それなら、坂東君に聞いてみるといいですね。子犬は彼が担当した管理舎に居たのですから」 そう言うと、おじさんは講習室から見える廊下を指差して微笑む。
わたしも振り返り・・・微笑んだ。
講習室を覗き込む二つの顔。
それは坂東と、彼に抱かれた子犬だった。
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動物愛護センターの帰り道。
坂東の運転する軽自動車の中で、彼はわたしに教えてくれた。
子犬は収容された時、まだ生まれて間もない赤ちゃんだった事。
毎朝の処分選別で不思議と目につかなかった事。
なぜかボス犬が子犬を四六時中見守っていたらしい事。
不思議なのは、子犬に付けられた名前=”イエス”の由来だった。
毎日聞いていたラジオで聖書の朗読が始まる時、オープニングに使われる詩篇の文句で必ず鳴きだしたのだそうだ。
(坂東はその一説を口にする。毎回流されるから覚えたそうだ)
そのエピソードから子犬は”イエス”と呼ばれたのだ。
処分の直前にわたしが聞いた鳴き声も、そんな時だったらしい。
わたしは父から教わった聖書の文句を思い出す。
-わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。
(My God, My God, why have You forsaken Me? Why are You so far from helping Me, And from the words of My groaning?)
(詩篇22篇 (マタイ27:46節))
原語で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」から始まるその一説をわたしは懐かしく思い出した。
神の子”イエス”が父に断絶され、十字架に掛けられて苦しみの中で叫んだ言葉とされている。
(しかし苦しみの後、イエスは再び神を賛美する。死の恐怖よりも尊い信仰を悟ったのだ)
わたしがそんなふうに話していると、子犬の”イエス”がきゅうんと鳴いた。
(この子犬は、何かを感じたんだわ。そんなふうにわたしは思ったの)
わたしはイエスを抱きしめ、震える身体に暖かい息を吹きかけた。
イエスが嬉しそうにわたしの顔を舐める。(結局、イエスは家に帰るまでずうっとわたしの顔を舐め続けていた)
坂東の運転する軽自動車の窓から、大きな夕陽が覗いていた。
そうして、わたしとイエスの生活が始まったのよ。