呪われた王都の夜
「怪異」という名の目に見えない病は、王宮の壁を越え、ついにはバルセーヌ王国の首都全域へと溢れ出していた。
アウグスト公爵家が完全に引き揚げ、すべての厄除け結界が消失してからというもの、王都の空気は日ごとに澱んでいった。
かつては夜遅くまで若者や商人たちの活気ある声が響いていた美しい街路も、今や日が落ちた瞬間、まるですべての生気が吸い取られたかのように、墓地のような静寂と不気味な冷気に包まれる。
市民たちの間では、ここ数日、奇妙な精神の病が急速に流行し始めていた。
「……なぁ、昨日の夜、お前も『あれ』を見たか?」
「ああ。……窓の、ほんの数センチ開いた隙間から、細くて白い『人間の指』が何本も入ってこようとするんだ。慌てて閉めようとしたが、指は切れることもなく、ぬるりとガラスをすり抜けて……」
「俺のところは、ベッドの下だ。寝ようと目を閉じると、下からじっとりとした湿気と一緒に、ハサミを動かすようなカサカサという音が聞こえて、朝まで一睡もできなかった……」
夜になると、家々の「隙間」から、あり得ないモノが侵入してこようとする。
タンスの裏、ドアのわずかな隙間、あるいは鏡の境界線。
アメリアが王宮の地下霊脈を整えていた頃は、大地の底に押さえ込まれていた低級な悪霊や魑魅魍魎たちが、霊脈の暴走によって実体化し、無防備な人間たちの生気を貪り始めたのだ。
王都の人々は、日に日に青ざめ、不眠と恐怖で理性を失いつつあった。
だが、この災厄の元凶である王宮は、すでに治安維持の機能を完全に喪失していた。
バルセーヌ王宮、血と泥に汚れた「謁見の間」。
割れた窓ガラスから冷たい夜風が吹き込み、カーテンが幽霊のように不気味に揺れている。
そこに、数人の重臣たちが、震える膝を押さえながら立っていた。彼らの目の前に座るのは、かつての威厳を完全に失い、ボロ布のような正装を身にまとった第二王子レイナルドである。
「殿下……! 王都の治安は崩壊寸前でございます! 夜間に現れる『怪物』の噂により、兵士たちも夜警を拒否し、街は無法地帯と化しております! 一刻も早く、隣国のバルドル帝国に救援を求め、アウグスト公爵家を呼び戻さねば、この国は……!」
「黙れ……、黙れ、黙れぇ!!」
レイナルドは、すっかり爪の剥がれ落ちた、黒く壊死した指で玉座の肘掛けを激しく引っ掻いた。
彼の顔は、マリアの【千手泥】に触れられた右頬からじわじわと肉が腐り落ち、不気味な黒い膿が絶え間なく流れ落ちていた。しかし、その血走った瞳には、異様な執念だけが宿っている。
「アメリアだ……。すべては、あの冷酷な女が仕組んだ罠だ。あの女が、帝国と裏で手を結び、我が国を怪異で滅ぼそうとしているのだ! アメリアを捕らえて、この目の前で処刑しなければ、呪いは解けない!」
「殿下、正気ですか!? アメリア様はただ亡命されただけで、怪異の原因は殿下がアメリア様を不当に追放し、マリア様という『怪異の依り代』を王宮に招き入れたからではないですか!」
一人の忠臣が耐えかねて真実を叫んだ。
だが、その言葉が、レイナルドの歪みきった脳を刺激した。
「不敬者が……ッ! 我が愛しのマリアを怪異呼ばわりするとは、万死に値する!」
レイナルドがそう叫んだ瞬間、彼の背後の「影」がぐにゃりと立ち上がった。
影の中から這い出てきたのは、マリアだった。
いや、それはもはや、ピンクのドレスをまとった「巨大な肉塊の蜘蛛」のような異形であった。彼女の体からは、何百本もの細長い白い腕が波打つように生え、床を這うたびに、乾いた骨が擦れ合うようなキチキチという音が響く。
「殿下ぁ……。あの意地悪なおじ様、私を虐めるんですぅ……。お腹が空いちゃいましたぁ……」
マリアの裂けた口から、細長い舌がぬるりと伸びる。
「……あ、あ、あああ……っ!」
重臣が悲鳴を上げる間もなく、マリアの背中から伸びた無数の白い腕が、その重臣の体を蜘蛛の糸のように雁字搦めに縛り上げた。
「マリア、食べていいぞ。僕の邪魔をする無能どもは、全員お前の栄養になるがいい!」
レイナルドは狂気的な笑顔で拍手を送った。
ジュクジュクと音を立てて崩れていく重臣の肉体。マリアはその生気と血を貪り食い、さらにその背中の腕を増やしていく。
周囲の重臣たちは、恐怖のあまり誰も声を上げられず、ただ腰を抜かしてその凄惨な捕食劇を見つめることしかできなかった。
「アメリア……。すぐに使節団を帝国に送る。そして、あの不気味な毒婦を『国家転覆の大罪人』として引き渡すよう、帝国の皇帝に要求してやる……。あの女の心臓をマリアに捧げれば、僕の頬の傷も、王宮の悪臭も、全部消えて元通りになるんだ……!」
現実から完全に逃避し、狂った思惑を募らせるレイナルド。
彼は、自らがどれほど絶望的な罠を自ら掘り進めているのか、完全に理解していなかった。
一方、バルドル帝国の煌びやかな皇宮。
そこには、バルセーヌ王国の暗闇とは無縁の、極上の「安らぎ」と「大溺愛」が満ちていた。
「――ふぅ、これで新しい『浄化の香』の調合は完了ね」
アメリアは、皇帝の執務室の隣に特別に用意された調度品に囲まれ、ガラスのフラスコを愛おしそうに見つめていた。
彼女が調合した結晶は、まるで宝石のアメジストのように美しく、そこから立ち上る微かな花の香りは、部屋に潜む一切の「陰気」を一瞬で消し去っていた。
「……素晴らしいな。君の作るものは、どれも私にこれ以上ない平穏を与えてくれる」
背後から、当然のように逞しい腕がアメリアの腰を包み込んだ。
漆黒の軍服を纏った皇帝ジュリアスが、アメリアの肩に頭を預け、愛おしそうに彼女の漆黒の髪に指を通す。
「ジュリアス、まだお昼の公務が残っているはずですわ。レオン様が廊下で、書類の束を抱えて泣きそうな顔で待っておられます」
「放っておけ。重要な決裁はすべて片付けた。今は、君のこの香りと温もりを摂取する時間だ。君が私の専属になってからというもの、長年私を苛んでいた不眠が嘘のように消え去った。……アメリア、君は私の命の恩人であり、唯一無二の伴侶だ」
ジュリアスはアメリアの耳元で、低く甘い声で囁いた。
その黄金の瞳には、かつて「死神」と恐れられた冷酷さは微塵もなく、目の前の少女に対する、狂おしいほどの独占欲と慈愛だけが揺らめいている。
「ふふ、そんなに甘えられては、調香の仕事が進みませんわ。……ですが、そうね。ジュリアスのおかげで、私もアウグスト領の家族を帝国に安全に迎えることができました。本当に感謝していますわ」
「感謝など不要だ。君の家族は、私の家族も同然。君を傷つけ、その才能を搾取しようとしたバルセーヌ王国こそが、私の敵だ」
ジュリアスはアメリアの手をそっと握り、その細い指先に深い口づけを落とした。
「……時に、アメリア。バルセーヌ王国の『バカ王子』が、君の身柄を引き渡せと、我が国に使節団を派遣したそうだ」
アメリアは紫の瞳をわずかに細めた。
「あら。まだ息をしていたのですか。あの王宮はすでに、私の呪核と怪異によって『中から腐り始めている』はずですが」
「その通りだ。報告によると、王宮の周囲は悍ましい悪臭と、怨霊の霧で包まれており、夜になると誰も近づけない死の城と化しているらしい。それにもかかわらず、奴らはすべての原因を君の『呪い』のせいだと主張し、帝国に引き渡しを求めている」
ジュリアスは、冷酷極まりない、氷のような笑みを浮かべた。
「実に見苦しい。自ら守護者を追い出しておきながら、その自業自得の結末を君になすりつけようとはな。……アメリア、この虫けらどもを、どう料理してほしい? 君が望むなら、使節団ごと、あの国を物理的に消滅させてやっても構わないが?」
アメリアは、ジュリアスの腕の中でくすくすと上品に笑った。
「いいえ、ジュリアス。せっかくですから、使節団の皆様には、この帝国の『極上の歓迎』を受けていただきましょう。……彼らが持ち込もうとしている王国の『手土産(怪異)』が、帝国の結界の前でどのように弾け飛ぶか、とても楽しみですわ」
アメリアの紫の瞳に、冷徹にして知的な、美しい光が宿る。
かつて自分を不気味だと蔑んだ者たちが、自らの足で帝国の「本当の呪術」の前に這い出てくる。その極上のカタルシスへの舞台は、すでに整いつつあった。
(第8話へ続く)




