最初のお持ち帰り
深い闇が、バルセーヌ王国の王宮をじわじわと侵食していく。
かつて、この王宮の夜は「最も安全な聖域」であった。
アウグスト公爵令嬢アメリアが、霊脈の通り道にそって密かに配置していた数十基の「除霊呪具」と、毎日深夜に張り直していた「大祓の結界」。それらが、どれほど凶悪な怨念や、土地に巣食う祟りであっても、王宮の敷地内に一歩たりとも踏み込ませることはなかったからだ。
だが、その防護壁はもう存在しない。
結界が完全に消失した王宮は、暗闇に浮かぶ無防備な松明のようなものだった。光に引き寄せられる虫のように、王国の歴史の影に沈んでいた「悍ましいモノたち」が、今や我が物顔で障壁の消えた回廊を徘徊し始めている。
深夜二時。
王宮の西館にある、第二王子レイナルドの寝室。
「……はぁ、はぁ、う、うう……っ」
豪華なシルクの天蓋付きベッドの上で、レイナルドは激しい寝汗をかきながら、悪夢にうなされていた。
ここ数日、彼はまともに一時間すら眠れていなかった。
目を閉じると、暗闇の奥から「カサカサ……カサカサ……」という、硬い爪のようなものが床を引っ掻く不快な音が、耳のすぐ近くで響くのだ。
それだけではない。時折、自分の顔の上に、氷のように冷たくて、じっとりと濡れた「髪の毛のような塊」が、天井からゆっくりと垂れ下がってくるような悍ましい感覚に襲われる。
「うわあああああっ!!」
レイナルドはついに耐えかねて、悲鳴を上げながら跳ね起きた。
全身は冷や汗でぐしょぐしょに濡れ、呼吸は激しく乱れている。
慌てて周囲を見回すが、魔法灯の淡い光に照らされた寝室には、誰もいない。
「……また、夢か。いや、夢なわけがあるか……!」
レイナルドは震える手で、こめかみを押さえた。
彼の顔は、わずか数日で幽鬼のように痩せこけ、目の周りにはどす黒い隈が浮き出ている。
かつての尊大で美しい赤髪の王子は、今や見る影もない。
「アメリア……! やはり、あの地味で不気味な女の呪いに違いない! あいつが去り際に、僕の寝室に何かおぞましい細工をしたんだ……! でなければ、これほどの頭痛と悪夢が続くはずがない!」
レイナルドは狂ったように枕を床に叩きつけた。
彼はまだ、自分の精神が限界を迎えている最大の原因が、自分の隣にいる「最愛の聖女」にあることに全く気づいていなかった。
同じ夜。
レイナルドの寝室からほど近い、マリアに与えられた「元・アメリアの呪術室(現・マリアの祈りの間)」。
「うふふ……あはははは!」
マリアは、部屋の鏡の前で、不気味な薄笑いを浮かべていた。
彼女が着ているのは、王宮の予算で無理やり仕立てさせた、フリルだらけの豪華なピンクのドレス。だが、そのドレスの肩口や背中には、目に見えない「黒い泥のようなシミ」がじっとりと染み込んでいた。
マリアの背後では、無数の細長く干からびた「白い腕」を持つ怪異【千手泥】が、彼女の細い首を愛おしそうに締め上げながら、くねくねと激しく蠢いている。
「私の……。この王宮は、全部私のもの。お姉様の部屋も、お姉様の婚約者だったレイナルド殿下も、全部、全部私が手に入れたの。私が『本物の聖女』なんだからぁ……!」
マリアの瞳は、異様な光を放ち、焦点が合っていない。
彼女の胸元で怪しく光るのは、アメリアの部屋から勝手に盗み出した、深紅の魔石が埋め込まれたアンティークのブローチ――王宮の霊的毒素が凝縮された【呪核】だった。
ブローチは、まるで宿主の生気を吸い取るように、時折トクン、と不気味に脈打つ。
マリアの体は、【千手泥】と【呪核】という、二重の超一級呪物によって、内側からボロボロに蝕まれつつあった。
しかし、その脳を支配する強烈な精神汚染ガスのせいで、彼女自身は「万能の聖女としての力に満ち溢れている」と、極限の勘違いの中にいた。
「ねえ、殿下……。明日も、いーっぱい私に宝石をプレゼントしてくださいねぇ……?」
マリアは誰もいない鏡の向こうに向かって、あざとく首を傾げて囁いた。
鏡に映る彼女の「笑顔」は、人間のそれとはかけ離れた角度まで、耳元に向かってぐにゃりと裂けていた。
その頃。
寝室で一向に眠気の訪れないレイナルドは、苛立ちと不眠の恐怖から、部屋を飛び出して夜の回廊を歩いていた。
「おい! 誰かいないのか! 僕に冷たい飲み物を持ってこい!」
レイナルドは大声を上げて従者を呼ぶが、静まり返った廊下からは、返事がない。
それどころか、いつもなら等間隔に立っているはずの近衛兵の姿が、今夜は一人も見当たらなかった。
「チッ、どいつもこいつも無能ばかりだ。僕がこれほど苦しんでいるというのに、持ち場を離れてサボっているな? 明日、全員クビにしてやる……!」
レイナルドは不快そうに舌打ちをし、薄暗い回廊を一人で進んだ。
窓の外から差し込む月光が、床に長い影を落とす。
カサリ。
突然、背後で、紙が擦れるような乾いた音が響いた。
「……誰だ?」
レイナルドは立ち止まり、振り返った。
だが、そこには白亜の長い廊下が続いているだけで、誰もいない。
「……気のせいか」
彼は頭を振り、再び歩き出そうとした。
しかし、その一歩を踏み出すより早く。
ピタ、ピタ、ピタ……。
今度は、濡れた足音が聞こえてきた。
それも、背後からではない。
レイナルドが歩く「前方」の、暗闇の奥からだ。
月光が、その影を照らし出した。
廊下の角から、ゆっくりと這い出てきたのは――**【異形のもの】**だった。
それは、人間の姿をしていた。
だが、その手足の関節はすべて、あり得ない方向にぐにゃりと逆折れし、床を這う蜘蛛のように四つん這いで進んできている。
着ているのは、バルセーヌ王国の「近衛兵の鎧」だった。だが、その鎧の隙間からは、腐敗したドロドロの肉と、無数の「白い虫」がボロボロと床に零れ落ちている。
「あ、あ……」
その「顔」を見た瞬間、レイナルドの喉が恐怖で完全に凍りついた。
それは、先日行方不明になったばかりの、近衛兵トーマスだった。
彼の眼球はすでにくり抜かれ、ぽっかりと開いた暗い眼窩からは、黒い泥のような液体が絶え間なく流れ落ちている。そして、彼の口は、顎の骨が外れるほどに大きく開かれ、そこから、細長く干からびた「無数の白い腕」が、ヒラヒラと触手のように突き出していた。
「あ……ア……れイ……なル……ド……殿……下ぁ……」
トーマスだったモノが、肺を押し潰すような不快な摩擦声で、レイナルドの名前を呼んだ。
「ひ、ひぃぃいいいっ!!」
レイナルドは腰を抜かし、その場に激しく転倒した。
プライドも王室の威厳も、一瞬で吹き飛んだ。彼は床を這いずりながら、なりふり構わず後退りする。
「来ないでくれ! 来るな! 僕は王子だぞ! 無礼者、下がれえええっ!!」
レイナルドが狂ったように叫ぶが、その声に「トーマスだったモノ」は応えない。
それどころか、彼の口から伸びた無数の白い手が、生き物のようにうねりながら、もの凄い速度で床を滑り、レイナルドの「足首」をがっしりと掴んだ。
氷のように冷たく、そして肉を引き裂くような凄まじい握力。
「いやあああああっ!! 助けて、マリア! 誰か、誰か助けてくれえええっ!!」
レイナルドは涙と鼻水を流しながら、床にしがみつき、必死に抵抗した。
引きずり込まれる、あの暗闇の隙間へ。近衛兵トーマスと同じように、自分も「お持ち帰り」されてしまう。その極限の恐怖が、レイナルドの理性を完全に破壊しようとしていた。
――その時。
バァンッ!!
廊下の反対側の扉が、勢いよく開いた。
「殿下ぁ! どうされたんですぅ!?」
現れたのは、マリアだった。
マリアが部屋から飛び出してきた瞬間、彼女の背後に潜む【千手泥】が、凄まじい「負の魔力」を威嚇するように放出した。
その強烈な「同質の闇(呪い)」を察知したのか、レイナルドの足首を掴んでいたトーマスの白い手が、一瞬だけピクリと動きを止めた。
そして、獲物を諦めるようにすっと手を引くと、関節を不気味に「バキバキ」と鳴らしながら、天井のわずかな影の隙間へと、驚くべき速度で這い上がり、煙のように消え去っていった。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ!」
レイナルドは解放された自分の足を抱きしめ、激しく震えながら、廊下の床にうずくまって号泣した。
マリアは「大丈夫ですかぁ?」と彼に駆け寄り、その肩に手を置く。
「……殿下、やっぱりお姉様の呪いですわ。お姉様が、こんな恐ろしい化け物を王宮に送り込んできたんですぅ。お姉様を早く捕まえて、殺してしまわないと、私たちは安心できませんわぁ」
マリアは耳元で甘く囁いた。
その言葉は、恐怖で極限状態にあるレイナルドの脳に、深い「狂気」として刷り込まれていく。
「そうだ……アメリア、あの冷酷な毒婦め……。僕をこんな目に遭わせて、絶対に許さない……。殺してやる、絶対に殺してやる……!」
レイナルドは血走った瞳で、存在しないアメリアへの憎悪を滾らせた。
自分たちが自らの手で「魔除けの結界」を壊し、怪異を呼び寄せた自業自得であることにも気づかず、二人は奈落の底へ続く暗い螺旋階段を、一歩ずつ、確実に下り始めていた。
(第5話へ続く)




