永遠の溺愛
バルセーヌ王都は、もはや「この世の景色」ではなかった。
かつてアメリアが数百年分の憎悪を封じ込めていた【呪核】は、略奪女マリアというこの上ない依り代を得て、王都の地下を流れる霊脈そのものを黒い腐泥へと作り変えていた。
王宮は、巨大な肉の繭と化したマリアによって内側から弾け飛び、崩れた瓦礫の間からは、数万、数億という白い腕が、空を掴もうと蠢いている。
「あ……ああ……。マリア……僕の、マリア……」
その巨大な怪異の「心臓」の真下で、レイナルドはもはや、自分が何者であるかも忘れていた。
彼の肉体はマリアの肉壁と完全に融合し、意識だけが「不快な甘さ」の中に漂っている。自分を愛し、守ってくれたアメリアを裏切り、欲望のままに「偽物の聖女」を選んだ対価は、自我すら許されない、永遠に続く捕食の苦痛だった。
「キチ、キチキチッ……!!」
マリアだったモノが、天に向かって絶叫した。
王都を埋め尽くした数万の民の生気を吸い尽くし、臨界点を迎えた「怪異の女王」が、その呪いを周辺諸国へ向かって撒き散らそうとした、その時。
――どんよりとした曇天を切り裂き、一筋の「黄金の光」が天から降り注いだ。
「あら。あんなに醜く膨れ上がって。マリア様、貴方の『強欲』は、本当に底なしですのね」
王都の北側にそびえる小高い丘。
そこには、漆黒の軍馬に跨り、風に漆黒の髪をなびかせるアメリア・フォン・アウグストの姿があった。
その隣には、大陸最強の「死神皇帝」ジュリアスが、彼女をいつでも守れるよう、剣に手をかけ、尊大に、そして深い情愛を込めて寄り添っている。
「アメリア、準備はいいか。……この醜悪な茶番を、今すぐ終わらせよう」
「ええ、ジュリアス。……バルセーヌの皆様。私に石を投げ、搾取し、不気味だと蔑んだ報い――その身をもって、最後まで味わってくださいまし」
アメリアが、手に持ったクリスタルの瓶――究極の浄化香『星霜の涙』を、高く掲げた。
「――燃えなさい。清浄なる炎となって、すべてを無に」
アメリアが瓶を床に叩きつけると、そこから立ち上ったのは、煙ではなく「純白の火柱」だった。
その炎は、アメリアがこの地で過ごした十八年間の「献身」と、裏切られた「憎悪」、そして今得ている「幸福」を燃料として、爆発的に燃え広がった。
シュアァァァァァッ!!
浄化の香気が混じった白い炎は、津波となって王都へと流れ込んだ。
それは、清らかな人間には何も影響を与えないが、呪い、怨念、そして「邪悪な魂」だけを執拗に焼き尽くす審判の炎。
「ぎゃああああああああああああああっ!!!」
マリアの繭が、断末魔の悲鳴を上げた。
数万の白い腕が、炎に焼かれて瞬時に灰へと変わっていく。
繭の奥底で、マリアは最後に見た。
遠くの丘で、大陸で最も尊い男に抱き寄せられ、世界で最も幸せそうに、そして冷徹に自分を見下ろしているアメリアの姿を。
(どうして……。どうして、私じゃないの……。私が、私が主役(聖女)だったはずなのにぃぃぃ!!)
その怨嗟の声も、浄化の炎に飲み込まれ、かき消された。
レイナルドも、王宮を蝕んでいた腐泥も、アメリアを道具扱いした腐敗した貴族たちも、すべては一瞬のうちに純白の炎に包まれ、何も残さない灰となって消滅していった。
やがて炎が収まった時。
そこにあったのは、忌まわしい怪異も、腐った王宮も、バルセーヌという国そのものが消え去った、ただの「更地」であった。
数百年にわたる呪いの連鎖は、アメリアという一人の呪術師の手によって、物理的にも、霊的にも、完全に断ち切られたのだ。
数ヶ月後。
バルドル帝国の帝都「ヴァルハラ」は、建国以来最大の祝祭に包まれていた。
全土から集まった数百万の市民が、国中を埋め尽くす白い花びらの中で、歓喜の声を上げている。
今日は、皇帝ジュリアスと、新たな「呪術皇后」アメリアの結婚式。
黒曜宮のバルコニー。
純白のウェディングドレスを纏ったアメリアは、見惚れるほどに美しかった。
かつての冷徹な「毒婦」の面影はどこへやら、今の彼女の瞳には、愛される喜びを知った女性特有の、柔らかで眩い光が宿っている。
「……アメリア。緊張しているか?」
正装を纏い、神のような威厳を漂わせるジュリアスが、アメリアの腰をそっと抱き寄せ、耳元で囁いた。
「いいえ。……ただ、少しだけ驚いているのです。あんな暗い地下室で、呪いにまみれて生きていた私が、まさかこんなに暖かな光の中にいるなんて」
「言ったはずだ。君を、日陰の道具などにはさせないと。君の才能、君の美しさ、そして君のすべてを、私は永遠に、この命を賭して愛し、守り抜く」
ジュリアスは、民衆の目の前であることも構わず、アメリアの額に深く、情熱的な口づけを落とした。
そのあまりの溺愛ぶりに、広場からは割れんばかりの歓声と祝福の拍手が巻き起こる。
「……ふふ。では、ジュリアス陛下。私も誓いましょう」
アメリアは、愛する夫の黄金の瞳を見つめ返し、いたずらっぽく、しかし最高に「あざとく」微笑んだ。
「これからは、私の調香はすべて、貴方お一人のためだけに。……そして、もし貴方を傷つけようとする者が現れたら、その時は私、もっと『不気味で残酷な呪い』で、その者を地獄へ送って差し上げますわ?」
「ああ。君になら、呪い殺されても本望だ」
二人は、眩い光の中で、深く、深く、永遠を誓う口づけを交わした。
かつて虐げられ、すべてを奪われた少女は、今、自分を正しく愛する者の手によって、世界で最も高貴で、最も愛される「皇后」となった。
そして。
消滅したバルセーヌ王国の跡地には、アメリアの浄化の炎のおかげか、毎年、見たこともないほど美しい「紫色の月見草」が咲き乱れるようになったという。
それはまるで、かつてそこにいた一人の呪術師が、偽りの聖女と愚かな王子に引導を渡した、勝利の証のように。
(完)




