3.名前を呼んで
レッスン室の前で、鈴佳は立ち止まっていた。
ガラス越しに見えるのは、ストレッチをしている他の練習生達。
慣れた様子で身体を動かし、笑いながら会話をしている。
「……やっぱ、場違いだよね。」
小さく、呟く。
「みんな、ちゃんと"目指してる顔"してる。」
プロデューサーは、鈴佳の横に立ちながらその様子を見ていた。
(ここだ)
ここが、"衣装を着るだけ"とは違う一歩。
でも、背中を押しすぎたら、彼女はきっと引いてしまう。
「今日は、見学だけでも大丈夫ですよ。」
「え、ほんと?」
「はい。踊らなくても、歌わなくてもいい。」
鈴佳は、ほっとしたように息を吐いた。
「……助かる。」
レッスン室に入ると、
インストラクターが軽く会釈をした。
「新しい子?」
「いえ、今日は見学で」
そう答えながら、プロデューサーは鈴佳の"立ち位置"を一番端に用意する。
目立たないけど、全体が見える場所。
そこに立った鈴佳は、自然と腕を組み、
真剣な目でレッスンを見始めた。
音楽が流れる。
振り付けは難しそうだった。
でも、鈴佳の視線は動きそのものより――
表情を追っていた。
「……ねえ、」
音楽が止まったタイミングで、鈴佳が小声で言う。
「今の人、ちょっと楽しそうじゃなかった?」
「どの人ですか?」
「あの、端っこの」
プロデューサーは、少し驚いた。
(そこを見るんだ……。)
インストラクターが近づいてきて、
鈴佳に声をかける。
「見学、どう?」
「は、はい!」
鈴佳は少し考えてから、正直に言った。
「……難しそう。でも」
一瞬、言葉を探して。
「なんか……楽しそう、でした。」
インストラクターは、意外そうに笑った。
「いいところ見てるね。」
その一言に、鈴佳は目を丸くした。
「……え?」
褒められると思ってなかった顔。
レッスンが終わる頃、鈴佳は少しだけ、前のめりになっていた。
足は動かしていない。
でも、身体が、リズムを覚えようとしている。
⸻
帰り道。
「ねえ」
鈴佳が言う。
「……あたし、アイドルになるって
"できる人がやるもの"だと思ってた。」
「はい」
「できなくても、楽しんでいいなら……ちょっと、やってみたいかも。」
鈴佳が、言いづらそうに続ける。
「……あの、もしさ。
あたしが、ちゃんとアイドルになるなら……」
一呼吸。
「……名前、呼んでくれる?」
プロデューサーは一瞬、言葉に詰まった。
今まで、
"この子"や
"彼女"で済ませてきた。
それは距離を守るためでもあり、
踏み込む覚悟がなかったからでもある。
でも、ここで名前を呼ぶことは、
責任を持つということだった。
プロデューサーは、ゆっくり口を開く。
「……叶美里さん。」
鈴佳は、一瞬きょとんとしてから
「……それ、いいね。」
そう言って、笑った。
「じゃあさ」
軽く拳を握って。
「ちゃんとアイドルになるから、ちゃんとプロデューサーしてよ」
その言葉は、契約書より、ずっと重かった。
プロデューサーは、まっすぐ頷く。
「はい」
この日、彼女はまだデビューしていない。
歌も、ダンスも、未完成だ。
でも確かに、「プロデューサーとアイドル」になった日だった。




