エプロンと生姜焼き
第七話『エプロンと生姜焼き』
翌朝、美冬は気だるさの中で目を覚ました。まだ起きていない頭で昨夜の事を思い出す。離れていた時間の分まで、愛に満たされた。貴之の体温を感じながら色々な話をした。この時間を終わらせたくなくて、必死に眠気に耐えた。途切れていく意識の中、遠くに始発電車らしい音が聞こえてきた事を覚えている。体に残る気だるさは二日酔いではなく、苦手な夜更かしをしたせいだろう。
隣を見ると、貴之がだらしない顔で寝ている。
「フフ……、可愛い」
その寝顔に愛しさを感じ、鼻先にキスをした。時計を見ると、もうお昼になろうとしていた。
「腰がだるいわ……」
貴之を起こさないようにそっとベッドから抜け出る。飲みっぱなしになっているビールを片付け、冷蔵庫を開けた。
「キャベツ、レタス……。他にも野菜はあるね」
冷蔵庫を開けたまま少し考える。
「ミートソースとサラダが精一杯か……」
そう言って冷蔵庫を閉めた。
美冬が調理を始めて間もなく、貴之が寝室からLDKに入ってきた。
「おはよ……」
貴之はまだ半分寝ているような顔をしている。
「おはよう。洗面所に歯ブラシ出しといたから、顔洗っておいで」
「ん……」
貴之はヨタヨタと洗面所に行った。
十分ほど経ち、少しスッキリした顔で戻って来た貴之。
「座ってて。コーヒー入れたから」
「サンキュ」
貴之は薔薇のオルゴールを手に取った。
「宝物なんだから大切に扱ってね」
対面キッチンなので調理をしている美冬がよく見える。肩甲骨にかかるくらいの髪をひとつに束ね、薄ピンクのエプロン姿の美冬。
「ん?」
貴之の視線に気付いた。
「え、あ、いや……。何か手伝おうか?」
薔薇のオルゴールをリビングテーブルに戻し、美冬に声を掛ける。
「うん、もう出来るからこっち来て。こっちのテーブルで食べよ」
「おう」
ソファの左手にはバルコニーに出る掃き出し窓がある。立ち上がった貴之は窓から外を見た。透き通った青空が、どこまでも続いていた。
木製のサラダボウルに見栄えよく盛り付けられた野菜たち。そして貴之の前にミートソーススパゲティが置かれた。
「ごめんね。冷蔵庫の中何もなくて、簡単なものになっちゃった」
「美冬の手料理、嬉しいな」
貴之がご機嫌に言うと、
「手料理って……。ミートソース、レトルトだもん」
美冬は恥ずかしそうに笑う。
「それでも美冬が作れば美味いよ。いただきます」
美冬は料理の腕には自信があった。これまでデートは外食ばかりで、貴之の家に泊まる時でも手料理を振舞った事はなかった。
「ね、後でさ、買い物行ってちゃんとしたもの作るから、夜ごはんも食べてって」
お願いする美冬。貴之は少し考えて、
「あのさ……」
と、話し始める。
「今回の仕事が始まってから、まともな時間に帰れてないし、先週も休めなかったんだよ」
ああ、ダメか……と、美冬の表情が曇る。
「今週はさ、今日も明日も休めるんだけど、来週はまた休めるか分からない」
「うん……」
美冬はスパゲティにフォークを立て、うつむき加減で返事をする。
「だからさ、今日も泊まってっていいか?」
美冬は、えっ? という表情で貴之を見た。優しい目で美冬を見ている貴之。その目を見て美冬の瞳が輝く。
「いいよ」
百パーセントの笑顔で答えた。
「ね、何食べたい? 何でも作るよ」
少し前のめりな美冬。もうミートソースはどうでもよくなり、食事の手も止まっていた。
「肉」
フォークにスパゲティを巻き付けながら貴之が答える。
「肉?」
「うん。生姜焼きとか」
美冬はニンマリと笑う。
「得意。任せて」
「ここんとこまともな物食ってないから、美冬の手料理、マジ嬉しい」
「私、こう見えて料理得意なんだから」
「お、自分でハードルを上げたな。期待するぞ?」
貴之は笑いながらミートソーススパゲティを口に運ぶ。
「ミートソースが私の全てだと思わないでね」
得意げに笑う美冬だった。
冬の乾いた空気は遠くの音も運んでくる。窓の外の車の音、少し遠くから電車の音、救急車のサイレンの音、そしてテレビから聞こえるお笑い芸人の声。貴之の胸にもたれる美冬には、どれが現実の音でどれが夢の中の音なのか分からなくなっていた。
穏やかな昼下がり。美冬は夢と現実を行ったり来たりしている。貴之は右手で美冬の肩を抱き、左手でスマホを操作している。テレビで芸人が渾身のギャグを言っても、二人とも聞いていない。
「なに見てるのぉ〜?」
眠そうな目を貴之に向け、とろんとした口調で美冬が聞いた。
「ん? うん、明日の天気……」
スマホを見たまま貴之が答える。
「天気ぃ?」
「うん。明日も良い天気みたいだよ」
「そうなんだぁ……」
あまり興味がなさそうに、再び目をつむる美冬。貴之はスマホから目を離さないまま、美冬に問いかける。
「明日さ、ディズニーランド行こうか?」
それを聞いた美冬はガバッと起き上がり、
「本当っ?」
期待に満ちた目を貴之に向けた。
「お、おう」
急な動きに驚いた貴之が、目ヂカラに押されながら返事をする。美冬はその首に抱きつき、
「行く! やったー!」
一発で目を覚ました美冬は、子供のようにはしゃいだ。貴之がスマホでチケットを購入し、美冬は喜んで貴之の頬にキスをする。そして二人は笑いながらディズニーランドの動画を観始めた。
そうしているうちに、陽がだいぶ西に傾いてきた。
「もうこんな時間! 私、買い物行ってくる」
薄暗くなってきた外に気付き、美冬が慌てた感じで言った。
「俺も行く」
貴之はそう言って、スマホをポケットにしまった。
貴之の右腕につかまり、駅とは反対方向のスーパーに向かう。よく歩く道だが、今日は全然違った景色に見えた。
車通りが少ない住宅街を歩く。道路で遊ぶ子供たちを見て、
「なんかこういう雰囲気、懐かしくていいな」
今は都内に住む貴之に、実家を思い出させる風景だった。夕飯の支度で漂ってくる美味しそうな匂いが、懐かしさを増長させる。
「ここに家買う?」
美冬より少し背が高い貴之に、上目遣いで聞く。
「近い将来な」
美冬の顔をチラッと見て言う貴之。嬉しくなった美冬は貴之の右腕をギュッと抱きしめた。
太陽が西に傾き始めたと思うと、あっという間に暗くなる。歩いた時間は十五分ほどだが、スーパーに着く頃にはだいぶ暗くなっていた。
「いつもここで買い物してるの?」
「ううん、休みの日だけ。平日は駅前のスーパーで買い物してる」
店内はとても混みあっていた。
「ここの方が安くて、物も良いのよ。だからいつも混んでる」
手に取ったキャベツの裏側をチェックする美冬。貴之はカゴを乗せたカートを押している。
「お味噌汁の具、何がいい?」
「じゃがいも」
美冬の問いに即答する貴之。
「お、気が合うね。私もじゃがいものお味噌汁好き」
ちょっとした共通点も嬉しく感じる。
「生姜焼きと何にしようかな……切り干し大根は好き?」
「え? そういうのも作れるの? おふくろの味じゃん」
「切り干し大根はそんなに難しくないよ」
食材選びに夢中になりながら答える美冬。ふと、貴之がじっと見つめている事に気付き、
「なに?」
と、聞いた。
「俺たち、夫婦に見えるかな?」
美冬はまたニッコリと笑い、
「あなた、今日は生姜焼きでいいかしら?」
少しふざけながら、嬉しそうに言った。




