薔薇の灯る夜
この時間に広場にいるのは酔った人ばかりで、中には大声で叫ぶ若者もいる。金曜深夜、帰る事を諦めた人が次の行き先を探していた。
貴之との会話が途絶え、美冬はまたうつむいている。午前一時を回り、少し気温が下がった気がする。貴之はベンチに深く寄りかかり、夜空を見上げる。明るい都会の空にも、星は輝いていた。
ひとつ、ため息をつく。
「美冬といると、落ち着くな」
夜空を見上げたまま、独り言のように呟いた。美冬はうつむいたまま、何も答えない。そこに風が横切り、美冬は肩をすぼめた。
静かな時間がゆっくりと流れていく。
国内有数の大手企業であり、総合商社としては日本最大の企業、大熊正商事。創業百年記念プロジェクトの詳細は聞いていないが、相当な規模であろう事は想像がつく。そして競合相手は虹色システムズや楽園といった、こちらも日本を代表するような超巨大IT企業。美冬が想像する事すら出来ない程のプレッシャーを、貴之は感じていたのだろう。LINEどころではなかった、その理由は理解出来た。貴之の心が自分から離れた訳ではないことも。
『美冬といると、落ち着くな』
ならばなぜ、苦しい時に頼ってくれなかったの……?
追い詰められた時に支えになれない自分は、貴之にとって何なのだろう……
さっきまでとは違う寂しさが、美冬の胸にじんわりと広がっていく。
二人の間に沈黙は続き、ガヤついた街の声が美冬の耳に遠く聞こえる。背もたれに寄りかかっていた貴之は上体を前に倒し、自分の膝に肘をついた。そして真っ直ぐを見つめる。冬の澄んだ空気が、夜の景色を鮮やかに魅せる。
「なぁ、美冬……」
貴之のその声は冷たい空気を伝い、暖かく美冬に届く。
少し、間を置いて……
「俺の事、今も好き?」
美冬はドキッとして、そっと視線を上げる。その瞬間、美冬の心臓は爆発しそうになった。
膝に肘をついた姿勢で、下から覗き込む上目遣いのその目は、まるで甘える子犬のようだった。美冬はすぐに目をそらし、また下を向いてしまった。
胸の高まりが収まらない。貴之の問いに答えることが出来ない。下を向いていても貴之の視線を感じる。もう一度あの目を見たら息が止まってしまうと思った。
「す、好き……だよ……」
なんとか絞り出した声は、言葉として理解できる程度には貴之に届いただろう。
「た、貴之は……貴之はどうなの?」
と、小さな声で聞いた。
貴之は美冬から視線を外し、再び背もたれに寄りかかる。そして、右手を美冬の背中の背もたれにかけた。斜め上の空を見て、ふーっと息を吐く。
「俺はな、美冬がいないとダメなんだよ。例え会っていなくても、心の中に美冬がいないと、俺はダメなんだよ」
どこかに連れて行かれそうなくらい優しい声だった。背もたれにかけた手を美冬の肩に回し、優しい力で自分の方へ引き寄せる。そしてうつむく美冬を見つめて、
「愛してる、美冬」
街のガヤつきが薄れ、ネオンが遠くなっていく。寒さすら感じない。世界に二人だけしかいない、まるで夢の中にいるような、不思議な感覚だった。
うつむいたまま、時間が流れているのかさえ分からなくなっていた美冬に、少しずつ街の音が戻ってきた。風の冷たさも感じる。そして胸の中の寂しさは消え、ほのかに暖かいものが広がっていくのを感じていた。
「なぁ、美冬」
貴之が呼んでもうつむいたままの美冬。寂しくてうつむいている訳ではない。爆発しそうなくらい鼓動していた心臓も、穏やかに落ち着いている。だがなぜか、貴之を見るのが恥ずかしい美冬だった。
美冬の反応はなかったが、貴之は言葉を続けた。
「これからさ、美冬の家に行ってもいいか?」
それを聞いた瞬間、美冬は勢いよく貴之に顔を向けた。その表情に笑顔はなく、カッと見開いた瞳には強い目ヂカラが宿っていた。
「だ、ダメだよな……、う、うん……、わ、分かった……」
何かマズイこと言っちゃったか? と貴之は引きつった笑顔でそう言った。
一転美冬はニコッと笑い、
「いいよ。行こ」
貴之が戸惑うのもお構いなしに手を引き、タクシー乗り場に歩き出した。
タクシーにはすぐに乗れた。深夜の道路はガラガラで、運転手も随分スピードを出していたが、美冬の家に着いたのは二時半近かった。
美冬は冷蔵庫から缶ビールを取り出し、貴之に渡す。
「おつまみ何もない。ポテチでいい?」
「おう、いいよ。座ろうぜ」
リビングのソファに並んで座る二人。缶ビールで乾杯をする。
「美冬んち、初めてだな」
美冬が貴之の家に行くことは多かったが、貴之が美冬の家に来たのは初めてだった。
「急だったから、何も用意してないよ」
「なんか、女の子の部屋って感じだな」
ピンク基調の中に造花や観葉植物、インテリア小物などがセンス良く置かれている。
「あ、これ」
目の前のリビングテーブルに置かれたオルゴール。
「貴之に貰ったやつだよ」
去年の美冬の誕生日に、貴之が贈った薔薇のオルゴール。
美冬はオルゴールのスイッチを入れ、部屋の電気を消した。暗くなった部屋に優しい音色が広がり、LEDランプの光がキラキラと薔薇を輝かせる。
「綺麗だな……」
「いつもこうやって、ひとりでお酒飲んでる」
美冬はそこで言葉を切り、薔薇のオルゴールを見つめながらビールをひと口飲んだ。
「貴之を、思いながら……」
そう言葉を加え、隣に座る貴之にそっと視線を移す。オルゴールの光に照らされた貴之の横顔。その横顔に美冬は言う。
「寂しかったんだから……」
貴之はオルゴールを見つめたまま右腕を美冬の肩に回し、優しく引き寄せた。
「ごめん。もう絶対、寂しい思いはさせない」
そう言って美冬に顔を向ける。近い距離で見つめ合う二人。
「この間もそう言った。次、こんな思いさせたら、もう知らないから」
言い終わった美冬の唇に、貴之は唇を重ねた。深く、熱いキスから始まり、やがて二人の空白は埋まっていった。




