終電は所沢まで
十月最初の金曜日。野薔薇はいつもよりも早起きをしてタクシーに乗っていた。助手席後ろの後部座席に座り、隣に大きなフルーツバスケットが置いてある。窓から見る空には大きくて立体的な白い雲が浮かんでいて、穏やかな秋晴れの空が季節の移ろいを感じさせていた。
野薔薇はスマホで経済ニュースを読んでいたが、やがてウトウトとうたた寝をしてしまう。
「お客さん、着きましたよ」
運転手に起こされ、カードで会計を済ませてタクシーを降りた。
「大きい病院ね」
埼玉協栄病院。そこは野薔薇が想像していたよりも、大きくて綺麗な病院だった。
あらかじめ柿崎から聞いていた順路で病院内を移動する。外科の入院病棟はケガをしたアスリートなど若い患者も多く、活気があった。その"活気エリア"を抜けて奥に進むと、萌が入室している個室がある。
「こんにちは……」
「はい。あら、お友だちですか?」
ベッドの傍らで返事をしたのは、萌の母親だろう。
「ごめんなさいね。萌は今、寝ているの。どうぞ、お入りください」
野薔薇はベッドに近付いた。
「これ、食べ頃になるのは一週間から十日後くらいなので、そのくらいなら萌ちゃんも食べられるかと思って」
お見舞いに持ってきたフルーツバスケットを母親に渡した。
「まぁ、こんな上等なものを。この子、果物が好きだから喜びます」
「具合は、どうなんですか?」
静かに眠る萌の寝顔を見ながら聞いた。
「今は寝てばかりなんですよ。先生の話では、体が一生懸命回復しようとしてるんですって。眠るのは戦っているからなんだって」
「…………ただ、脊椎に傷がついてしまって、歩けるかどうかは微妙みたいで……」
母親の声のトーンが落ちた。
「そうなんですか……」
お互いに次の言葉が見つからず、重い沈黙ができた。
「あなた、美冬さんでしょ?」
ふいに母親が口を開く。
「え? あ……はい」
「やっぱり! 萌がいつも言うんですよ、あなたの事。とんでもなく綺麗な人だって。だからすぐ分かりました」
「いや、そんな……」
点滴の透明な雫が規則的に落ち、チューブを伝って萌の体に入っていく。戦っているとは思えない、穏やかな寝顔だ。
「この子、昔からあまり友だちが多い方ではなかったんです。でもね、あなたの話をするようになってから、なんだか楽しそうで。最近はほら、あなた達とお酒を飲んで、夜中に帰ってくる事もあるでしょ」
萌が好美たちと飲んだ時は、美冬も一緒だと思っているようだ。
黙って寝顔を見続ける野薔薇。
「根は明るい子なんです。あまり落ち込む方でもないし。今回はこんな事になってしまったけど、自ら命を絶つような子じゃないんです」
「お母さん……」
野薔薇は母親の顔を見た。
「美冬さん、今回の事でこの子を見限らず、これからも仲良くしてやって下さい。どうか、どうか……」
母親は野薔薇の手を取り、震える声ですがるように言うのだった。
週末の夜の銀座。クラブ華月は今日も煌びやかに賑わう。
昼間は萌の病院にいた野薔薇も今は夜の天使モード、今日も重森のテーブルに付いていた。
「なぁ、野薔薇。近藤くんとは何があった?」
ブランデーをロックで飲む重森。野薔薇が三杯目のそれを作っている時に、唐突に重森が聞いた。
「何がって?」
重森の前にブランデーを置きながら、上目遣いで聞き返す野薔薇。
「あの男はな、少し芯が弱いところがあるが、いいものを持ってるぞ。何があったかまでは聞かんが、もう許してやってもいいんじゃないか?」
「何を仰ってるの? 辰雄さんたら」
言いながら重森の肩に触れ、楽しそうに笑ってみせる。
内心は少し、動揺している。
重森がただ者ではない事は、最初の接客ですぐに分かった。貴之を追い詰めるための強力な武器になるが、扱いを間違えると自分が不利になると察した。
安っぽい女の武器は通用しそうにない。牽制でそれとなく朱莉の事を匂わせてみたが、重森は意にも介さなかった。接すれば接するほど、重森の大きさと深さは計り知れないと知った。そしてその愛人の朱莉も……
重森を利用するのは危険すぎるが、味方につけておけばかなり有利に事が運べる、そう思っていた。
だが、貴之がここまで重森に気に入られるとは思っていなかった。重森が貴之を可愛がれば可愛がるほど、貴之を失墜させるのは困難になっていく。
「意外と人を見る目はないのかしら……」
そう呟いた時に、トイレから重森が出てきた。
「はい、辰雄さん」
重森におしぼりを渡し、後ろを着いて席に戻った。
深夜一時半。運転手の光司にマンションの前まで送ってもらった野薔薇は、部屋に入って電気をつけた。その瞬間にスマホが鳴る。画面を見た野薔薇は、思わず苦笑いをした。
「もしもし、柿崎さん。どっかから見てるの?」
『え? なんだ、いきなり?』
「電気をつけた瞬間に電話が鳴ったわ」
『ああ、だいたいこんなもんかなと思ってさ。今、所沢にいるんだ』
「所沢?」
野薔薇はスマホをスピーカーに切り替え、着替えながら話す。
『谷田部はほら、池袋から西武線に乗り換えるだろ? 銀座で捕まえるのはさすがに近藤の目が怖い。それに、池袋もレグルスがある新宿から目と鼻の先だ。西武線の同じ電車に乗りこんで、所沢で降ろす』
「なるほど。谷田部さん、多分月曜日に来るわ」
『分かるのか?』
「今日来たいって電話があったけど、辰雄さんが来るからって断ったの。そういう時はいつも、週が明けたらすぐに来るわ」
『なるほどね。所沢駅からすぐのとこに、ブルージーンっていう小さなバーがある。そこに連れ込むよ。場所は後で送っとく。月曜に谷田部が来たら連絡をくれ』
野薔薇は了解して電話を切った。
そして月曜の夜、野薔薇の予想通り谷田部がクラブ華月に現れた。
「恒夫さん、金曜日はごめんなさいね」
野薔薇が水割りを作りながら言う。
「いやぁ、いいんだ、いいんだ。重森様のご登場じゃしょうがない。俺なんか、重森様の足元にも及ばないからな」
「そんな事ないですよ、恒夫さん。国土交通省の管理職なんて、誰にでもなれるものじゃないですもの」
野薔薇が谷田部の前に水割りを置き、谷田部がそれをひと口飲む。
「そうなんだよ。たまたま奴が就職した先が大熊正商事で、俺が就職した先が国交省だっただけの事。俺だって民間に入ればあのくらいは出来たし、重森が国交省に入ったってここまで出来たか分かんないよ?」
野薔薇は優しく微笑んでいる。
「つったって、現実はだいぶ差がついちゃってるけどね……」
「恒夫さん……」
野薔薇が顔を近づける。フワッと、上品な香りがした。
「ここだけの話ですけど、私は辰雄さんよりも、恒夫さんの方が優しくて人を思いやれる人だと思ってますよ」
他に聞こえないように、小声で話す野薔薇。目の前にある野薔薇の顔に、谷田部の心臓は高鳴る。
「あ、ああ……それは……」
谷田部はしどろもどろに答え、水割りを口にする。
「ま、まぁな、今回のプロジェクトだって、俺がいるから成り立つんだ。そのうち俺が大臣にでもなって、野薔薇にポンッとマンションのひとつくらい買ってやるから」
「まぁ、楽しみだわ」
そうして谷田部は現金で会計し、店を出ていった。
谷田部が店を出たと連絡を受けた柿崎は、池袋に移動を始めた。今は貴之が柿崎を警戒していないため、見られている可能性は低いが、最大限に警戒しながら移動する。そして西武線の改札口から中に入り、改札を通る人が見える位置で待機した。
「つっても、奴が乗る電車は決まってるんだけどな……」
野薔薇から連絡をもらった時間に銀座を出ると、谷田部の自宅がある入間まで行く電車は二十三時二十九分が最後になる。案の定谷田部は二十四分頃に改札を通過し、飯能行きの最終電車に乗り込んだ。
柿崎は谷田部の後を追って電車に乗り、動き出してから声を掛けた。
「こんばんは。谷田部さんですよね?」
いきなり声を掛けられ、谷田部は怪訝そうに柿崎を見る。
「あ、お忘れですか? これは失礼。週刊さきがけの柿崎です。大熊正商事さんの会合で何度かお目にかかっていたので、お声を掛けてしまいました」
「ああ、記者さんですか」
「そういえばお話させて頂くのは初めてでしたね。どうです、軽く一杯?」
柿崎が唐突に誘うと、谷田部はさすがに驚いた顔をした。
「え? 今からですか? いや、明日も早いし、この電車で帰らなきゃ帰れなくなりますから。せっかくのお誘いですが……」
「いやいや、そう仰らずに。少しだけですよ。タクシー代は俺が出しますから。取材って事で会社に請求しちゃうんで」
「いや、今日は勘弁して下さい。また日を改めて」
「そうですか……」
柿崎はここで引き下がり、しばらく雑談を続けた。谷田部は少し煙たそうだった。そして所沢駅のひとつ手前の駅に停車した時に、
「それはそうと谷田部さん、クラブ華月の支払いも大変でしょう? あんな所に毎週通ってたら、金がいくらあっても足りないですよね」
少し声のトーンを上げてそう言った。谷田部は驚きと焦りが混ざったような表情で柿崎を見る。
「どうですか? 次の所沢で一杯やりましょうよ」
柿崎はニヤリと笑った。
読んでいただき、ありがとうございます。
次の更新予定は2月19日です(⋆ᴗ͈ˬᴗ͈)”




