ドアの向こう
「美冬、今の彼氏でしょ?」
「うん……」
スマホから好美に視線を移して返事をする。
「どうしたの?」
少し前にいた景子が、なかなか来ない二人のところまで戻ってきた。
「彼氏からラブコールが来ちゃったのよ」
好美が答える。
「マジで? よかったじゃん」
美冬はまだ、今起きた出来事の整理が出来ていない様子だった。
「呼び出されたんでしょ? 行っといで」
好美にそう言われたが、
「うん。でも……」
煮え切らない美冬。
「でもじゃないでしょ。ここは完全に彼氏優先でしょ」
景子も美冬の背中を押す。
「ちょっと……怖いな……」
待ち焦がれていた貴之からの連絡。美冬の中の会いたい気持ちは揺るがないが、その周りを不安が覆う。
「大丈夫よ、美冬。あんたは大丈夫。行っておいで」
好美の"大丈夫"には何の根拠もなかったが、美冬の中の不安は少し薄くなったようだ。
「分かった。行ってくる」
「仲直りしといで」
景子の表情も優しい。
「ありがと。ごめんね」
美冬はそう言ってタクシーに手を上げた。
「西神宿町の思い出通りにある、木こりの切り株っていう居酒屋までお願いします」
行き先を告げると、タクシーはゆっくりと走り出した。窓の外で見送る好美と景子にごめんと手を合わせ、美冬はシートに寄りかかった。
「行っちゃったね」
遠のいていくテールランプを見ながら景子が言う。
「ま、彼氏からの呼び出しじゃあしょうがない。どうする? うちらは二人で福ちゃん行くか?」
「だね。もう、飲み気分になっちゃってるしね」
二人の間を北風が通り過ぎていく。
「さみっ。早く行こ」
そう言って二人は歩き始めた。
貴之からの電話。悪びれる素振りもなく、当然のような態度。
「こっちの気も知らないで」
呟いた言葉とは裏腹に、安心感のような感覚が広がっていく。
貴之とは一昨年の十二月、合コンで知り合った。無理に頼まれて仕方なく参加した合コンだったが、思いのほか盛り上がった。
その場のノリで連絡先を交換したが、貴之は毎日連絡をしてきた。美冬も貴之に対して悪い印象はなく、二人で会うようになるまでにそれほど時間は掛からなかった。
年が明け、貴之からの告白で二人は付き合い始めた。
「なぁ、美冬。誕生日、何が欲しい?」
貴之の香りがするベッドで聞かれ、美冬は少し考える。
「一輪の……薔薇の花」
いたずらっぽい上目遣いで貴之に答える。
「なんだよ、それ。美女と野獣かよ」
そう言って笑う貴之の耳元に口を近付け、
「お城に連れていって。誰よりも、愛しい……」
映画で観たセリフを囁き、二人は大笑いした。
二月二十八日、美冬の誕生日。貴之は美女と野獣をモチーフにした薔薇のオルゴールを美冬に贈った。ガラスドームに真っ赤な薔薇の造花が入っており、スイッチを入れると、音楽とともに薔薇の周りに散りばめられたLEDランプが光る。美冬はそれをとても気に入り、宝物にした。
貴之に会える週末が楽しみだった。平日の仕事終わりに会うこともあったが、会えない日はいつも朝一番で貴之から電話が来る。そんな毎日を過ごしながら、季節は流れていった。
十月頃から貴之の仕事が忙しくなり、平日はなかなか会えなくなった。しかし電話やLINEが全くない日は、一日たりともなかった。
クリスマス、年越しを一緒に過ごし、冬季休暇が明けてすぐの一月十日、話があると貴之に呼び出された。
「でかい仕事が取れそうなんだよ!」
美冬に会うなりはしゃいだ様子でそう言い、キョトンとしている美冬に続ける。
「いや、これが取れたら凄いんだよ。本当はまだ話しちゃダメだって上から言われてるんだけどさ、嬉しくなっちゃって。美冬には話しちゃおうと思ってさ」
美冬はテーブルに両肘をつき、組んだ手の甲に顎を乗せた格好でクスッと笑う。
「可愛い、貴之」
美冬にそう言われた貴之は、
「お、おう……」
少し照れた。
「明日はさ、早朝から直行しなきゃだから、朝の電話は出来ないかもしれない」
「分かった。応援してる」
優しく笑う美冬。
「ちょっと忙しくなるけど、寂しい思いはさせないからな」
その日を最後に、貴之との連絡は途絶えた。
「何が"寂しい思いはさせないからな"よ」
タクシーの後部座席から窓の外を見ながら、声に出さずに呟く。その視線は自然と鋭くなっていた。
しかしタクシーを降りて店の前に来ると、美冬の体に再び緊張が広がってきた。
このドアの向こうに、貴之がいる。
たった十六日間で、凄く距離が離れてしまった。貴之の隣に座っても、もうその距離は縮まらないのではないか……そんな不安が、ドアに手を伸ばすことを躊躇させている。
『あんたは大丈夫だから』
好美の言葉が頭をよぎった。
「とにかく、行くしかない!」
美冬は大きく深呼吸して、ドアに手をかけた。
「いらっしゃいませー!」
店内は壁が少ない開放的な空間で、所々に丸太をそのまま使ったような化粧柱が通っている。『木こりの切り株』の店名通り"都会の中の森"をイメージしたデザインの店内は、金曜日という事もあり、ほぼ満席の状態だった。
「お待ち合わせですか?」
店内を見回す美冬の様子を見て、女性店員が問いかける。美冬は"はい"と答えると同時に、
「美冬!」
ガヤガヤの中から呼ぶ声を見付け、そちらに顔を向けた。
奥の席から手を振る貴之。一瞬息が止まり、心臓が破裂しそうになった。
体が動きたがらない。目を閉じて息を吐き、ゆっくりと目を開く。右足に意識を集中させ、ようやく一歩を踏み出した。
緊張を悟られないように、席に近付く美冬。表情が硬くなっている事は感じたが、そこは操作できなかった。
四人掛けのテーブルは貴之の隣が空いており、貴之の向かいにガッチリした若い男が、その隣には細身の若い女が座っている。
「ここ座れよ、美冬。最初はビールでいいよな。お姉さーん、生四つ持ってきてー」
美冬の返事は聞かずに注文する貴之。まだ緊張が解けていない美冬は、自然を装いながら貴之の隣に座った。
「ちょ、ちょっと貴さん! 彼女、めっちゃ美人じゃないすか!」
ガッチリした男が言う。
「だろ? 俺の彼女だからな」
美冬がニコッと挨拶の笑顔を作る。
「美冬、こいつが圭介。……苗字なんだっけ?」
「ちょっと貴さん、そこ忘れます?」
圭介は貴之に言った後、
「米山っす! 米山圭介。貴さんの弟子っす!」
美冬に向かって元気よく言った。
「そう、米山だ。この間言ったでかい仕事、こいつと一緒にやってんだ」
「パートナーっす」
「バァカ、俺のパートナー名乗るなんて十年早えんだよ」
美冬はぎこちなく笑う。
「そうなんだ……」
想像していたものとあまりにも違う空気に、どう対応していいのか分からない感じだった。
「で、こっちが絵美ちゃん。筋肉バカにはもったいないけど、圭介の彼女」
「ちょっと貴さん、筋肉バカはないでしょ」
絵美は二人のやり取りに笑いながら、
「岡崎絵美です」
と、挨拶をした。
「私は齋藤美冬です。貴之の……彼女? でいいの?」
右隣に座る貴之の目を横目で見ながら美冬が聞いた。
「な、何言ってんだよ、決まってんだろ」
美冬の目ヂカラに貴之がたじろぐ。
「だって二週間以上無視してるじゃん……」
「あ、いや、それはな……」
貴之が困ったところに、生ビールが運ばれて来た。
「うし! 揃ったところで乾杯しましょう!」
圭介が言うと、
「お、おう。そうだな。カンパーイ」
助かったとばかりに貴之が続いた。流れのままに、テーブルの中央付近で四人のジョッキが合わさる。しかし、話は誤魔化せなかった。
「美冬さん、さっきの話ですけど、私も最近圭介くんに放っておかれてるんです」
「そうなの?」
すると圭介が慌てて、
「あ、いや、だから今日はこうして、お二人をお招きして……ねぇ、貴さん」
「そ、そうなんだよ。先週もその前も休みが取れなくてさ、明日、あさってはどうにか休めそうで、こうやって時間作れたから……なぁ、圭介」
必死にいいわけをしている貴之の姿が、少しずつ美冬の不安を晴らしていく。席に着く前とは違い、自然な笑顔が戻っていた。
「絵美ちゃん、私たちは私たちで、いい男でも探しに行こうか?」
今度は悪戯っぽく笑う美冬。
「あ、いいですね。私、乗ります」
絵美も同じように笑い、流し目で圭介を見る。圭介は飲みかけたビールから口を離し、
「ちょっと絵美、勘弁して……」
そう言ってから残りのビールを飲み干した。




