定時退社……そして着信音
午後になると営業は外出し、オフィスは静かな空気になる。
バードエステートを発売した頃は、既に"クラウド型営業支援システム"が出回り始めた時期だったが、それを上手く活用できる企業は少なかった。
リーヴァには鳥飼システムで営業支援システムを使いこなす実績があったため、システムとコンサルティングをセットで販売するという独自の戦略がとれた。これがバードエステートが大成功する要因になった。
そしてその役割を担うのが、美冬たちが所属するシステム営業部である。
美冬が入社した時は一課だけだったシステム営業部も、三年後には今の三課体制となり、渋谷に本社ビルを構えるほどにリーヴァは成長した。そしてこの時に、好美と景子が入社してきたのだった。
少し西に傾き始めた太陽の穏やかな光が、窓から差し込んで来る。ゆっくりと時間が流れる中、美冬は軽やかなリズムでキーボードを叩いている。
「課長、私たち三人、今日は定時で帰りますんで」
静かなオフィスに好美の声が響く。
「おう、突然どうした?」
今、オフィスにいる管理職は二課課長の林田だけだった。
「いや、あのね、悩める乙女の相談に乗ってやらないとなんですよ」
好美が言い、美冬の手が止まる。
「なんだ、悩める乙女がいるのか」
「そうなのよ。このままだとあの子、よからぬ事考えそうで……」
「ちょっと! やめてよ、好美ちゃん。私、よからぬ事なんて考えないから!」
思わず口を挟む美冬。
「お、なんだ。悩める乙女は齋藤さんか」
「そうなんですのよ。ここではああやって強がってますけど、齋藤美冬、悩んでますのよ」
好美の声が大きいので、
「何? それなら俺も相談に乗るよ」
「齋藤さんの悩みなら、俺、本気出すよ」
オフィスに残っている営業たちも興味を持ち出した。
「ダメよ。私の可愛い美冬、あなた達には触らせないわ」
好美が営業たちに言う。
「勘弁して〜」
美冬はデスクに顔を伏せた。
十七時を過ぎると、出掛けていた営業たちがチラチラと戻ってくる。オフィスの中の人数が増えるにつれて、慌ただしさが増していく。
システム営業部員はバードエステートの販売の他、それを活用した営業コンサルティングを行う。ただ使い方を説明するだけではなく、進捗中の案件に合わせて実際にバードエステートを使い、契約に至るまでの戦略をサポートしている。
そのため自分でも物件を知っておく必要があり、日中は物件の下見や調査、夜にオフィスで資料作成や打ち合わせを行う。
今は社員に長時間労働をさせないよう、企業に努力が求められている時代。リーヴァも例外ではなく、残業をさせないよう各部長に通達されていた。が、システム営業部には定時に帰る社員はほとんどいなかった。
営業本部には残業をしていないように見せるため、退勤処理をしてから仕事を続ける。いわゆるサービス残業であるが、それでも部員のモチベーションが高いのは、成果に対する報酬がしっかりと支払われる事、それと何より部長の新田の手腕と言えるだろう。
システム営業部はみらい不動産の営業店舗で成績優秀者が選ばれて集まった、いわば精鋭部隊である。そこをまとめる新田は、自らの記録を自らで塗り替え続けてきた伝説の男だ。
十八時。終業時間であるが、オフィスはガヤガヤしていて終わる気配がない。そんな中、
「よぉし、帰るぞ。何かある奴、いるか?」
新田の野太い声が響いた。
「ないでーす」
「ありませーん」
まばらに返事が返ってくる。
「お前らもあまり遅くまでやらないで、帰れる奴は帰るんだぞ」
新田はそう言いながら立ち上がる。"役職者が率先して定時に帰るようにしないと、部下は帰らない"という事で、部長が一番先に帰るように会社から指示が出ているのだった。
「はーい、部長。私たちも帰りまーす」
好美が大きな声で言った。好美は新田に対してさえ、敬語を使わない事がある。それが許されてしまうのが、好美だった。
「おう、帰ろう。じゃ、お先ね」
そう言って新田はオフィスから出て行った。
「課長、私も今日はお先に失礼します」
美冬が一課課長の松田に言う。部下の七海と打ち合わせをしていた松田は話を一度切り、
「おう、了解。あ、頼んでおいた資料見たけど、完璧だったよ。ありがとね」
笑顔で美冬に答えた。
「みっふゆ、行くよ」
好美と景子が美冬のデスクに迎えに来た。
「なんだ、今日は三人でどこか行くのか?」
「そうなんですよ、松田課長。美冬は今、悩める乙女……」
「やめて好美ちゃん! それ以上言わないで!」
好美が言おうとするのを慌てて止めた美冬だが、少し遅かった。
「なんだ齋藤さん、悩んでるのか」
「松田課長〜……」
美冬が泣き顔の様な表情で訴える。
「大丈夫、好美お姉さんがちゃんと相談に乗ってくれるから」
そう言う松田に、
「そうじゃないんです。もう、先行く。お疲れ様でした」
プンプン、といった感じで席を立ち、出入口ドアに向かう美冬。
「可愛いぃ、あの子……ヤバくないですか?」
好美がとろける様な顔をして、松田に同意を求める。
「アハハ……武田さんは齋藤さんの事が大好きなんだな」
松田が言うと、
「多分この人、そのうち食べちゃうと思います。美冬の事」
すかさず景子が言い放ち、笑いが起こった。
「あ! 景子、行くよ。美冬、待って」
好美は美冬がドアを出たのを見て、慌てて追いかけようとしたが、
「あ、お疲れ様でしたー。お先しまーす」
思い出したように言い、慌ただしく出て行った。
エントランスの自動ドアを出ると、氷のような冷気がビル風となって襲ってきた。
「さっむい! こりゃ福ちゃん、絶対混むわ」
「だね。早く行こ」
そう言って足を早めようとした時に、美冬のスマホが鳴った。もそもそとコートのポケットからスマホを取り出し、画面を見た途端に美冬の足が止まった。
色を失って画面を見つめる美冬。
「どした?」
先に行きかけた好美が立ち止まり、覗き込んだ。着信画面には"貴之"と表示されている。
「あんたちょっと! これ、彼氏じゃないの? 早く出なよ!」
好美に急かされて我に返った美冬は、ゆっくりと好美に顔を向けた。
「う、うん……」
ぎこちなく頷き、大きく息を吸う。
「も、もしもし……」
恐る恐る電話に出た。自分でも分かるくらい、緊張した声だった。
「あ、美冬? 俺、俺。仕事終わった?」
想像もしていなかった貴之の軽い声に戸惑い、美冬は言葉に詰まる。
「美冬? 聞いてる?」
「え……? あ……」
あまりにも普通な貴之に、徐々に我を取り戻してきた美冬。今度は怒りが込み上げてきた。
「き、聞いてるじゃないわよ! 全然連絡くれないで!」
思わず声を荒らげた。
「ごめん、ごめん。でさ、会社の後輩と飲むんだけど、美冬も来いよ」
貴之は全く悪びれずに言った。
「え? 今から?」
「そう。今から。切り株、分かるだろ?」
貴之は切り株という居酒屋を指定している。
「分かるけど……」
「オーケー。じゃあ先に行ってるから、美冬も来てな」
「えっ、ちょっと、待っ……」
そう言った時には、既に電話は切れていた。
「なんて勝手な……」
美冬はそう言いながら、呆れたようにスマホを見つめた。




