嵐の口火
ゴールデンウィーク前日の金曜の夜。ファミレスの店内はとても賑わっていた。若い男女のグループはビールやワインを手に持って、大笑いをしている。
美冬は席に戻るなり、グラスになみなみと注いだオレンジジュースを一気に半分飲んだ。
「萌ちゃん、裏の仕事をしているって貴之の話、信じたの?」
「映画みたいな話だと思いました。そんな話、現実にあるのかなって。今考えれば変な話だと思います。でもその時は貴之さん、凄く誠実に見えたし、なんか、信じちゃいました……」
萌はそこでうつむいた。
「あと……」
下唇を噛み、なにか躊躇っている。
「どうしたの?」
「私、写真撮られちゃったんです、裸の……」
うつむいたまま、ギリギリ美冬に届く声で囁いた。
大きな目を更に大きく見開いて、動きが完全に止まった美冬。
「そこまで……」
美冬は混乱している頭を落ち着かせる事に集中する。
……少し落ち着いてから、話を整理してみた。
萌はバレンタインデーにホテルで酔いつぶれ、意中の人と連絡が取れなくなった。それを聞いた美冬たちは、萌の体が目当てだった相手が、それを果たせなかった事に気分を悪くして去っていったと思っていた。
「その相手は貴之だった……」
貴之が土井に女を紹介させた。そして萌と知り合い、翌週にはスノボ旅行に出掛けた。萌の話にはなかったが、体が目的ならそこで果たせていただろう。
「もしかしたら実際……」
うつむいている萌を見る。胸が、締めつけられた。
バレンタインデーも、性欲を満たしたかったのなら約束通り美冬とデートすればそれでよかったはずだ。だが貴之はわざわざ約束を破ってまで萌と過ごした
ゆっくりとオレンジジュースを飲み、胸を静めてから美冬は口を開く。
「どう考えても萌ちゃんの体が目的とは思えない。萌ちゃん、バレンタインの夜の事、もうちょっと思い出せない?」
「そう言われても……」
「思い出すの辛いかもしれないけど、その日にあった事を順に追ってみよう」
美冬に言われ、貴之が呼んでくれたタクシーでホテルに着いたところから、萌は話し始めた。
「……で、食事が終わって勉強会を始める事にしたんです。カバンからパソコンを出して……」
「萌ちゃんはその時、もう酔っ払ってたの?」
「いえ、ちょっと食べ過ぎてお腹は苦しかったけど、酔っ払ってるって自覚はなかったです」
なるほどといった感じに、美冬は小さく何度か頷く。
「私はパソコンを立ち上げて、貴之さんが私の隣に座って、説明を始めました。……その辺からの記憶が曖昧なんです」
「パソコンは会社で使ってるやつ?」
「はい、社内サイトにマニュアルがあるので、それを使って説明しようと思って」
「社内サイト……」
美冬は考え顔で呟く。
「萌ちゃんが意識を失う前に社内サイトには入っていた?」
「入ってました。それは間違いないです」
即答で断言したところをみると、この記憶には自信があるのだろう。
美冬は確信した。
「萌ちゃん、大丈夫よ。貴之は萌ちゃんの……その……」
「写真、ですか?」
「うん。それを盾にする事は出来ないわ。私、絶対に萌ちゃんに謝らせるから」
決意の表情の美冬。それは同性の萌でも見惚れるほどの美しさだった。
近いから歩いて帰ると言った萌を一緒にタクシーに乗せた。萌を自宅前で降ろし、後部座席にひとりになった美冬。
「貴之……そこまでして成功させなきゃならない仕事なの?」
窓の外に顔を向けて呟く。
『会社全体が社運を掛けてますって感じでさ。プレッシャーが半端ないんだ』
深夜の新宿駅前広場で貴之が言った言葉。電話で話していてもどこか疲れているように思える日があった。
「何でもひとりで背負って、弱い所を見せようとしないから……」
『会社での貴さんはスーパーヒーローっす』
圭介はそう言った。
「でも貴之は生身の人間。ちゃんとした判断が出来なくなっているのは、ストレスとプレッシャーのせい」
マンションの入口前でタクシーを降り、夜空を見上げる。
街の明かりに負けずに凛と輝く月と目が合った。
「私が、連れ戻さなきゃ」
薄い星空から見下ろす月は、暖かくも冷たくも見えた。
美冬はマンションの階段を上って、自宅の玄関前に立った。鍵を開け、ドアノブに触れた時、気持ちがスーッと抜けていくのを感じた。
誰もいない暗い部屋。ここは美冬にとって強がれない空間……
靴を揃えることもせずにフラっと玄関を上がる。手さぐりでリビングの電気をつけると、部屋がパッと明るくなった。
美冬はソファに座り、目の前にある薔薇のオルゴールのスイッチを入れた。LEDランプに照らされた真っ赤な薔薇がゆっくりと回り始める。リモコンで部屋の電気を小さくし、光る薔薇を見つめた。
オルゴールの優しい囁きが、そっと美冬の心に寄り添う。
「貴之、何であんな事を……」
美冬の頬にスっと涙の筋ができる。自分が泣いていると自覚した瞬間、一気に感情が爆発した。
わんわんと声をあげ、子供のように泣きじゃくる。崩れるように体を倒し、クッションに顔を埋めて、爆発を繰り返す感情のままに泣き喚いた。
やがて全ての体力を使い果たしたように、美冬は眠りに落ちた。
静けさを取り戻した部屋。オルゴールの音色が、子守唄のように美冬を包んでいた。
ゴールデンウィーク初日の今日は灰色の厚い雲が青空を隠し、どんよりとしていた。
空はどんよりとしているが、力尽きるまで思い切り泣いたおかげで、美冬の気持ちは回復していた。
だが……
「ひっどい顔……」
ボサボサの髪の毛に、蚊に刺されたかのように腫れ上がったまぶた。化粧が崩れてボロボロの顔が鏡に映っていた。
貴之からコロナにかかったと連絡を受けて六日が経つ。恐らく熱も下がった頃だろう。
「お風呂、沸かすか……」
美冬は今日、貴之に会いに行く事を決めていた。ただ、泣きながらソファで変な格好で寝てしまったせいで、頭にも体にもダルさが残っている。そこに加えて酷い顔で鏡に映る自分を見て、風呂でリセットする事にした。
美冬は小さい頃から風呂が大好きだった。嫌な事があっても、ゆっくりとお湯に浸かっていると、とても落ち着いた気持ちになる。
力の限り泣き、ソファでの睡眠では取り切れなかった疲れが溶けていく……
「フガッ……」
今日もまた、お湯が冷めるくらいの時間は寝てしまったようだ。美冬は追い炊きボタンを押し、リモコンの時計を見た。
「えっ? 十一時半っ?」
驚いて声を出し、リモコンに顔を近付ける。
「私、お風呂で二時間も寝てたの……?」
風呂から上がった美冬は、冷凍のミートソースでブランチを済ませた。
「私のいいところは、悩んでいてもちゃんと食べるところと、スヤスヤ眠れるところね」
そう呟いてはみたものの、悩みが消えたわけではない。
「夢だったらよかったのに……」
窓に近付き、灰色の空を見上げた。
萌は飲み過ぎて意識を失くしたわけじゃない。恐らく薬を使ったのだろう。アルコールに睡眠薬を混ぜるなど、どれほど危険な事か。ましてや口を封じるために裸の写真を撮るなんて。
もしかしたら今の貴之には罪悪感すらないのかもしれない。仕事を成功させるために仕方がない事だと。
「心が壊れてしまうほどのプレッシャーなら、もう辞めさせなくちゃ」
呟いてから美冬は、薄いピンクの口紅をなぞった。
電車を乗り継ぎ、世田谷区の光尊寺駅に降りた美冬。ここから貴之が住むマンションまで、ちゃんとした歩道がない道を、慎重に十分ほど歩く。この道をひとりで歩くのは初めてだ。
いつも貴之が左斜め前を美冬の手を引いて歩いていた。
「なんか、凄い昔の事のように感じる……」
想いに浸りながら歩き、交差点に近付く。この角を曲がると貴之のマンションがある。
少し緊張しながらも、歩を緩めずに曲がり角を曲がった。
およそ五十メートル先にあるマンション。そこで美冬は、足を止めた。
朝から空を覆う雲は更に厚みを増し、薄気味の悪い黒ずんだ色へと変わった。生ぬるい風が嵐を予感させる。
「なんか気味が悪い空だな」
マンションのエントランスから出てきた貴之が、空を見上げて言う。
「何か起こるかもね」
貴之の後ろからワクワクしたように絵美が出てきた。
絵美が貴之の家に押しかけてきてから一週間、二人はかなり親密になっていた。"とにかく懐に入っちゃえばなんとかなる"という、絵美の強引な作戦が功を奏している格好だ。
「傘取ってきた方がよくないか?」
「いいよ。降ってきたらコンビニの上のカラオケで雨宿りすればいいじゃん」
絵美はスっと貴之と腕を組み、スタスタと歩き出した。
美冬は、マンションから出てきて腕を組んで歩いていくカップルの後ろ姿を見ていた。その表情から感情は読み取れない。だんだんと遠ざかっていくカップルの後ろ姿を、身動きもせずに見つめている。
暗雲は太陽の光を遮り、薄暗い街に生暖かい風が吹く。カップルが向こうの角を曲がり、姿が見えなくなっても、美冬はその場から動かない。時折、雲の中から、低い獣の呻き声のような雷が聞こえていた。
厚い雨雲が空一面を覆ってから、既に二時間以上が経つ。生暖かい風が吹き、雲の中からは低い雷鳴が聞こえる。が、なかなか雨が降ってこなかった。
何かを待っているように……。
さいたま市の野咲本町駅。フラフラとした足取りの美冬。その瞳に光が宿っていない。まるで魂を抜かれた人形のようだった。
昨日の萌の話、先ほど見た信じられない光景。
精神が限界を超えたと脳が判断し、意識を封じ込めてしまったようだ。
駅から出てきた美冬は、そのままフラフラと自宅に向かっている。真っ黒な雲は、そんな美冬をじっと見つめていた。
美冬はマンションの入口前で立ち止まり、ゆっくりと空を見上げた。光が宿らない瞳で数秒の間空を見上げ、またフラフラと歩き出す。そしてマンションに入っていった。
その直後に、大粒の雨が勢いよく降り始めた。まるで耐えかねたかのように……
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次の更新予定は1月21日です(⋆ᴗ͈ˬᴗ͈)”




