プランB
土曜日の新宿は平日とは違う表情に見えるが、人の多さはいつもながらだ。
貴之が萌を連れて来たのは、バレンタインデーの日のあのホテルだった。部屋のテーブルにランチのコースが並び、向かい合って座る二人。
「パーティーを、やり直そう」
そう言ってワインを注ぐ貴之に、ワインを見て戸惑う萌。バレンタインデーの日の失敗を気にしているのだった。
「大丈夫、ゆっくり飲もう」
貴之の優しい声。萌はニコッと笑い、グラスを手に取った。
「ベトナムってさ、システム未開拓なんだけど、現地の人の労働意欲は高いんだよ。これからが期待出来そうな国だから、そこに拠点を構えようって話でさ。今回はその視察ってわけだったんだ」
「ベトナムですかぁ……」
フォークを片手に感心する萌。
「萌ちゃん知ってる? ベトナムってバイクだらけなんだよ」
「バイクですか?」
「そば屋の出前で使うようなバイク分かる? あれにさ、三人乗りは当たり前だし、あのバイクで冷蔵庫運ぶんだぜ? 信じられる?」
「ありえない……」
萌は驚き顔で呟いた。
「もう道路もカオスでさ、信号なんてあってないようなもんよ。交差点を渡るのも命懸け……」
萌は食事の手が止まるくらい、貴之の話に夢中になっていた。
「食べ物はどんな感じなんですか?」
「フォーばっか。朝昼晩フォーづくし。美味いんだけど、一週間フォーはキツいわ」
貴之の言い方が可笑しくて笑う萌。心の雲が晴れていくのを感じていた。
食事が終わると貴之はスっと立ち上がり、萌が座るイスの後ろに回った。キョトンとしている萌の首を後ろから抱きしめるように腕を回す。
「この間の、続きをしよう」
耳元で囁いた。うつむく萌を立ち上がらせ、ベッドに誘う。仰向けに寝かされた萌に、貴之の顔が近付いてくる。萌は目を閉じた。貴之の唇の感触の後に、優しい愛撫がはじまる。萌は夢の世界に入っていく。
やがて愛撫が激しくなり、萌がオーガズムに達しようとした時、貴之は左手にスマホを構えた。
カシャッ、カシャッというシャッター音に目を開け、萌は驚いた。
「貴之さんっ? 何するの?」
思わず声を上げる。
「ごめん、萌ちゃん」
「ごめんじゃないです! 写真撮ったんですか? 消して下さい!」
取り乱す萌を強く抱きしめて言う。
「聞いて、萌ちゃん。俺もこんな事はしたくないんだ」
抱きしめる強さとは裏腹に、その声はこれまで聞いたことがないほど優しかった。萌は抵抗をやめた。体を起こし、ベッドの上で向かい合う二人。
「詳しい事は言えないんだけど、こうして萌ちゃんと会っている事がバレると、ちょっとマズイんだ」
「どういう……こと?」
「俺は普通の仕事をしていない。なんて言うか、勤め先が表立った活動をしていない組織っていうか……」
「ヤクザとか……?」
覗き込むように貴之を見て、そーっと聞く萌。
「いや、それとも違う。逆に政府の仕事とかはあるけどね。犯罪行為はしていないよ。裏の仕事をしているっていうか……あんまり"裏"とは言いたくないんだけどさ」
萌は唾を飲み込んだ。
「土井ちゃんをこっちに引き込んだのも俺なんだ」
貴之の話が続く。
「ちょっとトラブルがあってさ、俺がかなり参ってたんだ。土井ちゃんがそれを見かねてさ、息抜きしろって。一緒にいるだけで落ち着ける女がいるから、会わせてやるって言ってさ」
「それが、私……?」
貴之は立ち上がり、部屋に備え付けられたバスローブを取ってきた。
「虹ラボは楽しかったし、スノボ旅行は本当、現実を忘れる事が出来たよ」
言いながら萌にそっとバスローブをかける。
「でも、現実は忘れる事が出来ても、逃れる事は出来ないんだ」
萌がうつむく。
「何もなければ問題ない。でも何かあった時は俺だけじゃなく土井ちゃんも、最悪萌ちゃんも巻き込まれる事になっちまう。良くて罪をでっち上げられてムショ送り、悪ければ……」
「そんな……」
「いや、政府が絡んだ組織だから、そんな事も出来ちまうんだ。だからこの事は誰にも知られるわけにはいかない」
「私、誰にも言いません!」
「分かってる。でもほら、ワイン飲みすぎると違う萌ちゃんが出てきちゃうじゃん?」
萌はかぁーっと顔を赤らめる。
「私、あの時何をやっちゃったんですか?」
貴之はクスッと笑う。
「いや、覚えてなければいいんだ。ただ、ああなった時でも"これは言えない事だ"って、意識が及ばない深層心理にまで刻まなきゃいけない」
貴之はスマホを手に取り、
「これはそのために必要な保険なんだ」
戸惑う萌に言った。
「大丈夫、ここに保存してあるだけ。もちろん誰にも見せやしないし。結果的に脅しみたいになっちゃうけど、萌ちゃんを守るための保険だから」
貴之は立ち上がり、カバンの中から封筒を取り出した。
「俺は萌ちゃんを幸せにしてやる事は出来ない。でも萌ちゃんには本当に助けられた」
そう言いながら封筒を萌に渡す。中を見ると、帯を解いていない一万円札の束だった。
「こんな……」
「分かってる。こんなもんで萌ちゃんを傷付けた償いにはならない。でもこれが、俺に出来る精一杯なんだ」
百万円という、個人で出すには決して少なくない金額が、貴之の話に信ぴょう性を持たせた、貴之はその手応えを感じた。そしてうつむいた萌の頬を涙が伝うのを、冷めた気持ちで見下ろしていた。
「冗談だろ? そんな話を信じたっていうのか?」
貴之から報告を受けた土井は、電話越しに声を荒らげた。
「最後は涙の別れだよ。貴之さんの事は忘れません、忘れるなんて出来ない……なんて言っちゃってな」
「大丈夫なのか、本当に?」
「ちゃんと裸の写真も撮ったし、大丈夫だよ。メールで送ろうか?」
「そんなものはいらんし、証拠に残るような事はするな!」
「とにかく詳しい事は月曜に話すから。切るぞ?」
駅のホームで電話をしている貴之は、既に電車を一本逃していた。
「明日時間を作る。明日説明してくれ」
「あのなぁ土井ちゃん、明日は日曜日だろ? 俺にだってプライベートってもんがあるんだよ」
まだごちゃごちゃ言っている土井に"電車が来たから切るぞ"と、一方的に電話を切った。電車に乗って時間を見ると、十七時を回ったところだった。
美冬との旅行で美冬と萌の関係を聞き、今日萌に会う必要が出来てしまったのは予定外だった。
「しっかし、世間知らずのネンネちゃんだな。こっちは助かったけど」
今日は夜から別の予定を考えていたが、萌が簡単に聞きわけてくれたので予定の帳尻は合った。
「余計な時間と金を使ったが、ま、誤差の範囲か……」
そう言って貴之は、暗くなり始めた窓の外に目をやった。
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次の更新予定は1月9日です(⋆ᴗ͈ˬᴗ͈)”




