オレンジジュースとため息
時刻は十一時四十分を少し過ぎたところ。始業直後の慌ただしさを通り過ぎると、オフィスには落ち着いた空気が流れる。
「んー……ちょっと早いけど、昼行くかなぁ……」
伸びをしながら言う好美の声が、静かなオフィスに響いた。
リーヴァでは昼休憩の時間を固定しておらず、社内サイトで休憩登録をした後の一時間が昼休憩となる。
「美冬、行ける?」
間にある営業マンのデスクを越えて、好美の声が飛んできた。
「行けるよ」
美冬が答える。
「景子は?」
「行ける」
景子の返事を確認し、
「じゃあ私たち三人、お昼行ってきまーす」
好美が三人を代表して言った。
南の空に移動した太陽が強い光を放っているが、街路樹を踊らせる北風が寒さを増長させる。
「新しくできたパスタ屋に行ってみようよ」
好美の提案に乗り、三人はパスタ屋に向かう。渋谷駅から少し離れた"裏霞野"と呼ばれるそのエリアには、個性的なカフェやバー、レストランなどが点在し、洒落た雰囲気を漂わせている。
「ここだ。いい感じじゃん」
レンガ調の外壁にアンティークランプ、どこかノスタルジックな雰囲気を漂わせる店構え。和風瓦の庇の上に掲げられている木製の看板には、『珈琲とパスタの店 BALBOA』と書かれている。
「バルボア……」
好美を先頭に店内に入ると、外から見た印象より少し広く感じた。昼のピーク前の店内はまだ空いており、三人はすぐに席に通された。
「メニュー多いね。これは迷うわぁ……」
豊富なメニューを決めかねている好美と景子をよそに、美冬はもう決めたようだった。
やがて好美は、いい? と二人に確認し、店員を呼ぶボタンを押した。
「お決まりでしょうか?」
すぐにやって来た女性店員が問いかける。
「私は醤油のファーマーズスパゲティにします」
まず好美が注文をした。
「ああ、どうしようかな……」
好美の注文を聞いてまた迷い始めた景子だったが、
「いいや、ペスカトーレで」
そして最後に美冬が注文をする。
「私、ハンバーグランチ」
「ちょっと美冬! 正気?」
「ここ、パスタの店だよ?」
美冬の注文を聞いて驚く二人に、
「だってメニューにあるよ、ハンバーグランチ」
サラッと答える美冬。確かにメニューにはハンバーグの他にも、ピザやグラタンなども載っていた。
「いや、それにしたってさぁ……」
「初っ端からハンバーグいく?」
「いいの。今日の私はハンバーグ気分なの」
二人の意見にマイペースに答える。
「あんたはいつもハンバーグ気分でしょうが……」
美冬の好物がハンバーグという事は、好美も景子も知っていた。
店員はそのやり取りに笑いながら、
「ランチセットにはサラダとお飲み物が付きます。お飲み物はどうされますか?」
と聞いた。
「私はカフェ・ラテで」
「私も同じで」
好美に景子が続く。
「私はオレンジジュース」
「ちょっと美冬! ここ、パスタと珈琲のお店!」
店員はまた笑い、
「オレンジジュースは当店で搾ったものなので、とても美味しいですよ」
と、美冬をフォローした。
店内の高い天井からペンダントライトが下がり、ぼんやりと柔らかな光を放つ。壁の所々には絵画が飾られ、壁付けの棚にたくさんのワインが並べられている。
「夜、飲みに来るのもありね、この店」
昭和レトロとイタリアンがバランス良く融合された店内、三人が見回しながら話している時に、飲み物が運ばれてきた。
「キャー! ラテアート! なんて可愛いの!」
お洒落なハートがアートしてあるカフェ・ラテに分かりやすく感動する好美。
「本当、飲むのが勿体ないね」
景子も賛同する。そう言いながらも飲み物に口をつけ、会話が一旦途切れた後、
「で、どんな状況なのよ?」
好美は突然本題に入った。
「どうって?」
急に場の雰囲気が変わり、少し驚いた美冬が聞き返した。
「彼氏とよ。会えてないの?」
「うん……」
「どのくらい?」
「二週間ちょっと」
そこで好美と景子は、えっ? と顔を見合せた。
「二週間くらい会わない事あるよね?」
景子が言う。
「あるある。仕事が忙しかったりすると、二週間会わない事なんてあるわよ」
好美も続く。
「会えてないだけじゃなくて、連絡もないの……」
いつの間にか店内は満席になり、入口ドアの外に置かれたベンチに座って待つ人もいた。
美冬はオレンジジュースを口に含み、少し寂しげな瞳でグラスを見ながら、ストローでゆっくりと掻き回す。
「あんた、本当にいい女ね」
まじまじと美冬を見て、好美が言う。
「アハッ、また始まった」
景子が笑って言うと、
「だってさ、あんた。オレンジジュースひと口飲むのがこんなに絵になる女、いる?」
好美はちょっと興奮気味に言うのだった。
街で振り返られるどころか、芸能界にいても目立つくらいの容姿を持つ美冬。くっきり二重の大きな目からは強い目ヂカラが発せられ、一見近寄り難い感じがするが、性格は人懐っこく、ぽやんとしている。そのギャップが好かれる要因のひとつとなり、異性からも同性からもモテた。
好美が美冬に見惚れていると、料理が運ばれて来た。
「いやぁ、美味しそう!」
「ハンバーグも美味しそうね」
「でしょ?」
ひと口食べて感激し、料理に関する会話がひと段落すると、
「連絡がないって、LINEも?」
好美はまた唐突に話を戻した。
「ずっと既読にならなくて、今週の日曜日にやっと既読が付いたと思ったら、スルー」
美冬は滑らかにナイフを動かす。
「送ってはいるんだ?」
「日曜日に既読スルーされてからは送ってないよ」
ひと口サイズに切ったハンバーグをフォークで持ち上げ、口に運ぶ。
「最後に会ったのはいつ?」
「今月の十日」
好美が聞き、美冬が答える。
「今日何日だっけ?」
「二十六日」
好美が聞き、景子が答える。
「なるほどぉ。二週間ちょっとね」
好美はパスタを口に運ぶ。それを飲み込んでから、
「あんたさ、最後に会った時、何か言われなかった?」
フォークの持ち手を美冬に向けて聞いた。
「ん? 何かって?」
美冬はそう言ってからハンバーグを口に入れる。
「別れを匂わせるような……例えば、距離を置こう、みたいな」
美冬はぷっくりとした下唇に人差し指を軽くあて、右斜め下に視線を流して考える顔をした。そのまま目だけを動かして好美を見つめ、
「言われてない……と思う……」
少し自信なさそうに言った。その一連の仕草を見た好美は、
「あんた可愛いねぇ……悩める美冬、可愛いわぁ」
ウットリした目で美冬を見ながら、しみじみと言う。すると、
「悩んでる美冬じゃなくても、美冬なら何でもいいんでしょ。てか好美、ちゃんと聞いてるの?」
すかさず景子のツッコミが入った。
「いや、だってさぁ。パーフェクトなのよ、美冬は。他にこんな子いる?」
二人のやり取りを見ながら、美冬はもぐもぐとハンバーグを食べていた。
好美がそんな調子のせいで、話はあまり進まなかった。
「ねぇ、昼休み終わっちゃうよ」
食器は既に下げられ、中身が少なくなったラテボウルとグラスだけになっていた。
「あら、美冬の相談に乗るには、昼休みだけじゃ足りないわね」
そう言った好美は、
「好美が美冬に見惚れてる時間が長かったからでしょ」
またも景子にツッコまれた。
「とりあえず行こか。続きは仕事終わってから福ちゃんでってことで」
「あ、いいね。こういう寒い日は、もつ鍋いいね」
駅近くの飲み屋街に、福ちゃんという居酒屋がある。そこの看板メニューがもつ鍋だった。
「え? 続きがあるの?」
盛り上がる二人に戸惑う美冬。
「今日はもう、パーッと飲んでガーッと話して、スッキリしちゃいな」
「金曜日だからさ、早く終わらせないと席なくなるよね」
「そうだ! 今日金曜だ。今日は残業なし! 美冬、分かった?」
「分かった」
戸惑いながらも素直に従う美冬だった。




