鬼怒川の夜 星空の湯
ここは独特な香りがする。安らぎに包まれるような……
およそ二ヶ月前、二人で年越しをした時以来の貴之の部屋。
午前五時、スマホのアラームで美冬は目を覚ます。隣を見ると、貴之はまだ寝ていた。起こさないようにそっとベッドを抜け出し、洗面所に向かった。
「私、どんな寝方してた?」
鏡に映る自分に問いかける。酷い寝ぐせ頭だった。
ふと、床に落ちている髪の毛を見付けた。明らかに貴之のものではないセミロングの髪の毛。指でつまんだそれをじっと眺める。
「私のか……」
色も長さも美冬の髪の毛に近かった。
バレンタインデー以来、些細な事が気になってしまう。仕事の規模や重要性を考えれば他言出来ない事、極秘に動かなければならない事がある。部外者である恋人はもちろん、場合によっては仲間であるはずの社内の人間にすら秘密にする事も。
「理解してる……つもりなのにね……」
電話が来ない、LINEが来ない、送ったLINEに既読が付かない。そんな時に胸がザワついてしまう。今回の待ち合わせも、"もしかしたら来ないかもしれない"などという不安を感じてしまった。
「嫌ねぇ、疑り深い女って……」
卑屈な笑みを浮かべている鏡の自分に毒づいてみた。
美冬は手際よくサンドイッチを作り、貴之を起こした。
「コーヒー入れようか?」
「いや、朝メシは車で食おう。準備出来次第出発するぞ」
そして貴之の自宅近くのコインパーキングに停めておいた車に乗った。美冬の自宅に寄り、旅行荷物を取ってから日光に向かう。
歌でも歌いたくなるような素晴らしい快晴の下、東北道を軽快に走る。貴之はサンドイッチを片手にハンドルを操作し、助手席で美冬の笑顔が弾ける。
高速道路を下りてからもほとんど渋滞はなく、最初の目的地である日光江戸村には開園前に到着できた。
日光江戸村。江戸時代の街並みを忠実に再現したテーマパークで、訪れた人々はまるで江戸時代にタイムスリップしたような体験ができる。また、ここでしか見られないユニークなショーやイベントが随時開催され、日光を代表する人気観光スポットのひとつである。
開園と同時に入場し、二人はまず"時空"という屋敷に行った。ここでは侍や町娘など、当時の衣装に着替えることが出来る。
貴之は美冬の花魁姿を見たがったが、美冬は新撰組になるときかなかった。忍者ショーや水芸などを楽しみながら新撰組になりきっていると、今度は花魁の練り歩きショーが始まった。道の脇に避け、それが通り過ぎて行くのを見つめる二人。
「いやぁ、綺麗だったなぁ……」
貴之が声を掛けたが、美冬は遠のいていく花魁の行列をずっと眺めていた。
「美冬?」
「今度はあれにする……」
行列が見えなくなると、美冬は小さく呟いた。
美冬が江戸村をとても気に入ったため、その後の予定を全て取りやめて、暗くなるまで江戸村で過ごした。最後まで『花魁の衣装にすればよかった』と後悔していた美冬だったが、それ以外はとても楽しんだようだった。
街灯が少ない暗い道を走っていると、目の前に"光の居城"と言っても過言ではない煌びやかな建物が現れた。その豪華絢爛を形にした様な建物がある敷地の駐車場に、貴之は車を停めた。
「ここ、今日泊まるホテル。行こ」
助手席で呆然と見惚れている美冬を急かす。
「行くぞ、美冬。メシの前に風呂行こう」
間もなく十八時になる。夕食はホテルのレストランで予約してあるが、遅くとも二十時半までに入らなければならない。
フロントから受け取ったカードキーでオートロックを外し、部屋のドアを開ける。
「ほぇ〜……」
入口で立ち止まる美冬を尻目に部屋に入る貴之。慌てて続く美冬。
「貴之、このベッド、家族四人で寝られそうじゃない?」
「子供が小さいうちはいけるかもな」
そんな微笑ましい会話の裏で、
「(部屋は朱莉さんちのLDKくらいだな。ベッドは朱莉さんちのよりデカイな。キングサイズってやつか……)」
高級感を朱莉の部屋と比較する貴之。
「凄いよ貴之! こっちに露天風呂がある!」
そんな事に気付くはずもなく、無邪気にはしゃぐ美冬だった。
「まずは大浴場だろ。急ぐぞ、美冬」
箱根温泉、熱海温泉と並んで『東京の奥座敷』と称されるここ、鬼怒川温泉。
「あ〜……」
体を沈めた時に思わず声が出てしまうそのお湯に、日々の疲れが溶けていく。屋内の湯で体を温めてから、貴之は露天風呂に出た。
「美冬、可愛いよな……」
満天の星空の下、今日一日を思い返してみる。
貴之はこれまで、数多くの女性と関係を持った。一般的にみても、女性経験は豊富と言えるだろう。そんな中でも、美冬の可愛さは群を抜いていた。容姿も性格も、どこに出しても恥ずかしくないと思っていた。
「俺が世の中に出た時に、隣に置いとくのは美冬しか考えられないな」
無数に輝く星たちを見上げ、空に向けて右手を伸ばす。
「もう少しで、届くよ……」
ホテルのレストラン。貴之は事前にバースデーケーキを手配しており、それがワインを注いだタイミングで登場した。美冬が感激の中でロウソクを吹き消すと、店員だけでなくあちこちの席から拍手が起こった。
レストランで食事をした後ホテル内のバーに場所を変え、今度は静かに乾杯をした。
部屋に戻ると美冬が『露天風呂! 露天風呂!』とはしゃぎ、二人は専用露天風呂に一緒に入った。美冬は貴之の胸に寄りかかり、貴之は美冬を背中から抱いている。夜空に散らばる星が囁きかけてくるような、とても静かな時間。
「星って、こんなにたくさんあるのね」
「だな。東京でも同じ空を見ているはずなのに、まるで違う顔をしているよな」
生まれたままの姿で密着する二人。
「ロマンチックな事言うのね」
空を見ながら美冬が言う。
「ロマンチストなんだよ、俺は」
少し間を空けてから、二人同時に笑い出す。そしてまた、静けさに身を任せる。
優しく絡みつくお湯の中で感じる、貴之の肌の感触。アルコールでふわりとしているせいもあるのだろう、お湯に熔けて、魂が混ざりあっているような感覚に陥る美冬。
「……美冬? 寝てないか?」
「ふぁ……?」
貴之はクスッと笑い、そっと抱きしめた。
朝食の前に二人はまた大浴場に行った。ゆっくりと朝風呂を堪能し、レストランで朝食にしては豪華な食事をとった後、部屋に戻って来た。
貴之はベッドにゴロンと横たわり、
「チェックアウト何時だっけ?」
美冬に聞いた。
「十時だよ。もう少しゆっくり出来るね」
スマホは八時四十分を表示していた。
「ああ、でも今日帰るのかぁ……あっという間だったなぁ」
美冬が嘆くように言う。
「来年は二泊しような」
美冬は嬉しそうに、寝そべる貴之に軽いキスをした。
「貴之、起きて。そろそろ着替えないと」
ベッドに横たわったまま寝てしまった貴之。美冬はギリギリまで寝かせてあげたいと、そっと着替えとメイクを終わらせていた。
「ああ、寝ちったか……」
貴之は起き上がり、ベッドから降りた。
「ごめんね、毎日忙しいのに……」
毎日睡眠時間を削って働いている貴之。この旅行のために有給を取ったが、その代わり週末は休めないとの事だった。
「土日休めないなら、せめて明日は休んだら?」
「ああ、午後に人に会わないとなんだけど、午前中は寝ているつもりだよ」
貴之は何でもないように笑う。それでも申し訳なさそうな表情をしている美冬の頭にポンッと手を置く。
「そんな顔するな。まだ旅行は終わってないぞ」
俯いていた顔を上げると、包み込むような優しい笑顔がそこにあった。
「この旅行の締め括りは日光東照宮だ。神となった英雄の墓前で、二人の将来を誓うんだ。行くぞ、美冬」
座っている美冬の手を力強く引き、立ち上がらせる。そして唇に軽いキスをした。
「二人の……将来……?」
「そうだよ。行こう」
真っ直ぐに言う貴之に、美冬のトキメキは爆発寸前だった。
読んでいただき、ありがとうございます。
次の更新予定は1月3日です(⋆ᴗ͈ˬᴗ͈)”




