オレンジ色の空
春が顔を覗かせ始める二月下旬。
外の空気はまだ冷たいが、システム営業部の窓から差し込む陽射しはとても穏やかだった。
この日は朝から外出する者が多く、正午近くのオフィスはガランとしていた。特に二課は課長の林田を含む全員が外出しており、残っているのは好美ただひとりだった。
『これ、お願いします』、『資料、ここに置きます』と、好美のデスクにポンポンと資料が積まれ、次々と出ていく営業たち。
「なんなのよ、もう!」
ひとしきり騒いでから仕事に取り掛かり、今は黙々と打ち込みをしている。
キーボードを叩く音だけが響くオフィス。
正午を少し過ぎた頃、好美は背筋にザワっとした違和感を感じた。悪寒のような嫌な気配に、キーボードを叩く手が止まる。そして恐る恐る後ろを振り向いてみる。
「安西萌ーーーーーっ!」
驚きと恐怖が混ざったようなその叫びはオフィスの壁を突き抜け、外にまで響いた。オフィスにいる全員の手が止まる。
好美の後ろには、暗く、青白い顔の萌がどんよりと立っていた。まるで幽霊のように。
「ど、どうした?」
回転チェアを回して萌に聞く。
「お昼……行きませんか……?」
蚊の鳴くような声の萌。
「お、おう。いいよ」
驚きが治まったら今度はまるで生気がない萌が心配になり、またいつもの三人で萌の話を聞く事にした。
北風が冷たい空気を運んで来ていたが、太陽の光が降りそそぐ穏やかな一日だった。太陽は西に傾き、水色だった空はオレンジ色に染まり始めていた。
「貴さん、これから美冬さんに会うんすよね?」
「ああ、今週いっぱい休むから、頼むな、圭介」
得意先から会社に戻る電車の中、二人並んでつり革につかまっている。
「日光でしたっけ? いいなぁ。お土産、期待してますよ」
「バレンタインでやらかしちまったのを、お前にフォローさせちゃったしな。良い酒でも買ってきてやるよ」
圭介に朱莉の事を打ち明けてから十二日が経つ。
「レンタカーで行くんすよね? まだ雪残ってるかもっすよ? 怖くないすか?」
「まぁ、四駆でスノータイヤの車を予約してあるからな。この間もそれで雪山に行ったけど、全然平気だったよ」
「え? この間って、雪山なんていついったんすか?」
貴之は平静な表情を保っていたが、口が滑ったと内心は焦っていた。
「あ! あの日じゃないすか? バレンタイン前に焼肉行った次の日! 貴さん、早朝ドライブって言ってた日でしょ?」
「しっ! 声でけぇよ」
ただでさえ地声が大きい圭介だが、興奮すると迷惑レベルの大きさになる。
「いや、勘弁して下さいよ。貴さん、美冬さんと早朝ドライブだって言うから、美冬さんと飲んだ時、俺言っちゃったっすよ」
今度は意識して小声で話す。
「えっ?」
貴之の驚く声が大きくなった。
「いや、とっさに大熊正商事の吉澤課長とゴルフって誤魔化したけど、その後また課長の話が出た時に『ああ、ゴルフ好きの課長さんね』なんて意味ありげに言われちゃって……」
「そ、そうか……」
隠そうとしているが、圭介にも分かるくらい動揺している。そんな珍しい状態の貴之を見て、圭介は朱莉だと確信した。
ガタンゴトンという音の中会話が止まり、二人は正面の窓の外を見ている。
「須山さんとは、別れられるんすか?」
圭介が口を開く。電車は減速しながら駅のホームに入っていく。ドアが開き、人が降りる。そして降りた人数と同じくらいの人が乗ってくる。ドアが閉まり、ゆっくりと電車が動き出す。その間、貴之と圭介はほとんど動かなかった。
「朱……須山さんとは付き合っているわけじゃない。あの人は重森部長の愛人をやめられないんだよ」
圭介は貴之の横顔を見た。
「まさか、好きなんすか?」
貴之は口元を緩め、圭介に顔を向ける。
「俺が好きなのは美冬だけだ」
口元には笑みがあるが、射抜くような視線で、一切迷いがない言葉を圭介にぶつけた。貴之と圭介は睨み合うように見つめ合う。やがて貴之がフッと笑い、それに続いて圭介も笑う。
「仕事の事は気にしないで、旅行、楽しんできて下さい」
オレンジ色の空が、少しづつ薄暗くなっていった。
美冬は定時に仕事を終え、待ち合わせのコーヒーショップにいた。新宿駅近くのビルの二階、窓に向かったカウンター席。スマホから伸びる有線イヤホンで両耳を塞ぎ、外を歩く人々を窓越しにぼんやりと見下ろしている。時刻は十八時半を過ぎたところ。待ち合わせの時間は十九時だし、多分遅れてくるだろうと思っていた。オレンジジュースをひと口飲む。
「すっぱ! でも美味しいや」
隣に座る人がチラリと美冬を見た。イヤホンを通って流れてくる音楽で外の音を完全に遮断している美冬は、その独り言が意外と大きい声だった事に気付いていない。音楽で耳を塞いでひとりの世界を作り、旅行へのワクワクを噛み締める。周りなど全く見てはいなかった。
その美冬の肩に、ポンっと手が置かれた。
「ひゃあっ!」
心臓が飛び出すほど驚いた美冬のその声は、隣に座る人だけではなく店内にいる全ての人の視線を集めた。
「イヤホンしてるから聞こえないんだろ?」
美冬の右耳のイヤホンを外しながら笑いかける男。
「貴之っ! 早かったね」
美冬は嬉しそうに笑った。
冷たい風が少し強めに吹く中、美冬は貴之の腕にしがみつき、幸せいっぱいの笑顔で歩く。
「とっておきの店を予約してあるんだよ」
明日が美冬の誕生日、連れて行きたい店があるから旅行前夜に前祝いをしようと貴之からの提案だった。
四畳半の和室。板の間には名のある華道家が生けたような立派な花瓶の花。花瓶の後ろに、読み方も分からないがどこか凛とした気配を放つ掛け軸が掛けられている。
やたらと座り心地のいい座椅子に身を沈め、高級そうな濃い茶色のテーブルを挟んで向かい合う二人。
「わ、和食とは意外だったわ……ちょっと敷居、高くない?」
どこかオドオドした笑顔で美冬が言う。
「ここさ、この間仕事の接待で使った店なんだけど、めちゃめちゃ美味くてさ。美冬を連れて来たいと思ってたんだ。たまにはいいだろ? こういうのも」
慣れない場所に来て、更に貴之が頼もしく見えた。
そこに中居が最初の料理と酒を運んできた。"入ってすぐ"ではなく、"待たされている"という感覚を持つ前の、絶妙なタイミングだった。蓋付きの上品な椀を美冬の前に置き、そっと蓋を開ける。
「え? プリン?」
中を見た美冬が驚く。
「こちらは白子豆腐でございます」
優しい笑顔を向けて中居が言った。
「最初にプリンが出てくるわけないだろ」
貴之が笑う。
「ぶー。笑う事ないじゃない」
美冬が不貞腐れると、
「上にかかっているお出汁がカラメルソースにも見えますものね」
中居がお酌をしながら優しくフォローした。
「ごゆっくりどうぞ」
中居が出ていく頃には、美冬の緊張もだいぶ緩んでいた。
「おめでとう、美冬」
「えへ、ありがと。なんか照れる……」
おちょこで乾杯をし、クイッと飲み干した。ほんのりと果実の香りを漂わせながら、スっと喉を通っていく。
「美味しい、このお酒」
「これさ、東京で作ってる酒。和食との相性がいいんだよ」
少し得意げに言う貴之だった。
マグロの大トロを口に入れて間もなく、美冬は目を丸くした。
「溶けたよ……」
「え?」
「このお刺身、口に入れたら溶けたの」
大きな目を更に大きくして言う美冬に、貴之はプッと笑う。
「ほら、よくテレビとかで、口に入れたら溶けたー、とか言ってるじゃない? 私、これ初体験」
「実は俺も、この間来た時が初体験だった」
貴之がそう言った時に、
「失礼致します」
部屋の外から控えめな声がして、襖がスっと開いた。女将が静かに頭を下げ、部屋に入ってきた。
「ようこそお越し下さいました。楽しんで頂けてますか?」
立ち振る舞いも美しく、話し方も上品だった。
「先日はありがとうございました。今日はまた、こんなに可愛らしいお嬢さんをお連れで」
貴之はニコッと笑い、
「彼女、誕生日なんです。最高の誕生日にしたくて奮発しちゃいました」
女将に答えた。
「あら、素敵じゃないですか。おめでとうございます」
今度は美冬に声を掛ける女将。
「ありがとうございます。最高のお料理と、生まれてきた喜びを一緒に噛み締めてます」
「おお! 上手いこと言ったな、美冬」
貴之に言われ、美冬はにゃははと笑う。女将は優しく微笑み、
「いいお誕生日にして下さいませ。ごゆっくりどうぞ」
そう言って部屋から出ていった。
「一回来ただけなのに覚えてるなんて、すげぇな……」
「プロね」
料理の素晴らしさと女将のプロ魂に驚く二人。程なく、再び女将が現れた。二人の前にグラスワインを置き、
「私どもからお誕生日のプレゼントでございます。和食によく合うワインですので、どうぞお楽しみ下さい」
美冬に笑顔を向ける。
「いやぁ、素敵! ありがとうございます」
女将は笑顔のまま出ていった。
デザートまで食べ終え、美冬の感激は止まらない。
「誕生日って洋食のイメージだったけど、和食、すっごい良かった! 貴之、ありがとう!」
「よかった、喜んでもらえて」
数日前に朱莉と来た店。貴之の優しい笑顔から、その嘘を読み取れるはずもなかった。
読んでいただき、ありがとうございます。
次の更新予定は1月1日です(⋆ᴗ͈ˬᴗ͈)”




