それぞれの"九時半"
ホテルハイアット神宿、四十五階のスイートルーム。冬の低い太陽が、部屋の奥まで柔らかな光を届けている。
「うう……痛たっ……」
萌は酷い頭痛の中で目を覚ました。
見慣れない部屋……
体を起こすことが出来ず、横になったまま状況を把握しようとする。
「貴之さんっ! ううっ……」
ハッと思い出し、ガバッと体を起こすと、目の裏側辺りに激痛が走った。出来るだけ頭に響かないように、そーっと部屋を見回す。貴之の気配はない。ゆっくりとした動きで窓際のテーブルに移動する。閉じられたパソコンの上に、貴之の書き置きがあった。
『昨日はありがとね。ちょっと飲ませ過ぎちゃったね。代金は払ってあるから、ゆっくり休んで。また連絡する』
「私、やっちゃったんだぁ……ううっ、痛た……」
萌はこれまで、二日酔いになるような飲み方をした事がなかった。
「これが二日酔いなの……?」
パソコンを開けるとスリープモードのままで、ぼんやりと待機画面が浮かんできた。
貴之にパソコンを教え始めたところまでは覚えている。その時点ではそんなに酔っている自覚はなかった。だがその先が全く思い出せない。
ぺたんとイスに座り、時計を見ると九時半を過ぎていた。
「仕事、休も……」
そう呟き、萌はスマホを探した。
美冬はいつもより二時間半も遅れて、九時半に家を出た。見上げると抜けるような青空。
「素敵。今の私の気分みたい」
貴之がついた嘘は美冬との未来のため、いつか話してくれるだろう。美冬はご機嫌に歩き出す。
「お天気は良いし、誕生日は貴之と旅行だし、私は幸せだなぁ」
通勤ラッシュからズレた時間、美冬は悠々と座席に座った。誕生日旅行の約束がよほど嬉しかったのだろう。マスクに隠れた口元は緩みっぱなしだ。
「これ、具合悪いフリできないな。薬が効いてるみたいですぅ、って言っとけばいいか」
しかし会社に近付くにつれ、美冬のワクワクは緊張に変わっていった。
「どんな風に入っていけばいいんだろ……やっぱり具合悪い感じの方がいいのかな……」
会社に着き、システム営業部の入口まで来た。ドアの前に立ち、辛そうな表情を作ってみたり、ちょっと息を荒くしてみたり、中に入った時のイメージを練習している美冬。
「何やってんの、あんた?」
「ひゃあっ!」
トイレから戻ってきた好美が美冬の後ろから声を掛けたのだが、その好美が驚くほど美冬が驚いた。
「よよよよ、好美ちゃん、お、おはよ。お、お便所……?」
「お便所よ。びっくりしたわね。そんなとこにいたら入れないでしょ。早く入って」
「あ、ああ、そうよね……」
分かりやすく動揺している美冬が入口ドアを開け、二人はオフィスに入った。
「皆さーん、社長のご出勤よー」
「ちょ、ちょっとやめて好美ちゃん」
好美にからかわれながら確認すると、直属の上司である松田は外出しているようだ。
「おー、齋藤さん。大丈夫? 女の子は大変だな」
部長席から新田が声を掛ける。
「あ、部長! それ、セクハラですよ」
すかさず好美が返す。
「あ、これ、ダメか?」
労ったつもりで言った新田だが、セクハラと言われて少し慌てた。
「いや、セーフね」
今度は好美がクールに言った。
「部長、武田さんにやられましたな」
いつも好美にやられっぱなしの林田が、愉快そうに言う。
「いやぁ、武田さんにやられるのは林田課長の役目なんだがなぁ……」
新田の返しに笑いが起こる。
「部長、すみませんでした」
笑いの中で小さく言う美冬は、完全に置いていかれていた。
リーヴァ本社ビルからほど近い、裏霞野の目立たない路地に、一件の定食屋がある。美冬たち女子三人はいろいろな店をランチで利用するが、この定食屋で食べる事が一番多い。
「えっと、好美ちゃんが生姜焼き、景子ちゃんがチキン南蛮、で、美冬ちゃんがいつもの通りハンバーグね」
夫婦でやっている店だが看板ものれんも出していないので、知る人ぞ知るという店だった。美冬たちも店の名前は知らず、"おばちゃんの店"と呼んでいる。
「なんか、午前中あっという間だった」
「そりゃあんた、大寝坊して大遅刻してくりゃ、あっという間でしょうよ」
「大寝坊って、バレてる?」
美冬がバツ悪そうに笑うと、
「だってあんた、昨日バレンタイン、今日遅刻じゃ分かりやすすぎるでしょ」
好美が図星を突いた。
「好美ちゃん、鋭いね……」
「みんな知ってるわよ」
景子が冷静に言う。
「昨日さ、美冬がエナジードリンク買ってきた時に好美が騒いだでしょ? あれで昨日の美冬は寝不足だったってみんな分かってたじゃない。それでまた今日、『寝不足で彼氏とムフフじゃ、寝坊もするわよ』って騒いだのよ」
冷たい視線を向ける美冬を見ないようにして、好美はコホンと咳払いした。
「で、どうだったのよ? ま、大寝坊するくらいだから想像はつくけど……」
その好美の問いに、
「会えなかった」
お茶をふーふーしながらサラリと答えた。
会話が途切れたテーブル。しれっとお茶をすする美冬を、怪訝そうに見つめる二人。
そこにおばちゃんが料理を持ってきた。
「はい、これが美冬ちゃん、で、これが景子ちゃん……」
お盆に並べられた定食を、ひとつずつテーブルに並べるおばちゃん。
「美味しそう。いただきます」
美冬が箸を持っても、黙って美冬を見つめる二人。
「ねぇ美冬……」
ついに好美が口を開く。
「私の聞き間違いだったらごめんね。昨日彼氏と会えなかったの?」
「会えなかった。仕事で取り引き先に行って、戻れなかったの」
美冬は箸でハンバーグを切り、口に入れた。好美と景子は顔を見合わせる。
「夜更けまで泣いてて寝坊した?」
今度は景子が聞いた。
「泣かないよ。なんで泣くのよ?」
美冬がハイテンションな事はなんとなく感じていた。
「あんたさ、今まで遅刻したことあったっけ?」
「ううん、初めての遅刻だったの。すごい焦ったよ」
「うん。それからさ、あんた今日やけに機嫌良くない?」
美冬は、おっ! っという顔をして好美を見た。
「凄ーい、好美ちゃん! なんで分かるの?」
好美と景子は再び顔を見合わせる。
「美冬、ちゃんと話してごらん。なんで昨日会えなかったのに今日は大寝坊したの? なんで昨日会えなかったのにそんなにご機嫌なの? 会えなかったショックでおかしなテンションになってるんじゃないかって、私たちは心配してるのよ」
そう言って、二人はようやく箸を持った。
「なんだ、そんな心配するような事じゃないよ。私昨日、すごい寝不足だったじゃない?」
「うん、2時間ちょっとしか寝てなかったんでしょ?」
「そう。そんな寝不足の状態で、彼氏の後輩くんと飲みに行っちゃったの。だから今日寝坊しちゃったの」
「!!!!!」
好美は口に入れた生姜焼きを丸呑みしてしまい、景子は箸でつかんだチキン南蛮を落とし、唖然とした表情で美冬を見ていた。
「ゲホッ、ゲホッ、ゲホッ……」
景子は肉を喉に詰まらせてむせている好美に構わず、美冬に身を乗り出して聞く。
「彼氏の後輩くんって事は、男よね?」
「うん、そうだよ」
「バレンタインデーに彼氏じゃない男と二人で飲みに行ったの?」
「そうだけど、そんなんじゃないよ。彼氏の弟分だから、私にとっても弟みたいな感じだもん」
「もう! 死ぬかと思ったじゃないのよ!」
ようやく咳が止まった好美が涙目で言う。
「あんたさ、自分がモテるって自覚しないとダメよ。後輩くんがあんたの事好きになったら、面倒な事になるでしょ?」
「何それ? そんな事にはならないよ」
美冬はあっけらかんと笑う。
「自分がモテるって思ってる女もどうかと思うけどね」
そう言って景子も笑う。
「それに、後輩くんにも彼女いるよ」
「ああ、それだわ。あんたの人生はその彼女に刺されて終わるわ」
美冬は二人に事の顛末を説明した。
「なるほど。その後輩くんも彼女と上手くいってないのね」
話を聞いた景子が言うと、
「彼女とギクシャク、先輩の彼女に相談。これ、完全に美冬の事好きになるパターンよね」
好美が続き、二人でうんうんと頷く。
「違う違う、本来の目的は彼氏にバレンタインを渡したかったって事なの。そしたら後輩くんも彼女が会ってくれないって寂しそうに言うから、じゃあ飲むかって話になっただけだよ」
美冬が一生懸命説明をするが、
「だから後輩くんは先輩の彼女である美冬に恋愛相談したんでしょ?」
「何もズレてないじゃない」
そう返され、美冬も何を説明したいのか分からなくなってきた。
「でも誕生日旅行なんていいわねぇ、ロマンチックだわ……」
美冬は今朝の貴之との電話の事も話したため、"なぜ美冬がご機嫌なのか"という謎は解けていた。
「箱根だっけ?」
「ううん、日光って言ってた」
「ああ、冬の終わりの日光もいいわぁ。部屋にある露天風呂に二人で入っちゃってさぁ。そこに雪がチラついてきて。『綺麗だよ、美冬……』なんて言っちゃってさぁ」
好美はニヤニヤと連想しながら一人芝居を始めた。
「美冬の白い肩にこう手を回してさ。そしたら美冬がポっと頬を染めて、『あ、好夫さん、ダメ……』なんつって」
「ちょっと! 誰よ、好夫さんて!」
景子がゲラゲラ笑う。
「生まれ変わって美冬の彼氏になりたいわぁ……」
しみじみと言う好美だが、やけに本気っぽく聞こえる。
「来世で結ばれよう、好美ちゃん」
そう答えた美冬。
「もう、ずっとやってなさい」
景子が笑いながら言った。
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次の更新予定は12月25日です(⋆ᴗ͈ˬᴗ͈)”




