喜びと遅刻
スマホがけたたましい音をあげる。アラームではなく着信音である事を認識するまで、少し時間が掛かった。美冬は床に落ちているスマホを見つけ、慌てて電話に出た。
「美冬、おはよう」
まだ寝ぼけている美冬だが、貴之の声を聞いて、何故か胸の辺りがモヤッとした。
「昨日ごめんな。LINE見たよ。会社まで届けてくれたんだな」
ああ、昨日圭介くんから話を聞いた時のモヤモヤが残っているのか……
美冬の頭の中に昨日の事が少しずつ輪郭を取り戻してくる。
「そうなの。生モノだから早く渡したくて。貴之、戻るって言ってたから」
起きて最初に発した言葉、それは完全に寝起きの声だった。
「えっ、美冬っ? 今起きたの?」
貴之が驚いた声を出す。美冬はえっ? と思い、時計を見た。
「もう七時過ぎだぞ。大丈夫か?」
貴之の電話がいつもより早かったわけではない。美冬が目覚ましのアラーム音に気付かずに、今まで寝ていたのだ。
「大丈夫じゃ……ない……」
時計を見たまま、ボソッと呟く。完全に目が覚め、状況も把握した。
身に付けているのはブラウスとスーツのスカート。起きた場所はリビングのソファ。リビングテーブルの上で回る薔薇のオルゴールが、明るい部屋で目立たない光を放つ。
薔薇のオルゴールが動いている事に気付くと、急にオルゴールの音が耳に入ってきた。状況に似合わない、優しい音色だった。
「電話切るか? 急いだ方がいいだろ?」
貴之の声を聞きながら、手鏡に映る自分を見た。化粧は落としておらず、ひどい崩れ方。髪の毛もボサボサで、このまま行けるはずもなかった。
「ううん、諦めた……」
カーテンが開いている窓からは、優しい光が射し込んでいる。美冬は窓際に立ち、空を見ながら電話を耳に当てていた。
「圭介に会ったんだ?」
「うん。入口が閉まるちょっと前にエレベーターから降りてきて。私、圭介くんの名前が出てこなくて焦っちゃった」
「美冬、名前覚えるの苦手だもんな。あいつ、俺の事何か言ってた?」
その質問に、少し胸が騒いだ。
「何かって?」
努めて自然に聞く。
「あ、いや、何かっていうか……バレンタインに彼女放ったらかしてとか。あいつ言いそうじゃん」
「いろいろ言ってたよ」
「え? 例えば?」
「ウフフ、冗談」
貴之の反応に、いちいち違和感を感じてしまう。
「仕事、忙しいの?」
「ああ、昨日はちょっとトラブルがあってさ」
「大熊正商事と? 大丈夫なの?」
「いや、大熊正さんとの仕事の件でなんだけど、うちのシステム上の問題」
美冬は再びソファに座った。
「昨日はその件でうちのエンジニアと二人で動いててさ、そのエンジニアがまた扱いにくくて大変なんだよ」
「大熊正商事で打ち合わせしてるのかと思ってた」
「違うんだよ。むしろこれ、大熊正さんに知られちゃマズい事なんだ」
「圭介くんも知らないの?」
「圭介にも言ってない。てか知ってるのは俺とそのエンジニアだけ。内々に解決したい事なんだよ」
ならば圭介くんが貴之の行動を把握していなかった事も辻褄が合う。貴之は本当に大変だったのかもしれない……
美冬は、胸の中の霧が晴れていくのを感じていた。
「圭介くん、絵美ちゃんとの事で悩んでたよ」
「ああ、この間相談された。あいつ、美冬にまで言ってんの?」
「昨日ね、バレンタインデートに振られた者同士で少し飲んだの」
「え? 圭介と飲んだの? 二人で?」
貴之は驚いて、少し声が大きくなった。
「飲んだ。二人で。妬く?」
「あ、ああ、ちょっとな……」
「ウフフ、可愛い」
美冬は嬉しくなって表情が緩んだ。
「会社での貴之の話、いろいろ聞いたよ」
「悪口言ってたろ?」
「言ってた」
サラッと言った後、声を出さずに笑う。
「あの野郎……」
「ウフフ、冗談よ」
時間は間もなく八時になる。貴之に対する違和感もほとんど消えてしまった。
「じゃ、そろそろ行くわ。また夜電話できたらするよ」
「分かった。あんまり無理しないでね」
美冬が言った直後に、
「あ、そうだ! 肝心な事言うの忘れてた!」
貴之が慌てて言う。
「え? どうしたの?」
すぐには話し出さない貴之。何故か悪い予感がしてしまう美冬。
「今日会社行ったらさ、二十八日と二十九日、有給取っておいてよ」
閏年の今年は、二月が二十九日まである。
「有給?」
「あんまり遠くには行けないけどさ、日光あたりに誕生日旅行なんてどう?」
二月二十八日は、美冬の二十九回目の誕生日だった。
美冬は何も答えない。
「えっ? 美冬? 泣いてる?」
鼻をすする音を聞き、貴之は動揺した。
「だって、嬉しいんだもん……」
その声は完全に涙声だった。
「何も泣く事……」
そこまで言って、
「いや、それだけ不安にさせてたって事だよな。ごめんな」
その声はとても優しかった。
「じゃ、後でLINEする。有給頼むよ。スペシャルな誕生日にするから」
電話が切れた後も、美冬は喜びの余韻に浸っていた。しかし時計を見た時、現実に引き戻された。
「入社以来、初めての遅刻だわ……」
八時半になる少し前のノクス神宿ビル。九時から始業の会社が多いため、エレベーターホールにはたくさんの人がエレベーターを待っていた。その中にまだエンジンがかかっていない圭介もいた。
「米山ぁ、昨日見たぞ。めっちゃいい女連れてたろ?」
圭介があくびをしかけたところに、先輩の吉村が勢いよく肩を組んできて、あくびが途中で止まった。身長百八十五センチメートルの圭介と百七十センチメートルほどの吉村なので、肩の組み方が少し不格好になっている。
「あ、吉村さん、おはようございます」
「誰だよ、あの女? まさか彼女じゃないよな?」
「ああ、美冬の事っすか?」
圭介が余裕ぶって答える。
「えっ? マジかっ!」
吉村は肩に回した手を離し、体中で驚きを表現した。
「冗談っすよ。そんなに驚かなくても……貴さんの彼女っす。これ、預かったんす」
美冬から預かったバレンタインプレゼントを見せた。
「マジかぁ。あの人仕事出来て彼女美人って、ちょっと出来すぎじゃね?」
エレベーターのドアが開き、人がなだれ込む。二人も一緒にエレベーターに乗った。
十七階建てノクス神宿は二階から十七階まで様々なオフィスが入っており、朝のエレベーターは各駅停車だ。レグルス営業部がある十一階までは五分弱掛かる。
LINEの着信音がなり、何人かが自分のスマホかと思ったのか、画面を確認する。圭介も少ない隙間で大きな体を器用に動かし、ポケットからスマホを取り出した。
「美冬さんからだ」
「何っ?」
スマホを覗き込む吉村。
『昨日はご馳走様でした。また四人で飲もうね』
「いいなぁ米山ぁ。あんな美人とLINEのやり取りかよ」
「つったって、貴さんの彼女っすから」
羨む吉村に美冬への返信文を打ちながら、圭介は答えた。
貴之との電話の後、会社に遅刻の連絡をしようとした美冬だったが、
「先に圭介くんにLINEしよ」
そうして圭介に"昨日はご馳走様"のLINEをしたところだった。時刻は八時半を少し回ったところ。
「新田部長はもう来てるし、松田課長もそろそろ来た頃……」
就職してから初めての遅刻で、なかなか電話をすることが出来ない。貴之との電話を切ったのが八時十分頃なので、もう二十分以上も心の準備をしていた。
「ああ! なんか緊張する」
一回スマホから目を離し、息を抜いた。そしてもう一度理由をおさらいする。
「生理痛がひどくて、薬を飲んだんだけど、まだ効いてこないんです。すみません、遅刻します…………こんな感じ」
その時、スマホが鳴った。
「しまった! 先越された」
先に会社から連絡が来たかと思った美冬。だが始業時間前に会社から電話が来る可能性はかなり低い。美冬はそこに気付いてはいなかった。
「あ、なんだ。圭介くんからのLINEの返信だ」
少し、気持ちが緩む。テーブルの上で回りながら音色を奏でるオルゴールに目をやった。
昨夜、家に着いた時は日付が変わっていた。圭介の話で貴之は何かを隠し、土曜日は美冬に仕事と嘘までついていた事が明らかになった。寝不足で体が重いのに、悲しくて寝られそうになかった美冬は、リビングのソファに座り、薔薇のオルゴールのスイッチを入れた。
「あれからすぐ寝たのね。私って昔から、悩んでても寝られるんだった」
今の美冬には自分を笑う余裕がある。
「あっ! 早く会社に電話しなきゃ!」
自分を笑う余裕はあるが、時間の余裕はなかった。
圭介と吉村がエレベーターに乗ってすぐに、貴之がエントランスに入ってきた。始発電車で土井と別れ、帰ってからシャワーを浴びて美冬に電話をした。そしてすぐにまた出社してきた格好だ。
エレベーターの中で大きなあくびをしながら、営業部がある十一階を通り過ぎる。そしてシステム部がある十二階でエレベーターを降りた。
システム部入口のインターフォンを鳴らす。ICカードで施錠されているドアは、いかに同じ会社の営業部主任とはいえ、自由に入る事はできない。
「近藤主任、おはようございます」
若いエンジニアがドアを開けた。
「おはよ。土井ちゃん来てる?」
システム部のオフィスに入りながら聞く。死角にいるエンジニアがわざわざ立ち上がって貴之に挨拶をしている。
「いや、さっき連絡があって、近藤主任に遅くまでこき使われたから今日は在宅で仕事するって……」
「はぁ?」
「あと伝言を預かってます」
「伝言だぁ?」
「はい。朝イチで主任が来るはずだから、例のものはちゃんとやっとくから心配するなって言っといてくれ、だそうです」
貴之は呆れ顔で絶句、言葉も出なかった。
読んでいただき、ありがとうございます。
次の更新予定は12月23日です(⋆ᴗ͈ˬᴗ͈)”




