朝の光 〜付かない既読〜
午前六時、枕元のスマホがけたたましいアラーム音を響かせ、美冬は目を覚ました。
寝起きの悪い冬の太陽はまだ昇らず、窓の外は真っ暗だ。
ベッドの棚に置いてあるリモコンのボタンを押すと、部屋の中がふわりと明るくなった。美冬より十五分ほど早く起きたエアコンのおかげで、部屋は快適な温度になっていた。
美冬はチラッとスマホの画面を確認し、ぼんやりと天井を見る。
「起きるか……」
そう声に出し、身体を起こした。
身支度を終えて家を出る七時過ぎ。太陽は東の空に姿を現しているが、気温は上がらない。玄関を出た美冬は、
「寒っ」
思わず肩をすくめ、鍵をかけた。
駅へと歩く道すがら、バイパスを渡る横断歩道で赤信号に足を止めた。コートのポケットからスマホを取り出し、画面を確認する。
「はぁ……」
小さくため息をつき、スマホをポケットに戻した。
徐々に光を強めていく太陽を隠す雲はなく、澄み切った青い空が広がっている。が、美冬はうつむきがちだった。信号が青に変わっても、美冬は気付かない。隣の人が歩き出すのを見て、ようやく足を踏み出した。
通勤時間帯のJR彩京ライン。先頭車両は女性専用車両となっており、美冬はいつもここに乗る。座れることは滅多にないが、すし詰めになるほどでもない。
ドア脇に立ち、ポケットからスマホを取り出す。画面を確認し、またため息をついた。
「はぁ……なんか、元気出ないなぁ……」
口の中で呟き、視線を窓の外に向ける。元気が出ない原因は分かっていた。
一月十日に、最後に貴之と会ってから、今日で十六日が経つ。その間、一度も連絡はない。美冬が送ったLINEにも既読が付かない。"それまでは毎日連絡を取り合っていたのに"と、徐々に不安は大きくなっていく。その不安に潰されそうになっていた今週の日曜日、ようやく既読が付いた。が、返信はない。
そういう事か……
美冬の胸に、諦めの感情がじわりと広がっていく。何が原因だったのか、思い当たる事はない。だがそれ以来、LINEを送ることをやめた。
それでも、もしかしたら返信が来ているかもしれない、その淡い期待が何度もスマホを確認させ、そしてまた、ため息をつかせるのだった。
電車を降り、人の波に流されるように階段を下りる。
ファッション、グルメ、音楽など、様々な分野でトレンドが集まるエネルギッシュな街、渋谷。この街の象徴ともいえるスクランブル交差点では、夢、希望、妬み、絶望……あらゆる感情が交差していた。
その感情が舞う街を、十分ほど歩く。すると、美冬の勤め先である株式会社リーヴァの本社ビルが見えてきた。
「おはよ、美冬」
出社して間もなく、同僚の武田好美がやって来た。
「あ、好美ちゃん、おはよ」
普通に答えたつもりだったが、
「ああ、また元気ない。どした?」
好美に指摘されてしまう。
「え? そんな事ないよ、元気だよ」
「おはよ。美冬最近、元気ないよね」
同じく同僚の島田景子も話に加わってきた。
美冬たちが所属するシステム営業部に女子は美冬と好美と景子だけで、年齢が近いこともあり、三人はいつも一緒に行動していた。
「景子もそう思うよね? 美冬、何か悩んでるでしょ? 」
「悩んでないって。あれかな、お正月ボケが残ってるのかな……」
席に座る美冬と、その脇に立っている好美と景子。好美が不意に身をかがめ、美冬に顔を近付けた。
「あんた、彼氏と上手くいってないんでしょ?」
驚いた美冬が少し顎を引き、上目遣いで好美を見る。
「わ、分かる?」
「分かるわよぉ、あんた、分かりやすいんだから」
好美が体を起こした直後、
「おい、そこの三人。もう始業時間だぞ。仕事しろ」
すぐ目の前の課長席から松田の声が飛んできた。
「はーい」
好美と景子は間延びした返事をし、
「後で詳しく聞くわ。昼休みにね」
美冬にそう言い残し、各々のデスクに戻って行った。
「別に詳しく聞いてくれなくていいんだけど……」
美冬はひとりごち、パソコンに向き合った。
システム営業部。部長の新田を指揮官とした二十八名の部署である。不動産販売とクラウドサービスの両輪を売上の軸としているリーヴァの、クラウドサービスの前線部隊がこのシステム営業部だ。
一課課長の松田、二課課長の林田、三課課長の伴内をチームリーダーとした三課体制で、美冬が一課、好美が二課、景子が三課の営業事務である。
株式会社リーヴァ。社長の柳弘道が、二〇〇一年に開業した『みらい不動産』がその前身である。
大手不動産会社で、トップセールスマンから営業課長として活躍していた柳が独立を決意。東京都北区にコンビニだった建物を借り、みらい不動産を開業した。柳を含めた営業五名に、経理担当の柳の妻を加えた六名で始めた、小さな不動産屋だった。
不動産営業一筋二十余年。管理職まで務め、酸いも甘いも知り尽くした柳だが、自分で会社を経営するとなるとなかなか思い通りにはいかない。柳の経験以外に特に武器を持たないみらい不動産の経営状況は、現状維持が精一杯といった感じだった。
開業から二年、同じメンバーで頑張ってきたが、ここで一人欠員が出た。柳は求人を出したのだが、この時に入社してきた鳥飼勇次という若者が、この会社の運命を大きく変えることとなる。
小さい頃からゲーム好きな鳥飼は、いつしか自分でゲームを作りたいと思うようになった。小学生の時から学校の教科書よりもパソコン関連の書籍を読みあさり、高校を卒業する頃には技術も知識も趣味の範囲を完全に超えていた。卒業後は、夢であるゲームクリエイターへの道を模索した。が、鳥飼が卒業した一九九五年は就職氷河期と言われた時代、高いスキルはあるものの学位や資格を持たない鳥飼を雇う企業がなかった。
「二十代の俺は酷いもんだったよ」
現在になって若い社員に笑いながら話す鳥飼だが、当時はゲームへの夢を諦められず、親元でニートの様な生活をしていた。いくつかゲームを作ったが世に出ることはなく、八年も無為な時間を過ごした。
ある日、ふと将来への不安に襲われ、たまたま手にした求人広告に掲載されていた不動産会社に電話をした。鳥飼が二十七歳の時だった。
鳥飼が入社した頃はブロードバンドが広がり始め、自宅でインターネットをする人が増えはじめた時期だった。
とはいえ、日本ではまだ物件探しはチラシや雑誌などが主流で、不動産情報サイトの認知度も低い時代だった。ただ海外に目を向けると、アメリカではZillowのような不動産情報サイトが登場し、韓国ではオンラインでの不動産取引が進んでいた。
不動産に関しては"ド"が付く素人の鳥飼だが、海外のIT事情には目を向けていた。ニート生活の八年間もただ腐っていた訳ではない。独学で身に付けたITスキルはプロに匹敵するものだし、嗅覚も磨かれていた。
『これから必ずインターネットで物件を探す時代が来る』
新入社員でありながら、その"確信"を社長の柳にぶつけた。
開業以来企業としての成長がなく、今のままでは勝ち残れないと危機感を抱いていた柳は、不動産も営業も素人である鳥飼の提案を受け入れた。いや、"提案"ではなく、その"熱意"を受け入れたのだ。
ホームページのリニューアル、不動産情報サイトへの物件掲載。当時のみらい不動産にとっては決して小さくない金額の投資、そして日本ではほとんど成功例がない戦略。柳はこれを独断で決めた。そしてこの決断が、みらい不動産の"未来"を変えた。
結果はすぐに現れ、反響数が急増した。反響が増えれば、柳の経験が存分に発揮できる。半年後には、今の人数では捌ききれないほど顧客が増えていた。
そんな中、一番経験が浅い鳥飼が契約数を伸ばす。
原因は自作した顧客管理ソフトにあった。初めは単なる顧客名簿のようなものだったが、自分が営業しやすいように次々と機能を追加し、本格的な営業支援ソフトに進化を遂げた。これにより、ベテランでも苦労する仕事量を、驚く程効率よく捌けていたのだ。
業績上昇に合わせて営業を十四人に増やし、二課体制にした。柳は営業から退き、経営に専念したが、売上は順調だった。しかし、一課は鳥飼が作った営業支援ソフトを使い、仕事効率で二課に差をつけていた。そしてその差は、徐々に広がっていった。
尚も業務拡大を考える柳だが、コンビニ跡のこの店舗では二課体制が限界だった。そこで柳は二号店の出店を決めた。
更に社内サーバーを導入し、鳥飼が作ったソフトを全社員に標準導入した。"鳥飼システム"と呼ばれるようになったそれは、サーバーの導入によって情報共有、意思伝達などがスムーズになり、営業支援の中核となった。
二号店出店から二年の間に店舗数を五店舗まで増やし、柳は営業店舗と本部業務を分ける事を決める。渋谷の雑居ビルのワンフロアを借り、そこを本社とした。
全店舗の経理や総務、契約管理やコンプライアンス管理などを本社に集中させ、業務の効率化を計る。
それと共に鳥飼を不動産営業から外し、新設したシステム部の部長に就かせた。
人員と予算を得た鳥飼システムは、ここから飛躍的な進化を遂げていく。
やがてスマホが普及し始めると、日本でもインターネットで物件探しをする人がかなり増えてきた。それに伴い、不動産情報サイトを広告の主軸にする業者も増えた。それでもいち早くそこに目を付け、経験値で遥かに勝るみらい不動産の優位性は変わらず、業界では注目される存在だった。
そして鳥飼は、更にその先を行く。
その頃には日本でも聞こえるようになってきたクラウドに着目し、独自に研究を始める。試験運用を重ね、翌年には自社サーバーからクラウドへの完全移行が完了し、正式に運用を開始した。
クラウド型にする事で、システムを他社に販売する事が可能になる。みらい不動産の躍進に大きく貢献してきた鳥飼システムは『バード・エステート』という名で販売を決定、そのタイミングで社名を株式会社リーヴァに変更した。
みらい不動産がただの"不動産屋"を超え、ここから大きく羽ばたく事となる。
そしてこの時に、美冬が所属しているシステム営業部が誕生した。




