第1話 「先生、異世界へ行く」
第1話 「先生、異世界へ行く」
夜の塾は静まり返っていた。
教室には俺、斉藤健(35歳)だけ。
机の上には、生徒が解いた数学のプリントが山積み。赤ペンを走らせながら、俺はため息をつく。
「はぁ……また計算ミスか。これ、どう説明したらわかるんだろうな……」
そのときだった。
机の端に置いてあった、古ぼけた参考書――表紙に『算術大全』と書かれたやつが、ぼんやりと光り出した。
「え? 何これ、プロジェクターの反射?」
違った。光はどんどん強くなり、目も開けられないほどになり――次の瞬間、俺の体はふわりと浮き、どこかへ吸い込まれていった。
気がつくと、草原の真ん中に立っていた。
見渡す限りの青空と山並み、そして……馬車? 荷物を引く獣? 鎧を着た兵士?
「え……なにここ……時代劇のロケ?」
呆然としていると、近くの子どもたちがこちらを見てひそひそ話をしている。
服はボロボロ、足は裸足、手には泥のついた鍬。
「おじさん、変な服着てるね」
「旅の魔法使いかな?」
俺は笑ってごまかそうとしたが、子どもたちの背後から大声が飛んだ。
「こら! 働かんか! 昼までに畑を終わらせるぞ!」
怒鳴っているのは、筋骨隆々の中年男。
子どもたちはびくっとして畑へ走っていく。……その中の一人が、足元の石に躓き、持っていた籠を落としてしまった。
「おい、なにやってんだ! それじゃ日が暮れるぞ!」
叱られて泣きそうな顔の少年に、俺はつい声をかけてしまった。
「ちょっと待って。これ、人数で分担すればもっと早く終わるよ。……えっと、ここが3人、そこが4人で――」
「ん? なんだその……ぶんたん、とは?」
少年も中年男も首をかしげる。
どうやら、この世界では“分けて作業する”という発想すらあまりないらしい。
俺は地面に棒で簡単な図を描いた。
「人数を均等に分けて仕事をする」と、作業時間が短くなることを説明すると――
「おお……そんなやり方が……」
「すげぇ! おじさん、頭いいな!」
目を輝かせる子どもたち。
……気づけば、畑の端に小さな人だかりができていた。
そして俺は、口にしてしまった。
「えー……じゃあ、ちょっと授業してみようか?」
こうして俺の異世界初授業が始まった。
教科書も黒板もない。あるのは棒切れと土の地面だけ。
だが――この日から、この村と、この世界の未来は少しずつ変わり始めることになる。