第7話 夜空のトライアングル
部活帰り。駅前にある、行きつけのチェーン店にて。
「ふぅ」
私は気持ちよくマイクを置いてみせる。だって、難しいって話題の曲なのに、全く音程がズレなかったから。
「94点……すげ、驚いた」
ジャージ姿の唯翔の、心地よい口笛。その、興味ありげに緩められた頬に、今だけーーちょっとだけ、万能感なんかを得ちゃったりして。
照れ臭さに頭をかきながらも、しっかりありがとうは伝えておく。
「えへへ。唯翔のお墨付きなら私、歌手とか目指してみようかな……!」
(……ん?)
なんでだろう、不思議な間が空いてーーその時だった。ゆっくりと、口は開かれる。
「……でもやっぱ、あんまパッとしねえかも」
硬直する私を前に、唯翔はうーんと首をひねるばかりだ。
「悪くはねーんだけどな。なんだろ……あー、没個性っつーか?」
没個性、没個性、没個性……無責任な単語はなまりのように、いつまでも私に、のしかかることになる。
*
気づけばぐっしょりとしたパジャマ。ベッドの上で、私は枯れた咳をする。
トラウマ、だった。とはいえ、思い出すのもずいぶん久しぶりだったけれど。
ぼーっと、ブルーライトに照らされてみる。
「さいあく……」
そこには無機質な『yuitoがメッセージの送信を取り消しました』の文字。途中、なんだかしらけてきてしまって、私は深いため息をついてしまった。嫌な夢を見せられる身にもなってほしい。何事にも、タイミングというものがあるだろうに。
これといった意味もなく、自室を行ったり来たりしていると、ふいに、別れ際のヨハンさんの言葉を思い出した。
『君の力になれるのなら、俺はいくらでも手を貸そう。』
慈しみを孕み、それでいてどこか、懐かしいような声音だった。
私はギュッと、スマホを握りしめる。
(縋っちゃっても、いいのかな。)
時刻はちょうど、18時をまわったところだった。くわえて両親らはいない……迷惑かなと思いつつも、私は結局、ヨハンさんに電話をかけることを選んだ。否、選んでしまった。
いっそ、出ないでくれとも思った。だって、これじゃあまるでーー
『Guten Abend』
2コール目、だった。自分からかけたくせに、私はしばらく押し黙る。
『さっそく呼び出しかな? ローレライ』
からかうようなヨハンさんの声が、耳をくすぐった。
ハッ、と我に返る。
「さ、さすがにしつこかったですよね。ごめんなさい非常識でーー」
ヨハンさんが優しいからって、赤の他人の私がそれにつけこんではいけない。そうだ、自意識過剰になるのはよそう。慌てて通話を切ろうとした、その時だった。ヨハンさんが、こちらの動きを見透かしたかのようにふふっと笑った。
気にするな、彼は続ける。
『俺も休憩中だったんでね。しかし悲観的になりやすいのは、日本人の悪い癖だな』
「えっと、それってーー」
つまり……なんだ? 私は眉根を寄せる。
『はは。はっきり言わないと伝わらない、か』
スマホの向こうで風が吹いている。
『ちょうど……練習を頑張ったご褒美をもらいたかったんだ。なあ、ミオ』
え、と言う声が、心なしかうわずっている。有無を言わさぬヨハンさんの圧に、私は思わずのけぞった。
『俺が君を見つけた時の歌を、もう一度聴かせてはくれないだろうか』
ヨハンさんはきっと、上目遣いになっている。なぜか、そんな気がしてならなかった。
多分あの夜のことを言っているんだろうが、分かった上で、私は首を横に振った。
「近所迷惑になっちゃいますから。それに私、《《人前じゃ歌えない》》んですよ。あの時はホント、ヨハンさんとたまたま鉢合わせたからで」
そういうわけなのでーーと、言ってて虚しくなってくる。なんというか、言い訳してるみたいだった。まあ実際、その通りではあるんだけれども。
ところが。
彼も彼で、決して諦めてはくれなかった。
『ミオ、どうしても"ダメ"か?』
「ですから、何をそんなに……!」
駄々っ子のごとく、頑として譲らないヨハンさんに、私は正直疲弊していた。
(歌を、気に入ってくれた? のは嬉しくなくもないけどさ……!)
ヨハンさんクラスのイケメンならば、国に歌うま美女の1人や2人、侍らせていてもなんらおかしくはないのに。
どうして、よりにもよってアマチュアの私になんか。
『……ミオの歌声には、力が宿っているような気がするんだ』
力? 私は短くおうむ返しする。
『寂しさに寄り添い、背中を優しく押してくれるーーそんな力が』
「…………」
長い長い、静けさの後、
「口ずさむ、だけなら」
その時のヨハンさんの、嬉しそうな笑い声といったら。
「まーあーあーあーあー」
一旦スマホから離れ、上下上下、と軽めに発声練習をする。
そうして、音をたどるように、私は喉を震わせた。
「♪〜 ♪〜」
あとはただ、肩から力が抜けていくようだった。
(あれ、なんだろう……)
熱い涙が、頬を伝ってゆく。瞼の裏に、誰かが見える。あの頃、中学生だった私だ。
悔しかったのも、辛かったのも。絶対忘れない。忘れてやるもんか。彼女の姿を見て思う。
(ずっと、そばにいてくれてありがとう)
すると彼女は満足そうに、今の私とひとつになった。
これなら、歌える。
実績なんてなくても。天才になんかなれなくても。
(もう、怖くない)
この人の前でなら、私は自信を持って歌うことができるから。
気づいた時には、口ずさむだけでは物足りず。流れゆくメロディに、昔頑張って書いた、歌詞を乗せていた。
「歌えた……っ! わたし、ヨハンさんっ……」
感極まって息継ぎすらままならない私に、ヨハンさんは穏やかな微笑みを返す。
『ああ。心に留めておいてほしい。君の向こうにいるのは、ただの熱狂的なファンだということを』
窓を強く開け放つ。遠くの空にはすでに、冬の大三角が輝いていた。