第3話 元MGは頑張りたい
「んぅ……あと20ぷん…………」
ーーピコン、ピコピコ、ピコン!
「……さむっ………」
ひとつあくびをして、寝ぼけ眼でスマホを探す。私、こんな朝早くに設定してたなんて。サイアク。部屋にはまだ、藍色のやわい光が差し込んでいた。
今すぐ布団に潜り込みたい。そんでもって二度寝したい……のに、アラームをオフにはできなかった。
私は目を丸くした。メッセージアプリの通知が、何十件も溜まってしまっている。
ああそういうことか。きっとヤツの仕業に違いない、スマホをベッドに放り投げるのと同時に、通知音がさらに軽快な音を立てた。
『窓見て』
しぶしぶカーテンを開ける。ベランダの向こう側には、アンダーシャツに軽いウインドブレーカーを羽織ったーー天鬼唯翔の姿があった。
*
ほの暗い河川敷のランニングコースを、唯翔と一緒に走る。
「もうちょいで3キロ。いいよいいよ、ペース上げてこ〜」
とは言っても、エースストライカーと朝っぱらから8キロランなどキツすぎてやってられないので、私は唯翔を急かすだけだが。すぐ後ろから、ママチャリで。
いきなりで悪ぃ、と唯翔。
「大事な試合控えてっとさ。美桜のスパルタがなきゃ締まらねえっつうか、なんかこう、どーしても落ち着かねえんだよなー」
「あーね」
私はつとめて平坦に相槌を打つ。
「あとシンプルになついってのもある。下でよくドリブル練習してたし。」
これにはふふっと、笑みが溢れた。勢いあまって、備品のボールを川に吹っ飛ばしたこともありましたもんね、あなた。
「そういや中学ン時、怒らせたら死ぬって評判の鬼マネージャーがいたような気が……あれえ誰だったっけー⁇」
「やっぱ16キロダッシュでいい?」
「うはは、そういうとこだよ!」
私はやれやれと肩をすくめてみせる。これじゃまるで、年甲斐もなく鬼ごっこにはしゃいでるみたいじゃないか。
(でもま、さすがはプロだよね)
こんなふうにふざけていても、全く息の上がっていない後ろ姿に、ふと、幼き日の約束を思い出す。
『おれ、おれっ……ほんとに、くやしい……うぅっごめん、みお……あいつらのこと、ぜったい見返してやるから……!』
成長期までにたくさん牛乳を飲んでいた唯翔だったが、残念ながら私との身長差はほぼ生まれなかった。
でも。
唯翔は他の選手より体格が劣るぶん、誰より速くフィールドを駆け抜けた。誰より多く、点を決めた。
己の境遇を恨む暇があるなら、特訓のひとつもこなしてみろーーこの"影の努力"に、私はいったい何度付き合わされたか分からない。
「そろそろ折り返しだよ、って」
思わずきき、と自転車を止めた。
(キレー……)
朝焼けが、私たちを焦がしていた。水晶みたいに、きらきら輝き始める汗。早起きは三文の徳とはよく言ったものだが、たしかにこの光景は徳かもしれない。
「……唯翔って、元旦も慌ただしくしてたよね?」
「? おー」
「じゃあさ、これが初日の出ってことにしようよ。」
「は…………そ、だな。うん。」
唯翔はなぜかそっぽを向いていた。煮え切らない返事に、私はどこか歯痒いものを覚える。
「何その微妙な反応ーーなあんかムカついてきた。追い抜いてやる!」
ペダルを漕ぐ足に、いっそう力を込めて。
「なっ⁉︎ おい待て、スポドリ持ったまま行くんじゃねーよ‼︎」
唯翔の悲痛な声は、いつまでも河川敷にこだまし続けた。
*
頑張る人の成長を側で見守るのは昔から好きだったし、仕方ないっちゃ仕方ないけど、
「いらっしゃ、せぇーー」
こちとら唯翔のせいで、しっかり寝不足だ。繰り返されるオーダーミスを引きずっていたら、さっき焦ってグラスを割ってしまいそうになった。
シフト前に、栄養ドリンクでも注入しておけばよかった。もはや立っているのもやっと、って感じ。
年季の入った薄い壁からは、いつにも増してがやがや声が伝わってくる。どうやら今日に限って外国人の団体さんが入っているらしく、個人経営のウチはてんてこまいだ。
「あっまた注文入った! 誰かヘルプ〜‼︎」
ここぞとばかりに胸元から、すっとボールペンを取り出した。私とて、給料泥棒になるのはごめんなのだ。
「えー、ミオちゃん大丈夫⁉︎ 具合悪そうだったし、なんならもう上がってもいいんだよ?」
ひょっとして、女の子の日だと思われてたんだろうか。大皿を抱えた店長が、気遣わしげに私を覗く。
「ありがとうございます。でも平気です。私に、行かせてください」
必ず汚名返上してみせますから。私は握り拳をつくって、そう言った。
「お待たせいたしました」
個室の障子を開ける。卓上に並ぶビールやソーセージにうっすら吐き気が込み上げてくるが、頑張って堪える。
「ご注文お伺いしまっーー」
(あ、れ?)
頭が妙にチカチカする。どうして片側だけ、真っ白に見えるんだろう。
しだいに視界がぐにゃりと歪み始める。私は小上がりにつんのめってそのまま……
ばすっーー
お腹に残ったのは、たくましい腕の感触。
「おっと、間一髪だったな。」
私を受け止める流暢な日本語にはとても、聞き覚えがあった。
「ヨハ……お客、さま…………」
「安心して……眠、といい……俺が病……に連れ……」薄れゆく意識の中。チュベローズの香りが、鼻先をくすぐっていった。