第2話 ローレライと茨王
男は、寒空を含んだコートをひるがえす。呆然として立ちつくす私に送られたのは、大きな大きな拍手だった。
「……Das ist voll schön.」
口元には、優美な笑みまで浮かんでいるーー非常に謎めいた状況、私の頭はクエスチョンマークでいっぱいになる。
「え、あの、えっと、ダス…………なんて?」
自分でも引くほどのしどろもどろを発動させた私に、ああ、と、どこか艶めかしい流し目が投げてよこされる。
「君の歌声は、おとぎ話のローレライそのものだと思ったんだ。特に、俺みたいなのを惑わせる」
「は、はあ」
(うわぁ。すっごい流暢……)
ひょっとして、バイリンガル、とかなんだろうか。低く落ち着いたその声は、とても綺麗な日本語を発していた。
「やはり日本も隅に置けない。まさか、これほどの歌姫を擁していたとはな。」
さりげなく握手を求められたので、私も素直に応じようとするが……いやいや待てよ。私は思いっきりかぶりを振る。
だってこんな手口を使ってくるのなんて、ナンパ師、あるいは闇バイト勧誘くらいしか思いつかなかったから。多分だけど、まずは相手をヨイショして……というヤツだろう。
うん、こういうときは逃げるが勝ちだ。
「間に合ってま」
全速力で公園を脱出しようとすると、「待ってくれ」背後から伸びてきた、すらりと長い手にそれを阻まれる。
「す」
「怖がらせるつもりはなかったんだが、気を悪くさせてしまったのなら謝罪しよう。」
美人の真顔って、改めて怖いなと思う。
小心者の私はほら、もう動けない。
「えと……じゃあ。お兄さんは、どうしてこんなところに」
気づいたらそう口にしていた。私もたいがいだけど、夜中に一人で草むらに隠れていた彼だって十分怪しい。ところが。お兄さんは心外と言わんばかりに目をぱちくりさせると、
「探し物をしていたんだ。大事な膝当てを、このあたりに落としてしまったようでーー」
消え入りそうな声で呟いた。しゅんと肩を落とす姿に、ちょっとだけ、私の母性はくすぐられる。
「あー……良かったらその、特徴? 教えてくれませんか?」
自分のチョロさが嫌になる。
ぱっと、花が咲いたような笑みが向けられた。なぜだろう、これを放っておくわけにはいかなかった。
しかし膝当てとはこれいかに。何かスポーツでもやっているということなんだろうか。私よりもはるかに身長が高いようだし、それこそバレーとか、バスケとか。
まあどんなスポーツであろうと無双してそう、私は砂場をかき混ぜながら静かに思う。
「そっちはどうですかー?」
シーソーのタイヤをくまなく探していたお兄さんが、首をふるふる振るう。そっかあ。
三十分ほど探し続けて、諦めモードになりかかった頃だった。
ブー、ブー……
バイブ音が鳴り響いたのは。
私は電源を落としていたので、確実にお兄さんのスマホからだ。画面も見ずに彼は告げる。監督からだ、と。
「口惜しいが、やはり新しいものを見繕うことにするよ。ああ、せっかくの親切心を無駄にしてしまってすまない。」
「や、いえ……私のことは気にしないでください。近所に住んでるので、とりあえず明日からも見ておきますね。このへん」
けっして冗談なんかではなかったのだが、お兄さんは少しばかり面食らったような顔になり始めた。
「不思議だな、フラウ・ミオ。君とはまた巡り逢えるような気がしてならないんだ」
ピンクのポスカでポップに縁取られた"ミオ"を、お兄さんが指差している。
アッと声を上げた時にはもう遅かった。しまった……バイト先の名札、外し忘れたままだった……。暗かったとはいえ、そんな。ずっと気づかなかったってことか。ちょっと、いやだいぶ恥ずかしい。
「と、そろそろ帰らないとな。おやすみ、俺のローレライ。」
(? ローレライって結局なんなんだ?)
思ったものの、颯爽と去ってゆく後ろ姿に、私は小さく手を振った。
「おやすみなさい。夜道に気をつけてくださいね〜。」
お兄さんを見送って、さて私も帰ろうかと荷物を取りに行ったところ、
見つけた。
ぶらんこの柵に洗濯物のように干されてある何かは、硬い感触だった。それからよく読めない筆記体。十中八九、お兄さんが躍起となって探していた膝当てに違いないだろう。
「ふ、んふふっ……お、お兄さーん……!」
もう彼の姿は見当たらない。
ちょっとちょっと、激アツすぎるんですけどーー近所迷惑にならないよう、私はがんばってお腹を押さえつけるしかなかった。
*
『帰省早々おふくろに窓拭きやらされてほんとダルい。今度はお前も手伝いに来いよ』
(あれ、今日たしかデートがあるって言ってなかったっけ?)
実は、若手アイドルなりのリップサービスだったんだろうか。私は苦笑しながら、適当なスタンプを送りつけた。全くもう、唯翔ったら。見栄っ張りなくせして騙されやすいのは相変わらずだよね。
(でもそうだ、逆にちょうどいいかも)
ベッドに並べた膝当ての写真と一緒に、
「公園で拾ったんだけどさ、見覚えあったら届けてほしい」
ぽちっと送信ボタンを押す。数秒経って、既読がついた。
『落としたヤツの顔とかって見たりした?』
「見たよ」
既読。
「金髪碧眼、なんとなくヨーロッパってかんじだった」
(ぬおっ)
唯翔から光の速さで送られてきたのは、サッカー記事のリンクだった。
『不朽の要塞の異名を持つ天才GKヨハン・ローゼンシュタール、親善試合への意気込みは』
ゴール前で涼しげに前髪をかき上げる男性は、まぎれもなく彼だった。
『知らないとかマジありえん笑』
「うるさい…!」
うざいスタンプが連投されたので、さすがにおやすみモードに切り替える。
そうなんだ。あの人の名前、ヨハンって言うのか。ささいな収穫だとしてもなんとなく嬉しくて、私はごろり、寝返りを打った。
「不思議だな、フラウ・ミオ。君とはまた巡り逢えるような気がしてならないんだ」←厳密に言うとドイツ語圏でフラウときたら名字がくるのが通常なのですが、この場合は「ミオ」が「三尾」さんに見えたってことで!