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後継者

 明治三十年


 俺氏田中一郎は引退を決めていた。よわい六十を超え体力的にも不安がある。

 もう歴史知識は通用しないし、若い連中も育ってきた。

 隠居だ。幸いな事に転生者とみられる痕跡があり数人と接触に成功。日本を破滅から救えと、小早川を交え説得した。

 本人たちは政治や経済は苦手だがミリタリーや日常生活ならある程度は、と不安な事を言っている。知っているか。ロシア宮中反乱*の後は、転生者の世界史が通用しないぞ。




 田中一郎さんからバトンタッチされた俺こと佐藤一郎です。田中一郎に続いて怪しい名前ですが本名です。サトゥーとか( )サトーとか呼ばないように。

 日清戦争は無いし、どうしようと思っていたところに接触を受けました。どうも政府と宮中の極一部で転生者を認識して発掘しようとしているようです。下手なものを開発されてはいろいろ問題になるから政府でなんとかコントロールしたいのだとも。

 なんで認識されたかというと、陸軍で村田銃の後継歩兵銃開発に食い込んでいたのだが、異例の小口径高速弾の研究を主張していたためだそうだ。日本では思想的に早すぎると。参った。初速400から500メートルで11ミリ口径の頃に6ミリ口径と初速800メートル以上を主張したのはまずったか。

 他には富山で白粉個に含まれる鉛の危険性の研究と抗生物質を開発しようとしていた奴と東北大学で新素材の研究をしていた奴だ。

 今のところこの3人らしい。

 らしいというのは、どうにもロシア宮中反乱の経緯がおかしくヨーロッパにも転生者がいる可能性が有ると。それも高度な政治判断が可能な影響をもたらせる地位かもしれないのは不気味だと。

 アメリカにいても不思議じゃ無いよね。と言うと、あれ以上のチート国家になられてたまるかと言われた。

 しかし可能性は有る以上警戒はしなければいけないと言われた。

 当然、アメリカやヨーロッパにも警戒網は張ってあるが日本人の警戒網なので引っ掛かる方がおかしいとも言っていた。

 頭痛い。この場合は頭痛が痛いと言うべきか。

 他の二人は富山の薬屋の娘で山田花子。思いっきり怪しい名前じゃないか。新素材は佐々木省吾。まともな名前だな。うらやましい。

 俺たちには「目立つな。しかし新技術をものにしろ」と難しい事を要求してくる。

 ペニシリンはとても目立ちそうである。しかし、早急に普及が必要なのは全員一致の認識だ。

 そうだ。誰かに擦り付けよう。誰にするか。有名で高潔な精神を持ち結果を出しても不思議ではない人物。いるのか?そんな超人。

 いました。北里柴三郎さんです。あなたにします。花子の研究結果を持ち込んで後をお任せした。ついでに鉛中毒の危険性を啓蒙してもらえる事になった。


 北里柴三郎。抗生物質の発見により、1905年第5回ノーベル生理学・医学賞をコッホと共に受賞する。


 花子はもう目立つ事はしないと、たまに連絡するだけになった。ペニシリンの早期発見と実用化に、白粉個に含まれる鉛の危険性を明らかにした事で鉛中毒の危険性が伝わり、かなり歴史が変わりそうな気もするがもう変わっているのだ。花子の功績は俺たちの中で最大だろうと佐々木と話した。宮沢賢治も若くして亡くならないのかもしれない。



 明治四十三年


 田中一郎さんが亡くなられた。最後に会ったのは四十一年だが「大和を見るまでは」と言っていたのが思い出させる。この歴史では無いでしょうと言うと「わからんぞ」と言われた。俺が関わり制式化された三六式歩兵銃*を随分褒めてくれた。

 葬儀には出なかったが関係者の集まった忍ぶ会で小早川さんにお会いした。盟友とも言える田中さんが逝った事で随分がっくりされたようで急にお年を召した気がする。

 俺は知らなかったが、忍ぶ会で田中さんは明治の元勲の間ではかなり有名だったと聞いた。その重鎮達も次々と鬼籍へ入り次代へと継がれていく。

 聞いたのは


 東ロシア帝国のアウトラインを構想した集団にも関わっていた。

 千葉の船舶技術研究所を企画し立ち上げた。

 他にもいろいろやっていた。どれも重要な事業だ。その中でも元勲達があきれたように話してくれたのが、


 会津で白虎隊の自刃を説得して止めさせた。

 西南戦争で田原坂の激戦後に西郷さんと政府使節として交渉。戦争終結への道を作った。


 あいつはその場で斬り殺される危険もあったのだぞ。あの頃から腹の据わった奴だと有名になったんだ。と語ってくれた。


 超重要人物じゃないか。何やってたんだあの人。いくら歴史を知っていたとしてもそこまでやったのか。もう歴史改変レベルだろ。俺たちはとても出来ないな。いや、山田花子はやったか。「ペニシリンも鉛毒も知っていたが化学には疎くてな、それにまだいいかと思っていたのも事実だ。山田さんには感謝する」と言われたのを思い出す。知っていたなら早くやれよと言いたかったが当時の科学技術では鉛毒以外は難しかったのだと考える。



 大正二年 東北大学


「よう佐々木。具合はどうだ」

「怪しい佐藤か。いや佐藤砲兵少佐殿か。トランジスターもダイオードも無理だぞ。素材技術と微細加工技術が無いからな」

「いや、ICを作れと言っているわけではないんだが」

「単体でも作れるほどの周辺技術が無いんだよ」

「そうなのか」

「そんなものだ。早くて昭和十年代中盤だな」

「掛かるな」

「こればかりはな。技術水準全般が上がらない限りどうにもならん。だからいったん置いといて真空管技術の高度化を研究する事になった」

「なんだそれ」

「研究費だよ。成果の見えない研究に大金が出続けるほど金が有るわけでは無い」

「ふ~ん。それで結果は出ているのか」

「まあな。真空管製造現場を見てこりゃ駄目だと思ったんで、改良のための基礎研究をやっている。多少だが現場にフィードバックされているぞ」

「そう言えば日本の真空管技術は遅れていたらしいな」

「真空管だけではなく、大抵の技術が欧米の10年から20年遅れだ。おまけに生産技術のような地味な技術開発や欧米の技術取得に回すよりも懐に金を入れるというのが財閥の連中だ。中小が頑張っても資金面で辛いから新技術の開発も導入もなかなかな」

「じゃあその生産技術はどうしている」

「もちろん中小企業優先だ。財閥はもっと地味なところにも金をかけるべきだから自分でやって貰う」

「厳しいね」

「奴らを甘やかす気は無い」

「・・お、おお。でも隠し球はあるのだろ」

「サイラトロンをやる。が、早すぎても目立つからアメリカの商用化を目標にする」

「サイラトロン?」

「制御用真空管みたいなものだ。便利だぞ。アメリカでようやく出現した頃のはずで商用化が昭和元年くらいのはずだ」

「それまでだんまりか」

「目立つのは拙いだろ」

「そうだな」

「そう言えば花子から手紙が届いてな」

「何か有ったのか?」

「いや、忘れていたらしいんだがいるらしい」

「いる?いるって、転生者か」

「そのようだ。ただ確証は無いらしい」

「俺が動くとしゃれにならん。佐々木にやって貰いたい」

「夏期休暇くらいだぞ。長期に動けるのは」

「頼む」

「やってみるさ。それとだ、あと10年だ。対策は間に合うのか」

「9月1日はきりがいいから理由を付けて防災訓練をやるように働きかけている」

「頼むぞ。転生者の事を知っている政府首脳や陛下にも働きかけるんだ」

「やってはいるが理由付けがどうしてもな。なんでそんな夏場にやるのだという知らない連中の言葉を無視するわけにもいかん」

「・・・なあ。マッチポンプは駄目か」

「駄目に決まっている」

「難しいな」

「ああ」

「陸羽地震が8月31日だったな。使えないか」

「1日違うのはどうかな。でもやってみるか」



 俺こと怪しいサトーは花子の見つけた転生者らしい奴の事を佐々木に任せて帰京した。現在の任地は参謀本部にいる。天保銭も無いのに参謀本部である。2度言うのは大事だからだ。だが少し肩身が狭い。天保銭持ちで無い勤務者とは良い関係である。

 何故俺が参謀本部にいるかというと、日清戦争も日露戦争も経験していない日本は戦争理論と戦争技術がかなり遅れていると言う認識を持っている。机上の理論ではいくらでも言えるが、いざ現場となるとどうかわからない。

 そこで演習の実施を提案した。近代火力を使った野戦と要塞戦と塹壕戦である。演習は統制官が判定する兵棋演習と空砲や演習弾を使った実戦さながらの演習だった。陣地戦はどこでも有るので。さすがに南方を意識したジャングル戦の提案は止めた。

 費用の多さに反対意見もあったが、金の掛からない兵棋演習でぼろ負けになった従来戦術を使った陣営が実戦なら違うと費用をさらに掛けて演習を行った。

 もちろん、近代火力を使った野戦は日清戦争と奉天会戦を、要塞戦は旅順要塞攻略戦をなぞった。塹壕戦はヨーロッパのあの塹壕戦である。

 その結果がとんでもない結果となった。従来の戦術では俺の構築した防御網を突破しようとして多大なる損害を出した上に攻略困難という結果になった。

 そのときは砲兵大尉だったが、参謀本部配属時に砲兵少佐となり俸給も上がった。ありがたや。

 参謀本部内で肩身が狭いのは、陸大も出ていない砲兵大尉の指揮で我こそはエリートを自認する陸軍大学出の参謀連中をやっつけてしまっためでる。

 結果と対処方法を知っているから簡単と言えば簡単な事でしたよ。俺だって陸士は出ているのです。

 これが問題になり、教育総監部と参謀本部で俺の取り合いになった。私のために争わないで、と言ったら怒られた。

 参謀1部や2部かと言えば、エリート様から嫌われている俺は入れてくれなかった。引き込んでそれは酷いと思うの。

 だが戦闘研究室なるものを参謀総長の下に作られ1部と2部から横やりが入らないよう配慮された。日当たりの悪い部屋と部下数名を与えられている。部下はいかにも1部からの見張りですという雰囲気の奴と教育総監部が送り込んだ奴と俺が引き込んだ数名だ。

 自由に研究せよとのありがたいお言葉と少々の予算を与えられた。自由な研究はいいのですが予算が足りませんと言うと、なんとかしろと言う。予算はしょうがないな。


*ロシア宮中反乱は東ロシア帝国と日英米での呼称。モスクワ大公国や帝政ドイツは正当継承と称しているので名称は無い。

*三六式歩兵銃

 村田銃に続く有坂銃。ボルトアクション。五連発。口径は6.5ミリとした。佐藤一郎が設計と製造で公差を明確にし治具を同一拠点で高精度に製作する事を計画立案して実行。製造・組み立て上の問題が少なく量産性は従来の日本工業製品とは一線を画すものだった。公差を明確にする事と治具の高精度化が三六式歩兵銃から広まり日本産業界全体の底上げになった。

 地味だがサトーもかなり影響を与えている。

 佐々木省吾はどうした。


次回更新 7月26日 05:00です。

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