真っ赤で、真っ黒
その時は突然訪れた。
ベテルギウスがポラリスの教育係となって、二ヶ月と少しが経過した頃のことだった。
その日の夜、いつものように早々に就寝したポラリスであったが、屋敷内がやけに騒がしく、すぐに意識を浮上させた。
「んん……なに?」
ワーッという雄叫びにも近い声がどこかからか聞こえてくる。窓ガラスもとっくに日が暮れたというのにオレンジ色に染まっている。
ポラリスが屋敷内の様子を確認しようと扉に向かったその時、バン! と部屋の扉が勢いよく開かれた。危うく弾き飛ばされるところだったポラリスは、慌てて数歩後ろに下がった。
「え? ベテルギウス大叔父様?」
「ポラリス。何も聞かずにこちらに来なさい」
「え? え? なんで? お父様とお母様は? 今、何が起きてるの?」
ベテルギウスは額に汗を滲ませて、やけに慌てた様子である。いつも冷静沈着な彼らしくない。それほどに不測の事態が起きているということ。
ポラリスは寝起きの頭で理解が追いつかずにその場に立ったまま動くことができなかった。
「いいから、来なさい!」
ベテルギウスから初めて怒鳴られて、ポラリスはびくりと萎縮するが、引き寄せられるように足が勝手に動いた。そのままベテルギウスの元まで駆けた。ベテルギウスはポラリスを肩に担ぎ上げると、飛ぶような速さで廊下を駆け抜けて行った。
事態が飲み込めないが、どうやらベテルギウスはポラリスの身を案じて駆けつけてくれたようだ。
それにしても、妙に屋敷内の人が少ない。それに、外が随分と騒がしい。喧騒、刀同士が交わる音。ポラリスは急に怖くなって、ギュウッとベテルギウスにしがみついて、恐怖を紛らわせる。
「裏に馬を繋いでいる。急ごう」
「え……お父様とお母様は?」
馬と聞いたポラリスの嫌な予感が強くなっていく。このような事態なのに両親の姿が見えないことも、より一層恐怖心を掻き立てる。
「一緒にはいけない。落ち着いたら全て話そう。今は無事に逃げることだけを考えろ」
逃げる? 何から? ポラリスはそれ以上深く問い詰めることはできなかった。
ベテルギウスが連れていた馬は、いつも訓練でポラリスが乗馬している馬だった。茶色の毛並みが艶やかで、上品な牝馬である。
「さあ、乗るんだ」
ベテルギウスは、ポラリスを馬に乗せると自分も素早く飛び乗って、馬の腹を蹴った。
ひひん、と小さく嘶いた牝馬は、しなやかで力強い脚を踏み締めると、屋敷の裏に位置する山に向かって駆け出した。
なぜ市街地ではなく山道を?
先ほどから疑問ばかりが頭を埋め尽くす。
ポラリスは背中にベテルギウスの荒い呼吸を感じながら、ぎゅっと目を瞑って牝馬の首にしがみついた。蹄の音に意識を集中させる。そうでなければ、恐ろしい音を耳が拾ってしまうからだ。
レオルニスの所有する裏山は、北の国境に繋がる道に繋がっている。この山に入ったということは、向かう先は国境であると想像に容易い。
山の中腹あたりに差し掛かり、ポラリスは恐る恐る目を開いた。確かこの辺りから街の様子が一望できたはず。
「え……」
街の方角へ顔を向けたポラリスの視界に飛び込んできたのは、真っ赤に燃える王城だった。
美しいほどに赤く燃え盛る炎は、闇夜をも明るく照らしている。頭上には落ちてくるのではないかと錯覚するほどに眩い満天の星空。地上と対照的な穢れのない星々の瞬きに恐怖を覚えた。真っ黒な煙があちこちから上がり、その煙を見たポラリスは激しい頭痛がした。
「う……」
知っている。この光景を、既に見ている。
ポラリスがあの日夢に見た光景が重なる。
この時、ポラリスは自分が星見をしていたということ、その力を発芽させていたということをようやく理解した。
星見は避けうる未来の映像を見ることができる。ポラリスが見た光景と寸分違わない光景が眼下に広がっている。
『星見はね、星たちがこれから起こる未来を垣間見せてくれるのよ。わたしたちの行動次第で、その未来は変えることができる。レオルニス家が代々継承する星見の力はこの国を支えてきた崇高な力なのよ』
かつて母が語ってくれた言葉が脳内で何度も反芻する。
防ぐことができなかった。
回避できなかった。
星見をしたとしっかり理解していれば。
あの日見た映像を鮮明に記憶していれば。
ポラリスの心の中は後悔と自責の念で溢れていく。
「うっ、ふ……」
ボロボロととめどなく涙が溢れ、牝馬の美しいたてがみを濡らしていく。
やがて喧騒や炎の弾ける音が遠ざかり、ポラリスとベテルギウスは国境を越え、レグルス公国を出たのだった。
***
日が回る頃に二人が辿り着いたのは、山奥の小さな小屋だった。
こじんまりとしているものの、寝床や毛布、数日分の新鮮な食料や水など、当面暮らすに困らない設備が整っていた。
「ポラリス。今日は眠りなさい。明日起きたら温かなスープを飲もう。それから、これからのことについて話す」
「あ……はい」
牝馬を表に繋ぎ、水を与えたベテルギウスが、先に小屋で休んでいたポラリスに言った。
聞きたいことが山ほどあったが、既にポラリスは心身ともに疲労困憊だった。こんな夜更けまで起きていたことも初めてで、身を落ち着ける場所に辿り着いてホッとしたら睡魔が押し寄せてきた。木のベッドで丸くなり、毛布を被ると堕ちるように眠りについた。
「すまない、ポラリス」
ポラリスが寝入ったことを確認すると、ベテルギウスはそっとその頬を撫でた。
これから待ち受ける決して楽ではない生活に思いを馳せ、深いため息を吐く。同時に、どうにかポラリスを連れて国を出られたことに安堵する。
「アルタイル、ベガ。この子はわたしが責任を持って育て上げる。どうか天から見守っていてくれ」
小屋の窓から見える星空は澄み渡っていて、星々が眩いほどの輝きを放っていた。