ベテルギウス大叔父
「え? 昨日? うーん、あんまり覚えてない……」
翌朝、ポラリスは昨日のことが嘘のようにスッキリとした目覚めであった。彼女を心配した両親は、気遣いながらも朝食の場で昨晩の夢の話を切り出していた。
「そう。真っ赤で、真っ黒で、怖かったと言っていたのだが、本当に覚えていないか? ああ、無理に思い出そうとしなくてもいい」
「真っ赤で、真っ黒……うっ」
下唇に指を当てて空を見つめていたポラリスは、ずきりとした頭の痛みを覚えた。
「真っ赤……火? 燃えてた。そう、街が……真っ黒な煙に包まれて……それで……それで? うっ、思い出せない」
「ポラリス。もういい、十分だ」
ポラリスを案じ、アルタイルは話を切り上げた。
昨夜見た映像が星見によるものだと、今はまだ伝えないつもりであった。それは今朝ベガとも相談の上で決めたことであった。
遠くない未来に、飛び起きるほどの恐怖を与えた事柄が実際に起こるなんて、八歳の少女が受け止めるには酷すぎた。
食事の後、ポラリスは妃教育のために登城の準備を整えていた。
「ポラリス」
「あっ、お父様! どうしたの?」
そこへ、優しい笑みを携えたアルタイルが顔を出した。
そしてちょいちょい、と手招きをしたため、ポラリスはパァッと笑顔を咲かせて父の胸へと飛び込んだ。アルタイルはポラリスを抱きしめる時、こうしてよく手招きをするのだ。
ポラリスはぎゅうぎゅう大好きな父親に抱きつき、厚い胸板にぐりぐり額を押し付ける。
「こら、ポラリス。くすぐったいだろう」
「えへへ、ごめんなさい。嬉しくって、つい」
悪びれる様子もなく、腕の中でペロリと舌を出しておどける愛娘を、アルタイルは再び強く抱き締めた。
「ポラリス。今日の夕方、会わせたい人がいる」
「え? 誰?」
「ベテルギウス叔父様だ」
「大叔父様!」
ベテルギウスはアルタイルの叔父である。
かつて軍部を取りまとめ、今は引退して隠居しているが、未だに凄まじい剣の腕を持つ御仁である。ポラリスの大叔父にあたり、幼い頃からよく懐いていた。
「わーい! 楽しみ! 今日一日頑張るね」
「ああ、いってらっしゃい。帰りを待っているよ」
ポラリスを見送るその瞳には、強い決意と、そして寂しさの色が滲んでいた。
「ただいま!」
「おかえり、ポラリス」
「大叔父様! いらっしゃい!」
ポラリスが妃教育から帰ってきて馬車を飛び降りると、扉の前で出迎えてくれたのは、大叔父のベテルギウスであった。ポラリスは勢いをそのままにベテルギウスの胸に飛び込んだ。
「大きくなったなあ、ポラリス」
「えへへ、もう八歳だもの! 立派な大人よ」
「ははっ! 随分とませた姫様だ」
軽々と抱え上げられて、ポラリスははしゃぎ声を上げながら足をジタバタする。
「ねえ、お城でもみんなわたしを『姫様』って呼ぶけど、どうして? わたしはお姫様じゃないよ?」
キャッキャと楽しそうに笑いながら、ポラリスは常々感じていた疑問を投げかけてみた。
「そうだな。ポラリスはリゲル様の婚約者で、次期王妃となる娘だ。だからみんな君をお姫様扱いするのだろう」
「ふーん?」
問いかけておきながら、さして興味のなさそうな様子にベテルギウスは苦笑する。
「さあ、疲れただろう。中に入りなさい」
「はあい」
ポラリスはベテルギウスに腕を引かれながら、屋敷の中へと入っていった。手を洗って荷物を自室に置いてから食堂に入ると、そこにはすでに両親と美味しそうなご馳走が並んでいた。
「うわぁ! 凄いご馳走!」
「ポラリス、おかえり。さあ、座りなさい。食事を始めよう」
ポラリスとベテルギウスが腰掛けて、楽しい夕餉が始まった。
「急だけど、今日から叔父様もこの屋敷に住むことになった」
「本当? 嬉しい!」
アルタイルの言葉に、無邪気に喜ぶポラリス。ここが自室だったら、きっとベッドでぴょんぴょん飛び跳ねていたことだろう。その様子が容易に想像できて、ベガも思わず笑みを漏らす。
「ポラリスの面倒を見てくれる。困ったことがあったら叔父様になんでも聞くといい」
「え? 大叔父様が? うん、分かった」
未だに国の中枢で強い影響力を持つベテルギウスが、自分に付いてくれるなんてなんと幸運なのだろう。
ポラリスは逸る鼓動を抑えきれずに目をキラキラ輝かせてベテルギウスに熱い視線を送る。その視線に気付いたベテルギウスは、「あまり期待値を上げないでくれよ」と苦笑した。
「妃教育は順調だと聞いている。そろそろ座学だけでなく、武芸や馬術についても学んでいい頃合いだろう」
「えっ! いいの?」
ポラリスは生来快活な子供であるため、身体を動かすことが何よりも好きだった。妃教育で母国への知見を深めることにも喜びを感じているので苦痛ではないが、やはり長時間座りっぱなしとなると身体が疼いて仕方がない。
「ああ。大公陛下にもすでに話は通してある。これまでの頑張りを皆よく知っているからな。少しの間、登城しての教育は休んでいいそうだ。もちろん、座学を全くしないわけにはいかんからな。わたしがこれまで学んだ範囲の復習も請け負っている」
「ふわあ、大叔父様って本当になんでもできるのね。すごいわ」
「これ、あまり期待値を上げるなと言っただろう。王城の教育担当の足元にも及ばんよ」
謙遜するベテルギウスであるが、食事の所作も完璧だし、武芸にも秀でている。マナーやしきたり、国の歴史にも造詣が深く、彼に教えを請いたい人はごまんといるだろう。
「でも、そっかあ。しばらくは屋敷で過ごす時間が増えるのね。お父様とお母様の近くにいられて嬉しいわ」
「ポラリス……ああ、休憩の際は顔を出すようにしよう」
「わたしも、座学なら少しは役に立てると思うわ。分からないことがあったらなんでも聞いてちょうだい」
「ありがとう!」
ポラリスは、我が家で家族と過ごす時間が増えることを純粋に喜んでいた。父や母、そして大叔父が何を警戒し、何に備えているのか、この時には知る由もなかった。
***
ベテルギウスがポラリスの教育係となって、早くも五日が経過した。
その間、アルタイルは何度も大公陛下の元へと招集され、険しい顔をして戻ることが増えた。
ベガは体調がいい時はポラリスの座学に同席し、ベテルギウスと共に持てる知識をポラリスに引き継いでいった。馬術にはやや苦戦しているが、ポラリスは毎日楽しく学びを深めている。
身体を目一杯動かすようになり、尚且つそれがベテルギウスによる指導とあれば、ポラリスは毎晩布団に入った途端に深い眠りについてしまう。そんなポラリスの頭を優しく撫でながら、ベガとアルタイルは静かに会話をしていた。
「ポラリスったら、知らない間に随分色々なことを学んでいたわ」
「そうか。子供の成長は早いな。少し前まで乳飲み子だったのに」
「ふふっ、そうね。あっという間に大人になってしまうのでしょうね……」
そう呟くベガの目尻には、一粒の涙が光っていた。
「やっぱり、国を出たほうがいいんじゃないの?」
ベガが不安げな顔で、縋るようにアルタイルを見上げる。アルタイルはベガの目尻を親指で拭って答えた。
「それは……できない。小さな公国とはいえ、国民全てを受け入れてくれる同盟国はないだろうし、彼らを置いて俺たちだけが亡命するなんてもってのほかだ。明日なのか、ひと月後なのか、数年後なのか……その時が来たら、最後まで命懸けで抵抗するしかない。だが、ポラリスは……ポラリスだけは、必ず生かす」
「あなた……」
アルタイルは自分に言い聞かせるように言葉を紡いでいた。
その心の内では、父として、夫として、公爵として、あらゆる立場としてどう立ち振る舞うのが正解か、答えを出しあぐねているようにも見える。ベガはそんな夫を支えるようにそっと手を重ねた。いつもベガを包んでくれる大きな手が、なぜかやけに小さく感じた。
「わたしはずっとあなたと共にいます。この身体じゃ、ポラリスの足手まといになってしまうでしょうしね」
「ベガ……すまない」
「謝らないで。わたしはあなたと結婚して、ポラリスが生まれて、今日までずっと幸せに生きてきたのだから」
「俺もそうだ。ベガもポラリスも、心から愛しているよ」
「あなた……」
アルタイルの揺れる瞳が熱を帯びる。ベガが静かに瞼を落とすと、唇に慣れ親しんだ熱が広がっていく。
「さて、そろそろ俺たちも寝よう」
「ええ」
唇が微かに触れる距離で囁くと、アルタイルは軽々とベガを担ぎ上げ、愛娘が眠るベッドに横たえた。そっと前髪を掻き分けて唇を落とすと、ポラリスを挟むように自らもベッドに横たわった。
「ところで、最後の星見の内容を聞いてもいいかな?」
突然の申し出に目を瞬きながらも、ベガは記憶の糸を辿るように瞳を閉じた。
「いいわよ。……知らない女の子が笑っていたわ。多分、大人になったポラリスね。わたしには分かるの。すっかり大きくなって、ふふ……とても美人になっていたわ。親バカかもしれないけど。ポラリスがいたのは、この国ではない他のとても綺麗な国……近くにわたしたちの姿はなかったわ」
「異国の地でポラリス一人が……そうか」
ポラリスの頭を愛おしげに撫でながら、ベガは少し悲しげに微笑んだ。アルタイルもベガの言わんとしていることを察し、じっと天井を見つめている。
「ええ。その映像を見たときは何を暗示しているのか分からなかったし、そんなに先の未来のことを見るのは初めてだったから驚いたわ」
「そうか。だが……ポラリスは笑っていたのだな」
「ええ。ねえ、あなた」
「ん?」
不意に呼ばれ、身体ごとベガに向き合ったアルタイル。ベガも身体をアルタイルに向けて真剣な目をしていた。
「……今のこの幸せを大切に、噛み締めて生きていきましょうね。いつか、ポラリスが昔を思い出した時に楽しい記憶で溢れて笑顔になれるように……」
「ああ、そうだな」
ベガとアルタイルは、三人が一つになるようにポラリスに身を寄せた。