幼き日の記憶
ポラリスは今、山道を進んでいた。
こうして人目を忍んで山の中を歩いていると、祖国を出た当時のことを思い出す。
当時八歳のポラリスにとって、その道のりは険しく、過酷なものだった。
***
十二年前――
「お母様! お父様!」
「あら、どうしたの、ポラリス」
「見てみてっ! 可愛い? 可愛い?」
「まあ、ふふっ。素敵よ。リゲル様にいただいたのかしら」
「えへへ、そうなの」
無邪気に飛び跳ねながら、母の胸に飛び込んだ少女は、白と青の花で作られた花冠を頭に乗せている。
少女の名前は、ポラリス・コルテ・レオルニス。
レグルス公国の由緒正しき公爵家の一人娘である。国を治める大公に通ずる家系であり、過去に何人もの王妃を輩出する一族である。
ポラリスも、現君主の一人息子であるリゲルの婚約者として、次期王妃となるべく日々勉強に励んでいる。リゲルはポラリスの四つ年上だが、幼馴染でもある二人の関係は良好である。
そんなポラリスの頭を優しく撫でる女性。現王妃の妹であり、ポラリスの母――ベガは最近、臥せっていることが増えた。
レオルニスの女性に代々引き継がれる能力、星見。
一代に一人、その未来を垣間見る力を開花させ、表舞台には立たずに公国を陰で支え続けている。
当代の能力者であるベガも例外ではない。不意に訪れる星々の啓示を受けては、祖国を正しく導く役目を担っている。
生来身体が弱いベガは屋敷に篭りがちであるが、その娘のポラリスは随分と活発な少女であった。
野山を駆け回っては、美しい花を摘んでベガに見せてくれる。温厚な国民性を持った公国で、蝶よ花よと育てられ、明るく伸び伸びと成長している。
緑豊かな小さな国であるレグルス公国は、四方を大国に囲まれている。
独自の文化や技術は歴史的価値が高く、『レグルスを蹂躙すべからず』とは、大陸での暗黙の了解となっており、各国と形式的に不可侵条約を結んではいるのだが、昨今、レグルス公国を挟む大国間で戦が始まるのではと噂されている。
公国と大国では、軍の規模に雲泥の差があるため、万一攻め入れられることがあればひとたまりもない。立地的に戦場となりかねないが、今は不可侵条約の効力を信じるほかない。
ベガは言いようのない不安な気持ちを抱きながら、ポラリスの頭をそっと撫でる。ポラリスはまるで子猫のように喉を逸らして嬉しそうに目を細めている。
「ポラリス、よく聞いて? あなた、最近脳裏がチカッと瞬いて映像が浮かび上がることはない?」
「え? のうり? なにそれ?」
「ああ、ごめんなさい。星を見ていて、頭の中に何か見たことがない景色とか……誰か知っている人が思い浮かんだことはない?」
「んー、分かんない」
「そう……」
ポラリスの返事に、ベガは僅かに眉を下げて弱く微笑んだ。
その日の夜。
「ベガ。今夜は冷える。身体に障るだろうし、そろそろ部屋の中に入ろう」
「あなた……そうね」
ぼんやりと遠い星空を眺めていたベガにそっとショールを掛けるのは、レオルニス家当主のアルタイル。ベガの夫であり、ポラリスの父である。
アルタイルは、ベガの淡いミントグリーンの髪をそっと撫でる。今、ベッドですやすやと寝息を立てている娘のポラリスと同じ髪色である。眩いほどのブロンドヘアであるアルタイルは、彼女たちの優しい髪色が好きだった。
夫に促され、ベガは弱々しく微笑みながら星がよく見えるベランダから室内に入った。そっと鍵をかけてカーテンを引く。今夜は月が明るいので、斜光しなくては眩しくて入眠の妨げになるだろう。
「今日も、見えなかったのかい?」
「ええ……もう半年も何も見えていないわ。薄い靄がかかったように、何も……星たちは今日も美しく輝いているというのに」
表情に影を落とすベガを、アルタイルはそっと抱き締めた。
ベガはこの半年の間、一度も星見をしていない。どんな細やかなことであれ、星たちは月に一度はベガに語りかけていたというのに。
「ねぇ、やっぱり……」
「いや、まだ分からないさ。君に告げるべき事柄が何もないだけかもしれないだろう。その考えは早計だ」
アルタイルはベガの不安を拭おうと優しく語りかけてくれる。けれど、ベガが力を発現させたのは十歳の時。今のポラリスとそう変わらない年頃であった。二人は肩を寄せ合いながら、ベッドで眠る愛娘の元へと歩み寄る。
公爵家に生まれた者として、星見の力と秘密を守る責務がある。
ポラリスも、幼少期から星見の存在についてよく言い聞かされてきた。そして、いつか力を受け継いだ時のために、星たちについて深く学んでいた。
夜空に輝く星々には、かつての学者がつけた名前がある。
レオルニス公爵家は、代々星の名前を受け継いできている。星の輝きを結ぶことで、形作られる星座や、その星座にまつわる神話など、ポラリスは目を輝かせて書物を食い入るように読み耽っていた。
ポラリスは特別星が好きな子である。だからこそ、星々に呼ばれやすいのかもしれない。星見の力が、幼くして開花してもおかしくはないのだ。
「君の懸念は分かるよ。ポラリスにも幼い頃から星見の如何なるかについては教え込んできた。だが、実際に脳に流れ込む映像には、子供の頭や心では到底抱えきれない壮絶なものもあるだろう。かつての君がそうだったように、星見に恐怖して眠れない夜を過ごすようになるかもしれない。だが、大丈夫だ。ポラリスには俺たちがいる。あの子がこれからも健やかに眠れるように、できることは何でもしよう」
「ありがとう。あなたには支えられてばかりね」
「ふ、俺こそベガとポラリスの存在にどれだけ救われているか……」
身を寄せ合う二人の間に甘い雰囲気が流れ始めたその時。
「うわあああああああ‼︎」
耳をつん裂くような悲鳴を上げて、ポラリスがベッドから跳ね上がるように飛び起きた。
「はあっ、はあっ、はあっ」
「ポラリス⁉︎ どうしたの。こっちを見て」
ベガが慌てて錯乱するポラリスの両頬を包み込み、ぐっと彼女の顔を自分の顔に向けて視線を合わせる。瞳は激しく泳いでいたものの、次第にベガの瞳に焦点が合っていき、呼吸も落ち着きを取り戻していった。
「あ……ああ……お母様……う、ふ……ふえぇぇぇん」
ポラリスはポタポタと大粒の涙を零してベガの胸に飛び込んだ。
「よしよし。怖い夢でも見たのね。大丈夫よ。あなたには母も父もついているもの」
「ぐす……うん、うん……そう、夢……真っ赤で、真っ黒で、怖かった」
ポラリスは静かな声でそういうと、再び夢の世界へと墜ちていった。ベガはハンカチで優しくポラリスの涙を拭ってやり、そっとその身体をベッドへ横たえた。ポラリスが不安にならないよう、手を繋いだままベガとアルタイルもベッドに滑り込む。
「ねえ、あなた……」
「ああ。恐らく、そうなのだろう」
ポラリスは今、星見をしたのだ。
ベガが有していた力は、ポラリスに引き継がれた。
身も心も育った青年期に発現することが好ましいのだが、こればかりは人の手でどうにかなるものではない。
「真っ赤で、真っ黒……恐怖に飛び起きるほどの映像……まさか」
「……ともかく、今日は眠ろう。ポラリスがいい夢を見られるように」
「ええ……」
言いようのない不安が足元から身体にまとわりついて迫り上がってくるようで、ベガは自らの震えを誤魔化すように愛する娘をぎゅっと抱き締めて眠った。
可愛くて無邪気で、純真無垢なポラリスの未来が明るくありますように。そう強く願いながら――