ポラリス、走る
それから三日間、ミシェルが外出する際はポラリスかペテルギウスが同伴し、常に警戒して過ごしていた。
けれど、星見をした四日後のこと。
今日で行商人が隣町に移動すると聞いて、つい気が抜けてしまった。
ベテルギウスが身重なミシェルに代わって買い出しに行っている間、ポラリスはミシェルの手伝いに励んでいた。
その日の客は常連のアマンダという女性で、ミシェルの良き友人であった。二人が共通の話題で盛り上がっている間に、ポラリスは店の裏手の掃除をしようとその場を離れてしまった。
「ミシェル。あなたが行商市に来ないなんて珍しいわね」
「ええ、もうお腹も大きいし……大事を取るように言われたのよ」
髪を切り終え、軽くセットをしている間にアマンダが問いかけた。
ミシェルはやはり行商市に行きたい気持ちを諦めきれておらず、小さなため息を吐いてしまった。ポラリスとベテルギウスが自分の身体を心配してくれていることはよく理解しているつもりだ。でも、それとこれとは別なのだ。次にいつ行けるかもわからない大好きな場所の誘惑は大きかった。
「あらあ、それならわたしが付き添ってあげるわよ! もう片付け始めているけど、今なら滑り込みで間に合うかも! ほらほら、行きましょう」
「ええっ! で、でも……」
「ほら、行商人のおじさん、今日発つらしいわよ?」
「うーん……そうね、あなたがいるなら安心よね。行くわ」
「やった! 決まりね! さあ、行くわよ」
アマンダがいるのなら、と自分自身に言い訳をしたミシェルは、扉の『営業中』の板をひっくり返して、『準備中』に変更すると、アマンダに続いて店を出た。
「おや、ポラリス。君一人かい?」
「え? ミシェルさんとアマンダさんが店にいるでしょう……? ま、まさかっ」
掃除を終えて満足したポラリスが店に戻ると、ちょうどベテルギウスが買ってきた荷物を選別しているところだった。店にミシェルとアマンダの姿がない。
「『準備中』になっていたから、もしかすると……いかんな」
ベテルギウスは神妙な顔をすると、店を飛び出した。ポラリスも慌ててその後を追う。
「間違いなく行商人の市に行ったのだろう。確か、町の中央の広場に店を開いていたはずだ」
「はぁっ、はぁっ……ああ、どうか、間に合って」
二人が広場に到着した時には、既に行商人は荷馬車に荷物を積み終え、出立の準備を整えていた。その場にミシェルの姿はない。
「すれ違わなかったってことは、別の道? それともどこかお店に寄っているのかしら」
この町は小さいながらも小道がたくさん伸びている。近道にと入り組んだ道に入られては見つけることは容易ではない。
ドッドッ、と心臓がうるさく脈打っている。早くミシェルの無事を確認して安心したい。
焦るポラリスを落ち着かせるように、ベテルギウスがポラリスの頭に手を置いた。
「彼女は誰と一緒にいた?」
「ええと、アマンダさん……あっ! アマンダさんは確か、お花屋さんをしていたから、もしかしたらそっちに?」
「ふむ、行ってみよう」
広場を挟んで、ミシェルの店と反対側にアマンダの花屋はある。二人は早足で花屋を目指した。
「――あら? あなたたちはミシェルのところの居候さんね。彼女ならもう店に戻ったわよ?」
「くそ、入れ違いか」
主要な通りを選んで花屋を訪ねたがすでにミシェルの姿はなかった。
アマンダは店まで送ると申し出たそうだが、急な客が訪れたため、接客している間に帰ってしまったのだとか。そのあとも立て続けに来客があり、ミシェルのことが気になりつつも店を離れられなかったという。
「彼女とすれ違わなかったが、どの道を使っているか心当たりは?」
「え? ああ、今日は日差しが強いからね。きっと日陰になる道を選んでいるんだろう」
今は昼下がり。太陽は南を通過して西に傾き始めている。
「なるほど。感謝する」
ベテルギウスはアマンダに礼を言うと、この時間日陰が多い通りに駆け込んだ。ポラリスも慌てて後を追う。
「いたわっ! ミシェルさん!」
通りのずっと先に、背を逸せてゆっくりと道を進む女性の姿があった。
よかった。無事だった。
ポラリスの呼びかけに気付いたミシェルは、振り返って気まずげに苦笑いをした。こっそり出かけたことがバレてしまったと、悪戯が親に見つかった子供のような顔をしている。
ホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、ミシェルの背後の角から大きな荷馬車が姿を現した。
ポラリスは声にならない悲鳴をあげた。
なんで、わざわざこの道にやってくるの。
ガランガランと車輪を鳴らしながら、紐で強引に縛り上げた山盛りの荷物を乗せてこちらに向かってくる。荷馬車に気付いたミシェルは、一歩下がって道を譲ろうとしている。
両手いっぱいに袋を抱えたミシェルの真横を、荷馬車が通り過ぎようとしている。
「だめ……あ……ああ」
また、救うことができないの?
間も無くミシェルの横を荷馬車が通り過ぎる。
身籠もっているミシェルを突き飛ばすわけにはいかない。
どうやって彼女を止めればいい?
どうすれば星見の未来は回避できる?
ぐるぐると頭を回転させるも、最適解は見つからない。
そうこうしている間に荷馬車とミシェルさんが並ぶ。
と同時に、路地裏から子供が飛び出してきた。
荷馬車を引く馬が大きく嘶き、グアッとしなやかな前脚を持ち上げた。
「おわっ⁉︎」
行商人が慌てて手綱を引くも、暴れた馬の後ろ足が荷馬車を蹴り飛ばし、積荷を支えていた縄がブチッと音を立てて切れた。
「え……?」
ぐらりと荷馬車の重心がミシェルの方へと傾く。
コマ送りのように目の前に広がる光景は、先日の星見の光景と重なる。
また、何もできなかった――
ポラリスの身体は硬直したように動くことができず、頭が、心が、絶望に染まって行く。
だが、真っ黒になりかけた視界の端から何かが飛び出した。
隣にいたベテルギウスが地面を蹴って飛び出し、母体に負担をかけないように優しくミシェルを横抱きにして大きく跳躍したのだ。
その直後、ミシェルが立っていた位置に積荷が雪崩れて荷物の山を作った。
少し離れた位置に静かに降り立ったベテルギウスは、そっとミシェルを地面に下ろした。ミシェルは腰が抜けたのか、へたりとその場に座り込み、つい先ほどまで自分が立っていた場所――今や積荷が雪崩のように埋め尽くす路傍を呆然と見つめていた。
「ミシェルさんっ」
ポラリスはハッと我に帰ると、二人の元へと駆け寄った。
ペタペタと無事を確認するように頬や大きくなったお腹に触れる。
「よかった……本当に、よかった」
安心したら気が抜けてしまったのか、頬を熱い雫が伝っていく。
「なにがなんだか……ああ、ありがとう」
ミシェルは未だに事態が飲み込めていないようで、ポカンと口を開けたままポラリスを抱き寄せた。
倒れた荷馬車が立てた大きな音に、周囲にはすでに人が集まり始めていた。
幸い、御者も、飛び出してきた子供も、ミシェルも、誰一人怪我人が出なかった。
町民総出で荷馬車を起こして荷物を積み直し、恐縮する御者は何度も頭を下げながら町を去っていった。お詫びにと、次回の訪問にはとびきりの品を用意すると、そう言って。