知らされた真実
「ううん……あれ、ここは?」
翌朝、窓から差し込む陽光の眩さに目を覚ましたポラリスは、寝ぼけ眼を擦りながら身体を起こした。
ぼんやりとしながら辺りを見回すも、棚の上に飾っていたお気に入りのくまのぬいぐるみも見当たらないし、そもそも自室と比べて随分と狭く簡素な造りの部屋である。
「起きたか」
ポラリスが起きた気配を感じたのか、木の扉を開けてベテルギウスが入ってきた。わずかに開けられた扉から、ふわりと野菜を煮込む匂いも入り込んできた。朝食の準備をしていたのだろうか。すうっとその香りを吸い込むと、きゅうとお腹が鳴った。
「大叔父様……? えっと、わたし、なんでここに……あっ!」
次第に意識が浮上し、ポラリスは被っていた毛布を放り投げて飛び起きた。
「お城が……! 大公陛下は? お父様とお母様、それにリゲル様はっ」
「ポラリス。わたしの目を見なさい」
取り乱して呼吸が浅くなったポラリスの肩を力強くベテルギウスが掴んだ。狭まりかけていた視野が開けて、深呼吸をすると少しずつ動悸も落ち着いてくる。
「腹が減っただろう。まずは腹ごしらえからだ。しっかり寝て食べる。全てはそれからだ」
「はい……」
ポラリスはベテルギウスに促されるまま小屋を出た。枝葉の間から柔らかい朝の日差しが差し込んでいる。山の空気は澄んでいて、木々の擦れる音や小鳥の囀る音が心地よい。まるで絵本の中のような情景で、昨日の出来事が嘘のように平和な朝である。
「こちらへ」
ベテルギウスが指差した方を見ると、丸太の椅子と大木を縦に割って作った長テーブルが置かれていた。そのすぐそばに石を積んで作られたかまどがあり、その上に半円状の大鍋が吊られてぐつぐつとスープが煮立っていた。
そっと近づいて鍋を覗き込むと、キャベツと人参、じゃがいもにベーコンが入っていた。鍋の横には網が置かれ、なんと程よく焼き色のついたパンが乗っていた。
「すごい……」
ポラリスが丸太の椅子に座ると、ベテルギウスが素早く木のお椀と皿にスープとパンを盛り付けてくれる。
二人分用意され、ベテルギウスが丸太の椅子に座る。目を閉じて恵みに感謝の祈りを捧げ、二人は静かにそれぞれのスープに手を伸ばした。
フーフーと湯気のたつスープに息を吹きかけて、恐る恐る口をつける。塩と胡椒、あとはベーコンの旨味と野菜の甘みだけの優しいスープだ。パンにも手を伸ばし、一口サイズに千切って頬張る。小麦の香りが鼻を抜けてとても美味しい。
半分ほど食べ、残りはスープに浸して食べた。公爵家の食卓では決してしなかった食べ方だが、屋外の開放的な空間がポラリスの気を少し大きくさせていた。
温かなスープに、香ばしいパン。黙々と食べ進めていると、胃だけでなく胸までも満たされていく。
ポタッ、ポタッと、気付けば大粒の涙が頬を伝って木のテーブルに染みを作っていた。
「あ……」
ぐしぐし目を擦るが、とめどなく涙が流れてくる。
ポラリスは観念して皿を置くと、寝衣に顔を埋めて泣いた。
夜寝ているところを連れ出されたため、寝衣のままなのだ。そのことにようやく思い至り、昨夜の記憶が目まぐるしく脳内を駆け巡った。
やがてスンスン、と鼻を鳴らしたポラリスが顔を上げたタイミングで、ベテルギウスが口を開いた。
「急なことで戸惑うのも仕方あるまい。全てを受け入れろとは言わない。だが、皆の選択を理解する努力はしてほしい」
そっと差し出された木のコップには、澄んだ水が入っていた。ポラリスは「ありがとう」と掠れた声で受け取ると、泣いて乾いた喉を潤した。
「大叔父様……一体なにが起こったの?」
ポラリスは空になったコップの底に視線を落としたまま、声を絞り出した。
ベテルギウスは、そっとポラリスの肩を抱いて諭すように頭を撫でた。
「レグルス公国の東西に位置する大国――サルバル帝国とタイタロース王国が戦争を起こした」
「え……」
サルバル帝国はレグルス公国の東に位置する大国である。軍事国家であり、領土拡大のため各地で戦争を起こしている。
一方のタイタロース王国はレグルス公国の西に位置する大国である。基本的には中立国家であるが、国を守るために強力な軍隊を有している。
両国は共にレグルス公国との不可侵条約を結んでいたはずなのに。
その条約が破られたというのか。
ポラリスは俄には信じられず、顔を青くする。
妃教育でレグルス公国の周辺国家の基礎知識は得ていたが、軍事的な教育は受けていない。まだ八歳の幼いポラリスが戦争という非日常的な出来事への理解が浅いのは致し方あるまい。
「両国の戦場となったのが、わたしたちの祖国であるレグルスだった。サルバル帝国が領土拡大を目論み、条約を破ってレグルスに攻め入ってきた。サルバル帝国の動向をあらかじめ掴んで準備していたタイタロース王国も宣戦布告の上でレグルスの地に足を踏み入れてきた。サルバル帝国の目的は、大国に囲まれた地であるレグルスを掌握すること。周辺諸国への緩衝国家として獲得したかったのだろう」
「そんな……」
あまりに途方もない話で、なかなか頭に入ってこない。
「ポラリス、もう薄々察しているとは思うが、あの日君が見た夢は星見によるものだったんだ」
ああ、やっぱり――
ポラリスは木のコップを握る手に力を込めた。
「君の話を受けて、わたしたちは秘密裏に情報を集め、対策を講じていた。もちろん条約を盾に両国に説得も試みた。だが、開戦間もないと察した大公陛下や君の父、アルタイルは公国を守る者として勇敢に敵国に立ち向かうことを決めた」
「そんな……」
「レグルスの伝統工芸が歴史的にも価値が高いことはポラリスも知っているだろう?」
「はい……」
レグルス公国の名産品は、ガラス工芸や陶芸品である。
レグルスで取れる土はとても加工に向いており品質もいい。その土で作る工芸品は他では出せない繊細な色味と頑丈さを誇っている。
「街並みも我が国で採れる土が使われていて特徴的な赤みを帯びている。それに古い建造物も状態よく保存されている。レグルスは景観そのものの価値も高いのだよ」
ポラリスは、最後に見た街の様子を思い返す。あちこちから火の手が上がっていたが、建物自体は傷付けられずに無事だったように思える。一瞬のことで定かではないけれど。
「民は伝統工芸の腕があり、街にも残すべき価値がある。だから我々は国民や街には危害を与えない、重要な技術者である民は虐殺されることはないと踏んでいたのだが、念のため、この二ヶ月で地下に防空壕を造った。ちょうど一週間前から、民は毎夜防空壕で夜を明かすようにと大公陛下の勅命が出ていた。だから……これは希望も込めてのことだが、民に一滴の血も流れてはいない。わたしはそう信じている。これまで準備して来たことが決して無駄になることはない」
民が無事である可能性が高い。その言葉にポラリスは安堵の息を吐いた。けれど、鉛のように重く沈んだ心はなかなか浮上してはくれない。
そんなポラリスの心中を察したのだろう。ベテルギウスがポラリスの頭に手を置いた。
大きくて無骨であるけれど、とても優しい手。ポラリスはこの手に撫でられるのが好きだった。
「ポラリス、いいかい? よく聞きなさい」
真っ直ぐにポラリスの目を見据え、ベテルギウスが重厚感のある声で語りかける。
「たとえ未来に起こる出来事が分かっていても、変えられないこともある。今回のことがそうだ。大公陛下も、アルタイル――君の父も両国に掛け合い、平和的解決を強く説いていた。だが、大国側の欲望を抑えることができなかった。ポラリス。君が星見をしたおかげで、レグルス公国は最後まで足掻くことができたのだ。それに、こうしてわたしと君は生き延びることができた。事前に避難先のこの小屋を整え、常に新鮮な食材を運び入れていつ事が起こっても対応できるように備えていた。それもこれも、ポラリスのおかげだ」
「……うっ」
ベテルギウスの言葉は、ポラリスを励ますものだとよく分かる。それに、星見によって最悪の事態は避けられた、そのことも分かっているつもりだ。
けれど、どうしても考えてしまう。
「でも……っ、でも……みんなを救うことはできなかった」
まるで自分を責めるように肩を震わせるまだ幼い少女を、ベテルギウスは胸が締め付けられる思いで見つめていた。ぐ、と唇を噛み締めて、そのか弱い身体を腕の中に閉じ込めた。力を込めれば簡単に壊れてしまいそうなほどに儚い。この子が背負う過去から、運命から、どうにか隠してしまえたらどれほどよかっただろう。
「それは、ポラリスのせいではない。各々があらゆる可能性を吟味し、最終的に決断したことだ。だから君が自分を責める謂れはない。君は偉大な両親や大公陛下の決断を無碍にするのか?」
「っ! そ、れは」
少々酷ではあるが、ポラリスが前を向けるように、明るく生きていけるように支えることがベテルギウスに課された役割である。彼女が間違っても両親たちの英断に責任を感じてしまわないように、しっかりと話さなくてはならない。
「君の両親は、何よりも君を守ることを第一に考えていた。彼らはポラリスを心から愛している」
「それはっ、わたしも……」
「レオルニス公爵家に生まれた君は、幼少期から星見についての教育を受けてきただろう?」
「……はい」
「その力は、我々人間にとって過大な力だ。未来の一端を垣間見ることができるのだから。レグルス公国はその力の恐ろしさを正しく理解していた。ポラリス、もし軍事大国であるサルバル帝国が星見の力を得たならば、どのようにその力を利用すると思う?」
突然の問いにポラリスは一瞬たじろいだ。だが、少し瞳を彷徨わせ、自信なさげに答えた。
「戦争……に利用する?」
「ああ、そうだ。好戦的な帝国のことだ。星々は争いの火種を警告してくれるだろう。だが、きっと自軍が優位に立てるようにその星見結果を利用する。星見による勝利を重ね、領土を拡大した帝国は、その尋常ならざる力に執着していくだろう。決して離すことはせず、体裁よく幽閉し、能力者が死ぬまでその力に依存し搾取していく。アルタイルとベガは、ただ君を守りたかったんだ」
ベテルギウスのもしもの話は、ポラリスが歩んだかもしれない一つの未来図である。そのことを悟り、ポラリスは恐怖により身体から血の気が引いていく。同時に、両親の決断、その愛に胸がいっぱいになる。
「でも……わたしは家族みんなで一緒に暮らしたかった……!」
例え無理な話でも望まずにはいられない。
これまでの幸せで満ち溢れた日々が、いつまでも続くものだと思っていた。
大好きな両親、優しい使用人、良好な関係を築きつつあった婚約者――ポラリスは一夜にしてその全てを失った。
ベテルギウスは、嗚咽を漏らすポラリスを抱きしめる腕に力を込める。わたしはここにいると、ポラリスに伝えるために。
「わたしがいる。これからはわたしが、生きるために必要な術を教えていこう。これまで同様の暮らしはもうできない。市井でも生きていけるよう、料理や洗濯、掃除の仕方を教える。いつか貴族社会に戻る可能性もゼロではない。テーブルマナーやダンスも忘れないように練習を続けていこう。馬での移動も増えるだろうから乗馬は最優先事項だな。できることは多いに越したことはない。きっとこれからのポラリスの努力は、君の未来の選択肢を増やしてくれる。さあ、これからいろんな国を見て回ろう。帰る家を無くしてしまったが、逆に考えればどこででも生きていける。好きな場所へ行ける。やりたいことはあるか? 少しずつでいい、前を向いて生きていこう」
「……はい」
そっとベテルギウスから離れたポラリスは、空を仰いだ。
天高くに鳥が飛んでいる。青空は雲ひとつなく澄み渡っている。
無情にも世界はこんなにも美しい。
今はまだ、前を向けそうにないけれど、嘆いたところで現実は何も変わらない。
ポラリスはもう一杯スープをおかわりすると、一滴も残さずに飲み干した。少し力が湧いてくる気がした。