第85話 寿司の代償
「じゃあ、行くか。豊川稲荷前まで」
本部棟の建物に横付けされたタクシーに乗り込むとランはそう運転手に行く先を告げた。
運転手は笑顔で運転を始める。
「回らない寿司って……うちはお祝いの時に取ったこともありますけど……お店で食べたこと無いんです……」
誠は助手席で後部座席で腕組みをしているランに笑顔を振りまきながらそう言った。
「なーに、アタシは食いもんにはこだわるからな。それにあそこにネタを卸すルートを教えてやった恩もあるって大将が言うもんだから……こうして時々行くわけだ」
ちっちゃい上司のランはそう言っていい笑顔を浮かべた。
車は工場を出て産業道路を突き当り、駅へのロータリーに向かった。
「ネタを卸すルートって……普通の市場からネタを買うんじゃないんですか?」
誠は少し引っかかった疑問をランにぶつけてみた。
「新鮮なネタを安く仕入れる『漁協みたいな連中』が居てな。そいつ等はそいつ等で釣った魚の販売ルートに困ってたから。いわゆる『ウィン・ウィン』の関係って奴だ」
笑顔でそう言うランに誠は特に突っ込むこともなく車はいかにも高そうな寿司屋の前に到着した。
「着いたぞ」
ランはそう言って持っていたポシェットから財布を取り出して清算を始めた。
誠はランに頭を下げながら静かにタクシーの助手席から降りた。
「どーした。行くぞ」
カードで精算を済ませたようで、ランは立ち尽くす誠の尻を叩いた後、そのまま高級すし店の暖簾をくぐった。
「いらっしゃい!ああ、これは中佐。お世話になってます」
いい年輪を刻んだような大将が笑顔でランと誠を迎えた。いかにも高級寿司店と言う雰囲気に呑まれながら、誠はカウンターの中央に腰を下ろすランの隣に座った。
「大将、こいつが今度来た期待の新人だ。これからも世話になるかも知れねーから連れてきた」
ランはそう言うと若い板前からおしぼりを受取った。
「お兄さんは大柄だからねえ……食うんでしょ?結構」
そう言って笑う寿司屋の大将の視線に射抜かれて誠はただ苦笑いを浮かべるしかなかった。
「まーこいつはまだまだ半人前だからな。まず、ちらしを作ってやってくれ」
「え?」
ランの言葉に誠は少し戸惑った。
寿司と言えば握り寿司を想像していた誠である。気の弱い誠は遠慮して10貫くらいでやめようとは思っていたが、それにしてもいきなりちらしとは少しがっかりした。
「分かりやした!で、中佐は」
「アタシは……まずは刺身で行こうか。今日は何が入ってるんだ?」
ランはそう言って大将を見上げる。
「スズキが良いのが入ってますよ。それに今日は特別に良いハガツオも」
「じゃあ、それを頼むわ。それといつもの辛口を冷で。あと、こいつにはビールを頼むわ」
そう言うランの姿を見て、誠は少し大人になったような気分になった。
「お兄さん……いい体格してるけど……何かスポーツとかやってたのかな?」
大将は隣の客に頼まれた甘えびの握りを握りながらそう言って誠に笑いかけてきた。
「ええ、まあ……野球は高校までやってました。剣道は……小学校の低学年くらいまでですけど」
「え?大学とかでもやってたように見えるけど……辞めちゃったの?」
それとない世間話のはずだったが、大将の言葉に誠は思わず口をつぐんだ。
「まー、肩をやっちゃったんだと。それからは遊びでやる程度ってところなんだろ?」
板前に差し出された冷酒の入った小瓶とお猪口を手にランはそう言って笑った。
「そうか……残念だね……でも、あの西園寺のお嬢様は野球好きだからね。お兄さんもやるんだろ?」
「ええ、まあ。硬式は無理ですけど軟球なら大丈夫みたいですし……」
誠は目の前に置かれた中ジョッキを手にそう言って笑いかけた。
「軟式と硬式ってそんなに違うんだ」
ようやく納得がいったというように大将がうなづくのを見ながら誠はビールを飲んだ。
「こいつはサウスポーだからな。西園寺の馬鹿も相当気に入ってるみてーだな。名誉監督としてはうれしい限りだ」
ランは目の前に置かれた白身魚の刺身を肴に酒を飲み始めた。どう見ても8歳児にしか見えないランがちびりちびりと冷酒を飲みながら刺身をつまむ姿は誠から見てもかなりシュールだった。
「でも……なんで今日は寿司なんです?」
今朝から午前中のランニングや午後のシミュレーター訓練中も気になっていたことを誠は口にした。
「あれだ……気が向いた……ってのは半分は本当。でもそれ以上にオメーの気が変わったんじゃねーかと思ってな」
「はい、ちらしお待ち!」
ランがつぶやく間に大将が大盛ちらし寿司を誠の目の前に置いた。
「おっきいですね……」
「問題は量じゃねーんだよ。食ってみろよ」
豪華にマグロや白身魚が盛られたちらし寿司である。誠は試しにマグロとご飯を口に運んだ。
「え?……旨い」
誠は正直驚いていた。ちらし寿司と言うと母が時々作るが、そこにはこんなに具は乗っていない。シイタケやカニカマばかりの実家のちらし寿司とはまるで別物だった。
「そりゃーそーだ。寿司屋なんだから」
ランは笑顔で刺身をつまみ酒を飲む。
「でも……本当に美味しいです!ありがとうございます!」
誠は心からそう思いガツガツとちらし寿司を食べ進めた。
「そのー、なんだ。喜んでいるところなんだけどよ」
そう言うとランは手にしていた猪口をカウンターに置いて誠を見つめた。
「なんです?」
どんぶりを手にしたまま誠は奢ってくれた上司に目を向けた。
「オメーには詫びなきゃなんねーことがあるんだ」
「僕を『特殊な部隊』に引き込んだことですか?」
誠はそう言うとランの真剣な表情に負けてどんぶりを置いて彼女の瞳を見つめた。
「それもある……ていうかそれが原因でお前はひでーことをさせられることになる」
「ひどいこと?」
訳も分からず誠はランに聞き返した。
「オメーはいずれその力で人を殺す……アタシが殺させる……すまねー」
静かに頭を下げるランに誠はただ茫然と彼女の小さな体を見つめることしかできなかった。
「やっぱり、今回の演習は実戦になるんですね」
誠は少しだけランの言っていることの意味が分かってそう言った。その言葉は震えていた。
「実戦になる……そうなることをアタシも隊長も望んでいる……いけねーことだと分かってる。そうあっちゃ困ることも、オメーに人殺しをさせることになるのも分かる……でも、アタシ達の本当の目的のためには仕方ねーことなんだ。許してくれ」
一度、誠の顔を見つめた後、ランはそう言って深々と頭を下げた。
「僕は……軍人です。軍人は戦争で人を殺すかもしれない職業です。その覚悟くらい……」
「いや、出来てねーな。オメーの言うのは言葉だけの上っ面だ。アタシはさんざん人を殺してきた。おそらくアタシより多くの人を直接殺した人間はいねーくらい殺した」
強がる誠を見上げるランの瞳。それは鉛色に鈍っていつもの明るいかわいらしいランの瞳とは違う輝きを持っていた。
誠はそんなランに初めて出会ったときの殺気を思い出した。
「確かにスイッチ一つでアタシより多くの人間を殺した奴はいるだろうな。でも、アタシは直接この手で殺した。得物は『方天画戟』……だから人はアタシを『汗血馬の乗り手』と呼ぶんだ。中国の三国志の時代に『方天画戟』を振るった大粛清の武将『呂布奉先』にあやかってのことだ」
そこまで言うとランは誠から目を逸らして手を猪口に伸ばした。
「そん時のアタシはどうかしてた……眠ってたところを起こしてくれた恩を感じてその『外道』の野心に利用されていることに気づかなかったんだ……馬鹿だったんだな……でも、アタシはアタシを取り戻し、その『外道』を始末して国を捨てた……」
ランはそう言うと再び刺身をつまみに酒を飲み始めた。誠も彼女に合わせて再びどんぶりの中のちらし寿司を食べ始めた。
「結果、アタシの国はこの世から消えた。消えて当然の国だったんだ。『外道』の野心を実現するための機械にされたアタシが言うんだ。間違いない」
そう言って笑うランの言葉を聞きながら誠はどんぶりから口を放してランを見つめた。
「アタシが敵を落とした数……厄介なことに記録が残ってんだ……でもアタシは認めねー!アタシは一機も落としてねーんだ」
「記録が残ってるんじゃないんですか?」
少し的外れだとは思ったが誠の口をついてそんな言葉が飛び出した。
「それは事故だ!相手の技量がひどかっただけ!アタシは『撃墜数0、被撃墜回数1』だといつも言ってる!」
ランは誠を見上げてそう叫んだ。
「そーだな。自分勝手な言いぐさなのは分かってんだ……でも、アタシは誰も殺したくねーし、殺させたくねー。傷つけたくねーし、傷つけさせたくねー……でも……」
そこまで言うとランはうつむいてしまった。小さな子供に肩を震わせながらうつむかれることは誠にはあまり気分のいいものでは無かった。
「それは……任務なんですよね」
誠は静かに、そして力を込めてそう言った。
「そーだ。任務って話になる」
ランは顔を上げた。目はわずかに涙で潤んでいた。
「それなら……遂行します。それが軍人や警察官と言う仕事だと分かってますから」
そんな誠の言葉に嘘は無かった。その言葉を聞いてランはようやく微笑みを浮かべた。
「そーか。オメーには進むべき道を与えたアタシやあの『駄目人間』を恨む権利があるんだぞ」
上目遣いにそう言うランを見て誠は大きく首を横に振った。
「恨みません……アメリアさんの話じゃ、僕はずっと監視されてきたって話じゃないですか。そんな僕の知らないところで僕の運命が決められるなんて僕はごめんです……僕の運命は僕が決めます!たとえ命がけのことでも」
誠はそう言い切るとどんぶりに残ったちらし寿司の残りに口をつけた。
「そーかい。ならいーや。大将、アタシも小腹が空いた。まずはコハダとイカで」
ランはそう言って猪口の酒をあおる。
「はい!中佐!」
大将は笑顔でそう言うとまずはコハダを握り始めた。
こうして寿司屋での会食の夜は暮れて行った。