四
入学式の翌日、まだ日が昇って間もないころ。
ラボはうす暗い道を急いで、学校にやってきた。
学校の正面にある門はまだおおきく開け放たれてはいないが、ひと一人が通れるほどには開けられている。門の脇にある守衛室をうかがったラボは、視線を向けてきた守衛に学生証を見せて学校の敷地内に入る。
―――よかった、開いていて。でも、こんな時間から学校に来るひとがいるってことなのかな。
いるかもしれない誰かに見られないように、ラボは建物の影を選んで学校のなかを進んでいく。その手には入学式で配布された資料のひとつ、学校案内図が握られていた。
―――きのうはなんとか騒ぎにならずにすんだけど、やっぱり目と鼻が無いと……。
昨日のできごとを受けて前髪で顔を隠すだけでは心もとないと改めて思ったラボは、ひと晩なやんだ挙句、特殊メイクを教えている教室に忍び込むことにしたのだった。
―――練習に使ったあとの捨てるようなものがあったら、いいんだけど。
学校で出たゴミは回収の日が決まっているらしく、その日までは各教室で保管するため学業外のゴミは各自持ち帰ること、と配布資料にあった。
ラボは、その保管されたゴミを狙っているのだ。
朝早い学校のなかは、しんと静まり返っている。
どこの教室も空っぽで、ひとが集まって生まれるざわめきもなければぬくもりもない。
夜のあいだにきれいに清められたかのように冷え冷えとして、どこか寂しい雰囲気をただよわせていた。
ラボにとっては、馴染みのある雰囲気だ。
のっぺらぼうとして生じてからずっと、静かなうす暗がりのなかで密やかに暮らしてきた。
まれにひとに見つかっては悲鳴をあげられて逃げ、また逃げた先で見つけたうす暗がりに隠れるようにして生きてきた。
―――でも、わたしは変わるんだから。
そのために苦労して書類を用意し、この美容学校に入ったのだ。
なんとしても学生生活を成功させなければ。そう決意したラボは、たどり着いた部屋の表札を見上げる。
『特殊メイク学科』
ゆくゆくはここを専攻したいと、ラボが希望している学科だ。きょうはひと足早く、そこに踏み入れる。
「おじゃましまーす……」
ラボはちいさな声であいさつしながら教室の戸を開けた。だれもいないとわかっていても、つい言ってしまうのがラボだ。
窓のブラインドは閉じられていて、広い教室はずいぶんと暗い。その暗さも手伝ってか、壁に沿って置かれた様々な造形物は、まるで本物のように佇んでいた。
「うわあ、すごい……!」
思わず、目的も忘れてラボは壁際に吸い寄せられる。
西洋の怪物を模したマスク、本物にそっくりなひとの腕、ひどく美しい造形をした人間の像は髪の毛を植えている途中なのか右半分だけが無毛でおかしかった。
そのとなりに、ガラスケースに入れられた目玉がふたつ。
「あ……」
ラボの足は、その目に魅入られたように止まった。
透明な箱のなか、無造作に転がされているのは澄んだ瞳だった。
明るい茶色の虹彩に、真っ黒い瞳孔がぽっかりと穴をあけている。
近づいて観察すると、茶色く見えた虹彩にはさまざまな色が細い線のように散らされて複雑な美しさを構成しているのがわかった。
芸術品のような美しさに、ラボは思わずつぶやく。
「なんて、きれい……」
「ありがとう」
「っ!?」
だれもいないはずの部屋でこぼしたつぶやきに返った声に、ラボは肩を揺らして驚いた。
あわててあたりを見回したラボは、部屋の端に寄せられた段ボールの合間からのそのそと出てくる人影を見つけて固まった。
「きみは、一年生かな。特殊メイクに興味があるのかい」
そう聞いてくる男は、どうして部屋にいることに気が付かなかったのか。不思議に思うほど背が高く、そのうえ肩幅も広い。落ち着いた声は静かに染み入るようで、彫りの深い顔は意外なほど若い。けれど整った顔に表情はなく特別な感情をうかがわせない。
まるで大入道みたい、と見上げながら、ラボはこっくりうなずいた。驚きはしたが、不思議と焦りはない。
「そうか。学科選びは一年生の終わりごろなんだが、まあ、いいか」
ラボに言ったのか、はたまたひとりごとなのか。判然としない物言いをした男は、壁際に置かれたガラスケースを見つめながらくちを開く。
「ここは名前の通り、特殊メイクを学ぶところ。ぼくはここの臨時講師の安部井。なにか、聞きたいことはある?」
ぼそりとつぶやくような問いかけに、ラボははっとしてこくこくうなずく。
「あの、あの、捨てる教材ってありませんか。目や鼻なら、どんなものでもいいんです!」
「捨てる、目とか鼻?」
きょとんとまばたきをした安部井は、ふむ、と視線を遠くへやってからラボに向き直った。
「鼻はいろんな素材で作った学生の試作品があるが。目はコンタクトレンズで人相を変えることがほとんどだからな……。ゾンビの飛び出した目玉なんかとは、またちがうのか?」
「ええと、そうですね。できれば義眼みたいなものがあれば……」
「眼球まるごとのものがいいのか」
腕を組んでしばし考えた安部井は、しばらくしてゆるゆると首を横に振った。
「そういうタイプの義眼は、扱わないな。メイクをする人物の目玉を取りだして交換するわけではないから。基本はコンタクトレンズだ」
「あ……そう、ですよね」
言われてはじめて、ラボは一般の人間は自前の眼球を持っていることに気が付いた。撮影などで特殊メイクをしたとしても、自在に動かせる自前の目を活用したほうが都合がいいのは当然だろう。
ラボがしゅん、とうつむいてどうしたらいいだろうと考えていると、ぼそりと声が落ちてくる。
「そもそも、なぜ鼻と目なんか欲しがるんだい」
「そ、それは……」
当然の疑問を向けられて、ラボはことばにつまる。
どうして良い言い訳を考えておかなかったのだろう、と後悔しながら。