三
―――逃げなきゃ。ひとが来る前に、彼が立ち上がる前に!
そう思って北に背を向けたラボは、こちらに向かってかけてくる美麗と更紗の姿を見つけて足を止めた。
「どうしたの、ラボ!」
「ラボさん、どうなさったの⁉︎」
―――ああ、もうだめだ。
心配そうな顔で駆け寄ってきた美麗と更紗に挟まれて、ラボにはもう逃げ道がない。
勇気を出して美容学校に入学したというのに、入学初日でその勇気は無駄になってしまった。のっぺらぼうだと、妖怪だとバレてしまったラボは、もうここにはいられない。
足元でわめく北の話を聞けば、良くしてくれた美麗と更紗も悲鳴をあげるだろう。
そして、恐怖に染まった目でラボを見るのだろう。
悲しい気持ちで張り裂けそうになりながら、沙汰を待つラボの前で美麗が低い声を出した。
「あんた、ラボになにしたの」
「洗いざらいお話になって。私いま、役立たずなくちは縫い付けてしまいたい気持ちでいっぱいなの」
ラボを守るように前に立ったふたりが、北に冷たい視線を向ける。
床に這いつくばった北は、そんな目を向けられながらもふたりにすがるように震える声をふりしぼった。
「ば、化け物なんだ……! そいつ、顔がない、化け物で!」
化け物。
生じてこのかた何度も向けられたそのことばが、今日もまたラボの胸をえぐる。
何度言われても慣れることのないその痛みに、いっそう俯いたラボの肩に、そっとぬくもりが触れた。やさしく、けれどしっかりとラボを抱きしめるのは、美麗の手だ。
「ああん? つまり、あんたは嫌がるラボの顔を無理やりのぞいたってわけか?」
ラボに触れる手のやさしさとは裏腹に、美麗の声はドスが効いている。
「ラボさんは顔を見られるのが苦手だと、さきほど自己紹介のおりに伝えておられました。それを聞いてなお、己の好奇心を優先させたのですね? それもラボさんがひとりになる時を待って、コトに及んだ、と」
「いや、でも! そいつは化け物で!」
淡々と言う更紗に北が必死で訴えるが、更紗は伸ばされた男の手をぱしりとはたき落とす。
「まだ言いますか、この卑劣漢! いま話しているのはラボさんの顔のことではありません。あなたの行為が犯罪だと! そう言っているのです!」
ぴしゃりと告げた更紗の手には、スマホが握られていた。その画面を向けられた北が、表情を変えて青ざめる。
「えっ、おい、まさか警察呼ぶ気か?」
「ああ。か弱い女の子を襲う危険な野郎は、警察の世話になって当然さ」
深くうなずく美麗に、北は「そんな!」と悲鳴じみた声をあげた。
「おっ、おれは化け物の被害者だぞ!」
「被害とは?」
「そ、れは……」
すかさず首をかしげて問う更紗に、北がことばに詰まる。
そこへ、美麗が重ねて問いかける。
「ラボはあんたをひと気のないところに追い詰めた?」
「え、いや……」
「それとも、ラボはあんたを嫌がるあんたを無理に押さえ込んだ?」
「いや、それは……」
「だったら、ラボはあんたが望んでないのに顔を見せてきた?」
「それは……ちがう、けど……」
でも、と言いかけた北をさえぎって、美麗は言う。
「なら、嫌がる女の子の顔を無理やり見たのにちがいないってことだ」
「いや! でもそいつ化け物なんだって! のっぺらぼうなんだよ。きみらも見てみればわかるから……!」
北がそう叫んだとき、ラボの肩に回されていた美麗の手が離れていった。
―――ああ、友だちになれるかもなんて、やっぱり大それた夢だったんだ。
遠くなっていく手を諦めの思いで見送ったラボの前に、美麗と更紗が並んで立つ。
―――どうして、ふたりは北さんのほうを向いてるんだろう。これじゃまるで、わたしを守ってるみたい……。
ふたりの背中を眺めながらぼんやりと思うラボをよそに、美麗が冷たい声を向けたのは北だった。
「たとえ化け物だとしても、顔を見られたくないって言ってるのを無視していいわけないでしょ」
かつん、と靴音を響かせて更紗が詰め寄ったのは、やはり北だった。
「あなたがラボさんの顔をどう思ったにせよ、ラボさんはひとりの女の子です。その意思を踏みにじる行為こそ、ひとに非ず!」
かつん! さらに一歩を踏み出した更紗の靴が、床に座り込んだ北の股間をかすめる。
とっさに後ずさった北は「ひぃっ」と情けない悲鳴をあげてうしろにへたりこんだ。
美麗と更紗はラボの顔を知らない。
けれど、彼女たちはラボを守ってくれようとしている。真実としては、北が正しい。ラボは化け物だ。それなのに、彼女たちはラボを疑いもせずに信じてくれている。
そのことが、たまらなくうれしくて、ラボは自分の胸をぎゅっと抱きしめた。うれしさがあふれてこぼれそうだったのだ。
「こういうときって、店員さんに声かけてから警察呼んだほうがいいのかな?」
「そうですね。いきなり警察のかたがいらしたら驚いてしまわれるでしょうから、ひと声かけて参りましょう」
ラボが胸を熱くさせているあいだに、美麗と更紗のほうでは通報する算段を立てている。それに気が付いて、ラボはあわててふたりの服のすそを引いた。
「あのっ、け、警察はいらないです! なにもされていませんし、ただちょっと驚いただけなので……」
「ほんと? でも声震えちゃってるじゃん。我慢しなくていいんだよ。警察と話すの怖かったら、あたしらもついて行くからさ」
「そうですよ。怖かったのは本当でしょう? もし入学早々に問題を起こすことを心配なさってるのなら、学校のほうへは私からきちんとお話します。安心なさって」
心配そうに言うふたりに、ラボは首を横にふる。
「ううん、本当に。本当にもういいの。声が震えてるのは、ふたりがわたしのこと考えてくれるのがうれしくって……」
目があったのならば、きっと涙ぐんでいただろう。けれどすする鼻もなく涙をにじませる目もないラボは、せめてとふたりに正面から向き合った。
そんなラボに、飛びついたのは美麗だ。
「なんだよ、ラボ! そんなこと言われたら、喜んじゃうでしょ!」
「ふふ。ラボさんたら、なんてかわいいのかしら」
ラボに飛びついた美麗ごとぎゅっと抱きしめた更紗は、やわらかく笑ってからくるりと首を回して北を向く。美しい彼女の視線を受けて、北がちいさく悲鳴をあげた。
「ラボさんに免じて、今回のことは見逃しましょう。けれど、次に同じことをしようものなら……わかっていますね?」
更紗ににらまれた北は、震えあがって何度もうなずく。
それだけ確認して、更紗は北に興味をなくしたようだった。ラボと美麗に向き直ってにっこりとほほえむ。
「それでは、帰りましょうか。ラボさんのお荷物、持ってきてしまいましたの」
ちょこん、とあげてみせた更紗の手には、確かにラボの持ってきた風呂敷包みがある。いっしょに持っている紙袋は、学校で配られた資料だろう。
「あ、じゃあカラオケしてるみなさんにあいさつしてから……」
「うんにゃ、だいじょぶだいじょぶ。そんなのそこの野郎に任せとけばいーの。ちゃあんと当り障りのない理由を伝えといてくれるよな、キタジュンくん?」
ドスの利いた声で名前を呼ばれた北がこくこくと頭を上下させるのを満足そうに見た美麗は、ラボの肩を抱いて店の入り口へとうながす。
更紗は、美麗とは逆側のラボの横に寄り添った。
ふたりのぬくもりに挟まれて、ラボは歩き出す。
なんてすてきなひとたちに出会えたんだろう、と胸を温かくしながら。