Bon Voyage
オカザキレオさま主催「君とドラゴン企画」参加作品
「サリーの翼ってすごく綺麗。今日みたいに、とびっきりの夕焼けの日は、特に」
私は鈍く光る銀色の身体に跨がり、大きく広げられたサリーの琥珀色の翼をうっとりと眺めた。
翼は夕陽を透かし今や滴るような黄金色に変わりつつある。
『そんな当たり前のことを言われてもねぇ。私の美しいところは私が一番よく分かっているよ。何せ自分とは一番付き合いが長いんだからね』
サリーは呆れたと言わんばかりに首を振り、『掴まりな』と素っ気なく呟いた。
オレンジ色に染まる薄雲の中を風を切りながら下降する。
私は特別に取り付けることを許された手綱を短く持ち直して、体を屈めながら、いつも通りそのスピードを楽しんだ。
眼下には冬に向けて色を変えつつある山々が、そしてその麓には穏やかに一日を終えようとしている村が小さく見える。
サリーはなだらかな傾斜の山の頂に降り立ち、私がその背から降りるのを見届けると、その美しい翼を一度大きく広げ、優雅にゆっくりと畳んだ。
『久しぶりに飛ぶとやはり疲れるね。お前、少し重くなったんじゃないか? 』
「親代わりなら年頃の娘に言っちゃいけない言葉ってもんを知っとくべきよ、サリー」
サリーの踞る身体の横にあった岩によじ登り、そこに陣取った私は、わざと膨れっ面を作ってみせた。
『親だからこそ、しっかり現実を教えてあげるんだよ。オーロラ』
サリーは負けじと生真面目な声でそう返した後、苦しそうに息を吐いた。
少しずつ山あいに夕陽が沈んでゆく。
スッと射す光がサリーの鱗を照らし、私はところどころ剥がれ落ちたそれを見てみぬふりをした。
「ねぇ、サリー。私がはじめてサリーの背に乗って飛んだ日のこと、覚えてる? 」
私がそう言うと、サリーは懐かしそうに目を細めた。
『ああ、忘れるもんか。お前が咥えられながら飛ぶのは恥ずかしいなんて言い出すもんだから、私がせっかく手綱までつけてやったのにお前ときたら何度も落っこちたり宙吊りになったりで、この歳になって私は空中で落ちる人間を受け止める技を磨く羽目になったよ』
「で、でも最後にはちゃんと乗れるようになったじゃない! それに弱音だって一度も吐かなかったわ! 私、ずっとあなたと同じ目線であなたの見る景色を見たいって思ってた。だからはじめて一緒に飛んだあの日、この両目に飛び込んできた真っ青な空を見つめながら、私涙を一生懸命堪えたの。ぜったいにこの景色を滲ませるもんかって。一片たりとも欠けさせずにこの目に映して持ち帰ってやるんだって」
サリーは私の弁明を可笑しそうに聞き、『お前はドラゴンより欲深いし、それに強情だ』と言って感慨深げに何度も頷いた。
『本当にお前には手を焼かされたよ。ちょいと散歩していた国の山奥で、四つか五つの娘がつんざくように泣いていたのを見つけたのが昨日のようだ。ほんの少し面倒を見るつもりがあっという間に成人ときた。せっかく人間の住む村へ戻そうとしたのに難くなにくっついて離れないわ、私の真似をして飛ぶと言って崖の上から飛び降りようとするわで私の寿命を縮めまくった、あのお前がねぇ。人間といると瞬きする間もないよ』
サリーの深い深い緑の瞳が小さく揺れる。
「そうよ。瞬きする間もないの。だからサリーは私をちゃんと見つめてくれなきゃ。私、これからうんと綺麗になって、サリーがいつか聞かせてくれた物語に出てくるような勇敢な若者と恋をして結ばれて、たくさんの家族に囲まれて、笑い皺をいっぱい拵えたおばあちゃんになるの。サリーはそれにいちいち口を挟みながら見届けるのよ。私がうっとうしがるぐらいに」
私が捲し立てるようにそう言うと、サリーは目元を和らげながら喉の奥でクツクツと笑った。
『そうだねぇ。それはいいねぇ。お前はきっと年老いてもすぐふて腐れたり、大口開けて笑ったりで騒々しそうだ。お前の子ども達も、孫もみんなお前の面影があるに違いない』
あの夕陽が沈む向こう側にそんな光景が広がっているかのように、サリーは徐々に夜へと容貌を変える空を嬉しそうに見つめる。
私は抱えた膝に顔を埋め、くぐもった声を絞り出した。
「……サリー、私もっとあなたと空を飛びたい。あなたと一緒にいたい。これからも、ずっと」
『……オーロラ、私はお前の前に現れたひとつの扉にすぎない。だが、その扉は最初から開かれていたわけじゃない。お前自身がその扉を叩き、開けたんだ。お前は空につづく扉を開けた。それはお前と私の空だ。ほら』
サリーが私の腕を鼻先でつつき、顔を上げるよう促す。
いつの間にかその端々に藍色を残すだけとなった空に、点々と星が明かりを灯していた。
『扉は一つだけじゃない。お前はこれからいくつもの扉の前に立つだろう。その扉の数だけ、お前は旅をする。オーロラ、忘れるな。お前は私のそばを通り過ぎたのではない。私の中を通りぬけたのだ。そして、それは私だって同じことさ』
「……いい旅だった? サリー」
私はざらりとしたサリーの鼻先に、額を擦りつけながら目を閉じる。
サリー、大好きなサリー。
『ああ。言葉にならない程な』
「私もよ」
しんしんと積もる夜に、私達はふたりでひとつの生き物のようにくっついていた。
ひんやりと冷たい風が掠めても、私はちっとも寒くはなかった。込み上げてくる胸の熱さに、目眩がしそうだ。
「大好きよ。おかあさん」
別れとはなんて乱暴なんだろう。
そしてその中であなたはなんて優しいんだろう。
サリーの鱗が次々に剥がれ落ち、さらさらと消えていく。
塵となった銀色は、風に吹き上げられ夜空に散りばめられていった。
『よい旅を』
掠れた声で告げられた最後の言葉が、耳の奥で何度も木霊した。
私は声を震わせないように、お腹の底に力を込めて言葉を紡ぐ。
サリーに届くように。聞こえるように。
「ねぇ、サリー。またいつか出会ったら、私きっとまた扉を叩くわ。何度でも」
今夜は美しい夜だ。
決して忘れることができないぐらい美しい夜だ。
増えた星の瞬きを見つめそう思う。
でも、きっと、明日だって美しい。
「よい旅を。サリー」
私の中を、愛しいドラゴンが飛び立つ。
私は銀色に滲む夜空の下を、ゆっくりと歩き出した。