禁忌の雨乞い神事
1
科学的根拠はないと思うが、私はだいじな用事があって出かけるときにかぎって、高確率で雨に祟られた。悲しむべきかな小学生のころから雨男のレッテルを貼られ、四十になってもその汚名を冠されて現在に至る。
そんな雨男ぶりを見こまれて、私は和歌山県田辺市にやってきたのだったが、あいにく今日はその呪力も期待できそうにない空模様だった。
快晴も快晴。はるか上空に綿あめのような雲ひとつ浮かべ、ちっぽけな私を嘲笑していた。
私はふだん、フリーランスのライターをしているのだが、いまや食うのに困り、週に三度は製本所のバイトをして家計を支えていた。バツイチで五歳になる娘もち。そのかたわら、全国雨男・雨女協会という、しゃれで立ちあげた小団体に所属していた。
本部を兵庫県芦屋市におき、月に二、三度ほど会合を開いて、全国に散らばる三〇〇もの猛者と親睦を深めたりしていた。会長は高城といい、婚期を逃したせいでいささか感情的になりがちだが、やり手で、ふだんは中堅下着メーカーの総務主任をつとめながら、月の第二第四土曜――場合によっては日曜も――事務所にかよい、情報交換および雑務を片手間でやってのけていた。それは私も同様であった。
高城はデスクについてプリントアウトされた資料を指し、
「来週号の記事はこれでいくわ。さっそく現地に飛びましょ。そのときは樫山クンもカメラマンとして同行してもらうからよろしくね」と、言った。奇数月の二十五日に書店にならぶ、地味に売れ行きを伸ばしている雑誌、月刊『雨人の旅』の誌面のネタに、この島が選ばれたのだ。
「和歌山県田辺市に雨乞い神事をおこなった島あり、か」私は資料に眼をとおしながら言った。「いまどき雨乞いね。私たちが行けば、たちどころに降らせてみせるかもしれませんよ。神事とやらにすがらなきゃならないほど、切羽詰まったと見えますね」
「さすがに今年の異常気象による水不足は、我が協会の力をもってしてさえ難しいみたいね」と、高城は頬に手をあて、窓の外のうだる街なみに眼をやった。五十にも届こうかとしている顔には疲労の影がさし、日照り不足は彼女の男運のなさにも当てはまるようだ。「七月に入り、連日の猛暑。和歌山をふくめ近畿地方では、ひと月半も降雨を記録していないとは……。有田市のみかん農家も悲鳴をあげているとのことよ。あたしん家の実家もしかり」高城の実家は芦屋の繁華街でスーパーを経営していた。野菜の値段の高騰に頭を悩ませているのだろう。
「それで協会の全勢力をあげて、苦しんでいる人の助けになるべきだとおっしゃりたいわけですか。いつから社会貢献に芽生えたんです」私は資料を返し、うしろのソファーセットのかたわらにあるポトスにミニ・ジョーロで水をやりながら言った。「協会はあくまでしゃれの一環じゃないですか。そこまで真剣にならなくったって。いくら例年にない異常気象だからって、遅かれ早かれ雨は降ります。明けない夜はない」
「協会も使えないわね」
「結局のところ、雨男・雨女の定義も、マーフィーの法則でしょ。洗車しはじめると雨が降るという人がいる。それって、洗車してすぐ雨に降られた過去の記憶を引きずってるのが原因だとか。じっさいは洗車しても降らない場合が多いにもかかわらず、降られたときの印象が強すぎたんで声を大にして連呼してしまう。――その程度のもんです。ここに所属させていただき、こんなこと言うのも、失礼かもしれませんが」
「こらこら……」
「スバリ、自然を相手に、人間がどうこうできるって発想が傲慢すぎるってことです」
「だったら放っておいても、いずれ降るにせよ」と、高城はメンソールのタバコを吹かし、紫煙ごしに心ここにあらずの顔で私をにらんだ。「話、もとにもどすけど、この資料は、田辺市にいる会員の一人がおもしろいネタになると言って報告してくれてね。それが雨神島の雨乞い神事ってわけ。この力を借りられるものなら借りたいのよ。マーフィーの法則だろうとなかろうと。神事がみごと成功すれば、ちょっとしたスクープになると思わない?」
「どれ、拝見」高城は別の資料を突き出したので、ざっと目をとおした。「ふむ、雨神島ね。なんともいわくありげな島の名前だ」
「雨神島って語感の響きがいいじゃない。しかも島で秘密裏におこなわれていた雨乞い秘儀の歴史がある……。これは協会の趣旨に関係なく、ソソられるネタだわ」
「たしかに好奇心はソソられますが」と、私はあご髭をかきながら言った。「ときに好奇心は猫をも殺しますよ」
「これは天啓よ。ぜひとも我が協会が神事を調査し、雨が降るか否か、見届けられたら言うことないんだけど」と、高城は椅子の背もたれに身体をあずけ、両手を組んで言った。「……だけど、事情があって、長らく神事をおこなっていないようなの。とりあえず代々神事を執り仕切ってきた家の所在はわかってるんだけどね。それが夢藤 甚吾郎氏ってわけ」
「天啓ね」と、私はあきれ口調で言った。「こんどで何度目のことやら」
「何度目でもいいから、樫山クンはJRの来週土曜の指定席二人分確保しておくこと。あたしは夢藤甚吾郎氏にアポとっておくから」
「……わかりましたよ。ものはためしで、行ってみますか」
2
田辺市でもみなべ町寄りの軽尾地区の手前には『桑の鼻』と呼ばれる岬が太平洋にせり出しており、その沖合三〇〇メートルのところに問題の雨神島という無人島が浮かんでいるのだ。
なにやら意味ありげな島名である。それに関連して、島には雨神神社が設けられ、祭神は多伎都比古命と龍神を祀っているという。
多伎都比古命とは、『出雲国風土記』楯縫郡に、阿遅須枳高日子根の后、天御梶日女命が多具の村を訪れ、多伎都比古命を出産した。そのとき胎児の御子に、「おまえの父上のように元気に泣きなさい。生きてゆこうと思えばこそ、ここがちょうどいいところなのです」と、言ったという。
また多伎都比古命の御霊代である石碑は、日照り続きで雨乞いをしたときは必ず雨を降らせたといい、『瀧』に通じるとされている。つまりこの祭神は雨乞いの神さまだということになる。どちらが先か判然としないが、島名もそれにならったにちがいあるまい。
かつて雨神島は『雨乞い神事をおこなう島』として信仰を集め、島全体もご神体としてあがめられてきた。島の頂上には特定の人間をのぞいて、何人たりとも近づくことも、見てもならないというため池があった。日照りが続くときには、軽尾地区の『夢藤筋』と呼ばれる家の当主が、ひとり参拝するのが習わしだった。
当主は裃袴姿で正装し、手にした柄杓で池の水をくみあげて祈れば、たちまち雨が降ったと言われている。
伝承によると神聖なる池を荒らしたせいで、そこを住処とする龍神が怒り、かわりに雨を降らすというのだが、その降り方たるや烈火のごとくで、へたをすれば水害に発展しかねないほどの降雨に見舞われたこともあり、神事をやるにせよ最後の切り札としておこなわれるのが通例だったという。
もっともその雨乞い神事も、明治十六(一八八三)年まで不定期に続けられていたが、近年、軽尾地区周辺にも水道施設の設備がととのうと同時に田畑が激減したのも手伝い、多少の日照りが続いたとしても、その必要性がなくなったとの理由から、長らくおこなわれなくなっていた。島に渡ること自体が完全にとだえ、その歴史さえ顧みられなくなった。以来、雨神島はなんとなく近寄りがたい島として、地元では遠巻きに畏怖されるだけの僻地にすぎなかった。
今回の取材にあたり、かつておこなわれていた雨神島での神事の概要を教えてもらうだけで充分であったにもかかわらず――あわよくば島に渡り、ため池の写真でも撮影できれば御の字だった。最悪、島の周囲だけでも収めることができれば、ぐらいに思っていた――、現在の夢藤家の本家筋にあたる夢藤甚吾郎氏が、明治十六年以来の神事を再現したいとの熱烈な申し出があったことは、いささか驚きであり、うれしい誤算でもあった。まさか実演までしてくれるとは、願ってもない記事ネタになり得る。
もちろん夢藤氏は人生初挑戦。
ためしに神事をやってくれないかと冗談半分水を向けると、氏は快くうなずき、父親から受け継いで、長年押入れの長櫃の底で眠っていた古文書を引っ張り出してきて、
「これを片手に、カンニングしながらの実演でよろしければ」と、顔をほころばせた。古文書の表紙は達筆で、『夢藤家家伝 雨神島之事』と記されている。黄ばんで虫食いがひどく、古書の薫りがした。「ぜひとも私めに、神事の進行役をやらせてほしい。ある意味、こうなることを待ち望んできたのです。つまり、あなたがたのような部外者の方々が背中を押してくれるのをね。そうでもなければ重い腰をあげて、わざわざ渡島したりしませんから」
「いやはや、神事をやってくれるとは願ってもないことです。田辺市まで足を運んだ甲斐がありました」と、私は言った。夢藤氏の立派な邸宅の和室内は、高城が遠慮なく吸うタバコの煙でかすみ、障子戸からさしこむ西日を受けて、物憂い光に満たされていた。私は手で煙をふり払いながら続けた。
「こんなこと言うと怒られるかもしれませんが、雨乞いについて、現代ではナンセンスというか、非科学的なおこないに抵抗がないと? たとえば『尾張世紀』に見られる尾張藩の初代藩主、徳川義直から最後の藩主であった義宣たちがまとめた資料によりますと、慶長五(一六〇〇)年から明治三(一八七〇)年のあいだ、当時の村民は一村で雨が降らないと、周囲の村が合同で祈願したとか、一度の祈願で成功しないと、何度も願掛けしたとのことです。ですが、空梅雨傾向の気象であっても、まるっきり降らないわけじゃないでしょ。雨乞いを連日続けているうちに、雨量が充分じゃないにせよ、降るときは降ったはずです。それが祈願が成功したと決めつけているようでは、いささか無知蒙昧すぎるような気がしてならないのですが」
「ちょっと、樫山クン、協会の存在意義を根底から覆すような発言じゃない。聞き捨てならない」と、となりの高城が仏頂面で言い、ひじで小突いてきた。
「いえ、私のスタンスを明らかにしたまでですよ。なにごとも懐疑的でないと」
「あなたたちは全国屈指の雨男・雨女だとおっしゃる」と、夢藤氏はさえぎるように言った。「ですが、我が家に訪問するも、それも疑わしいですな。本日も晴天なり」
「入る穴があったら入りたいですわ」と、高城は悪いわけでもないのに、頭をさげた。「とにかく、日時は明日しかありませんが、ご都合のほどはよろしいのですか?」
「けっこうですよ。なにせ、七十六の年金生活者です。たいていは家で暇をもてあましている。……じつのところ」夢藤氏はテーブルの湯呑をとり、口を湿した。沈黙が落ち、逆光と紫煙のなかで、氏の澄んだ眼が私たちを射抜いた。「親父は神事をやったことがなかった。そんなのは迷信だと切り捨て、古文書を燃やしてしまう寸前、私がとめたほどでしてね。それで一回飛ばしたすえ、私にお鉢がまわってきたわけです。口づてで祖父から神事における所作を教わっていたが、いかんせんそれも遠い昔。まえまえからじっさいに挑戦したいと思っとったんです。私は近代の雨乞い祈願について、さほど偏見は抱いておりません。ましてや雨神島における雨乞い神事はいかがわしいものではなく、むしろ夢藤家の誇るべき伝統だと思っとります。夢藤家本家筋がいかに天候をあやつれる血筋であるか証明したい。その特殊性はなにに活かせるものか、純粋に知りたかったのです。動機はそれでいいじゃないですか」と、夢藤氏はいくぶん禿げあがった頭を恐縮するようにさすった。「なんにせよ、よくぞきっかけを作ってくださったと、礼を言うべきは私の方です」
「それはどうも」と、高城は面食らった様子で言った。「資料によりますと、神事をやり遂げると大雨になりかねず、かえって水害を招くので後年、神事は廃れていったと聞きました。仮に……仮にですよ。ほんとうに大災害にならないか、ちょっぴり心配するんですが」
「よくご存知で。その資料とやらは田辺市立図書館かどこかで見つけられたのですかな。で、そんなことを懸念されるとは期待度、大というわけですな」
「神事は近代化の波がこのへん一帯を押し寄せるとともに、田畑も少なくなり、その必要もなくなったとのことですが、もしやほかにもやめになった理由があるのでは?」と、私は言った。
「と、おっしゃいますと」
「和歌山は年間雨量が少なくない土地柄じゃありませんか。是が非でも神事をおこなわなければならないほど追いつめられたケースはごく稀だったのでは? 過去に神事をおこなう必要があったにせよ、ごくかぎられた年の、ごくごくかぎられた月に効果を発揮したかもしれない。よほど地元の人々が非科学的だとバッサリ切り捨てないかぎり、廃れずに細々と続いていたとしてもおかしくなかったような気もします。それが急に顧みなくなったとは腑に落ちないと思いませんか。なにか致命的な理由があったのではないかと、私は思うんです」
「……おっしゃるとおり、絶体絶命になるのは、ほんのかぎられた年だけでしたでしょうな」と、夢藤氏は鷹揚たる口ぶりで言い、座りなおした。「それが禁忌の神事と言われる所以でしてな。よろしいですとも、全貌を包みかくさず公開しようじゃありませんか。とにかく明日を楽しみにしていてください。そのためには、いささか荒っぽい下準備が必要ですが」
そのとき、和室の障子戸がカラリと開き、孫娘とおぼしい少女が入ってきた。おしゃまにウェーブをかけた髪で、くりくりした眼が愛らしい。頬っぺたをふくらませ、
「おじいちゃん、明日、海につれていってくれる約束じゃなかったの?」
夢藤氏の相好はたちまちくずれた。
「あれれ、そうだったかな。いや、そうかもしれんな。そんな約束をしたような気もする」節くれだった手で、プリンでも持ちあげるように少女をだっこして膝にのせた。「すまん、この埋めあわせは来週の日曜にするからな。きっとだから。今日のところは勘弁してくれ」
「もー!」少女は唇を尖らせた。「忘れっぽい人ねえ。せっかくパパがシャチの浮き輪、買ってくれたのに」
「ごめんな。先約があったとは、おじさんたちも知らなかったんだ。そんなにおじいちゃんを責めないでくれ」
「かわいいですね。髪の毛、シャラーンとパーマかけちゃって。このおませさん」と、高城。「まさか海へ行く予定があったなんて存じませんでした。なんでしたら、日をあらためますが」
夢藤氏は笑顔で手で制し、
「いや、私の方が決めてしまったからには、いまさら日を延ばしたくない。善は急げ、ですよ。……お名前とお年をお客さんに教えてあげなさい」
「真凛。五歳。好きな食べ物はハッシュドポテト。それとメダカ」と、少女は小さな紅葉を広げた。
「はい、メダカ?」
「メダカの飼育が、目下の趣味だそうです」夢藤氏が継いだ。「それはそうと、仮に」と、あらたまった声で言った。「仮に、ほんとうに雨が降り、ましてや降りやまぬほどの規模になってしまった場合、とめる方法もないわけじゃありません。降らす方法が禁忌のやり方なら、とめ方も然り」
「それは初耳ですね」
「だったら心配ありませんね。では、明日の十時にお迎えにあがります。こんなこと言うのは語弊があるかもしれませんが、いい日和であることを期待してますわ」
3
本日にかぎり、夢藤家でも分家にあたる夢藤 一八が神事における雑務係を買って出てくれた。
一八は元ラガーマンではないかと思わせるほど筋骨たくましい身体つきをしており、実直を絵にかいたような、無愛想で、いっさい無駄口を叩かない五十がらみの男だった。つねに眉間にしわを寄せ、難しいことを考えているような深刻な顔をして、ギロリとした眼つきが特徴的だった。
一八は渡船の操舵室で舵をあやつり、軽尾港から雨神島までわずか五分とかからぬ船旅の船頭をつとめた。聞けば、近海漁業の仕事に従事しているとのこと。
雨神島は周囲七キロメートル、中心に向かってゆるやかな丘がふくれあがり、しだいにこんもりと、標高一〇〇メートル前後の山が盛りあがっていた。角のとれた富士山をそのまま海に沈めたような左右対称の美しいシルエットだった。しかしながらまったく緑が見当たらず、月面みたいに荒涼としていた。地元の人が近寄りたがらないのもむべなるかなと思った。
あいにく海に面したところは、どこも切り立った崖で囲まれ、おまけに青い海面を透かせば、ギザギザの暗礁がいたるところに待ち伏せており、うかつに近づけない。唯一、島の西側にコンクリで作られた波止場にすべりこみ、どうにか接岸することができた。
「さて、まいりましょうか。私が先頭に立ちましょう」船首で缶コーヒーを口にしていた夢藤甚吾郎氏は、乱れた髪の毛を撫でつけると、いの一番に島におり立った。すでに軽尾港から出発するまえより紺色の裃と袴姿へと着替えていたせいで、夢藤宅で会話していたときよりも十歳若返ったような気合の入った顔つきをしており、背筋まで鉄筋でも飲みこんだみたいにしゃんとしていた。裃には『右一つ藤巴』というかわった家紋が入っていた。
「私は正直、いま緊張しております。同時に興奮もしている。はたして古文書どおり、うまく神事をやり遂げられるかをね」
「夢藤さんなら、きっと降らせてくれますよ。なんていうか、ここまで来ると、ますます予感がしちゃうかも。ね」高城は気圧されたように言い、私に同意をもとめた。
「せっかく和歌山まで来たんだ。観光どころじゃない奇蹟を見せてくれるにちがいありませんよ」と、私も背中を押すしかなかった。
「だといいのですが。プレッシャーを感じますなあ」夢藤氏は青空を見あげて言った。今年の猛暑はいささか人類に対する罰ともいえるような苛烈ぶりだ。「それはそうと、一八、例のものを忘れるなよ。あれがないと恥をかくことになりかねない」と、一八に目顔で合図し、自身は小さなリュックサックを背負うと、さっさと島の沿岸を勝手知ったる土地のように、すたすたと歩きだした。
一八は操舵室の片隅の、背負子に固定された浅黄色の風呂敷に包まれた長方形の荷物をうやうやしく持ちあげた。そして背負子ごと背負い、あとに続こうとした。
「それはなんです。神事に必要不可欠な品物なんですか? よろしければなにか教えていただきませんか」
「ピクニックの弁当でも入ってると思うかね。パラソルは見当たらない」一八はぶっきらぼうに言い捨て、「じきにわかるさ。いまはよけいな詮索はすべきではない。さっさと甚吾郎さんについていかないと、じきに臭っちまう」と、苦い薬でも飲みこんだ子供みたいに顔をしかめた。
それもそのはず、風呂敷の包みからは、かすかな異臭がした。布に包まれた箱状の物体は果樹園で使われるコンテナなみの大きさで、なんだか骨壺を丁重に覆ってあるようにも思えた。獣臭く、饐えたような鉄の臭いがした。背負子をかついだまま一八は波止場をおり、えっちらおっちらと遠ざかる甚吾郎氏を追った。
「いやな予感がするな。ただごとじゃないような胸騒ぎがしてきたぞ」私はカメラを首にぶらさげて言った。スニーカーの紐をきつく縛った。「あのなかには、好ましくないものが入ってると見ていいんじゃないか?」
「だとしても、ばっちりカメラに収めて、可能なかぎり、記事にしちゃいましょう。これは面白くなってきた。『雨人の旅』が刊行して以来の特ダネになりそうな気がするわね」高城は暢気にストレッチをし、ブランドの手提げカバンを小脇にかかえてスタンバイした。
こうして私と高城は夢藤二人組に続き、雨神島の砂利を踏んだ。
あいかわらず空は晴れ渡っている。スマートフォンのリアルタイムで雲の位置がわかるアプリを開いても、現時点でこの空域にみじんのそれが発生していないことが確認できた。我々、全国雨男・雨女協会の代表も焼きがまわったようだ。けだるい暑さが下界を炙り、人々を家屋のなかに釘付けにしていた。
風はぬるく大気をかきまぜるだけで、潮もベタ凪で眠気をさそい、はるか沖合を見渡しても平和そのものだ。
我々四人が目指すは、その山頂だ。
ほとんど樹木は生えておらず、なぐさみ程度に這松がしがみつくように点在しているだけ。足もとは満足に整地されていなく、いまは亡き先人が硬い岩肌を削ってどうにかそれらしくした、つづら折りの細い道をぐねぐねと進んだ。
中腹あたりでワジ(涸れあがった河川の跡地)らしき溝にかわり、それに沿って登ること二十分ばかり。ようやく頂に達したのだった。
富士山の火口がすり鉢状に窪んでいるように、雨神島の山頂も円形に落ちこみ、これもほぼ円形のため池が広がっているのが見えた。水際までせまれるようだ。池の東側――つまり、つづら折りの道をあがってきた側に対し、真正面――は、切り立った絶壁となっているので、そちらからおりるのは危険すぎた。それどころか、絶壁のなかほどにはテラス状に張り出した庇があり、いつのころに設置したのか定かでない、朱色の鳥居が備えつけられており、なにか土足で冒すのは憚られる佇まいであった。
ちょうど我々が立ち尽くしている火口の縁から、すぐ足もとにはワジがえぐれ、巨人の動脈みたいな荒々しい蛇行がため池まで続いていた。四人は一列になって、断崖の鳥居を見ながらくだっていった。
「あれが何人たりとも近づくことも、見てもならない神聖な池ですか……。壮観な眺めだ。明治十六年以来、人間の眼にふれていなかったわけか」私は肩で息をしいしい言った。「池は純粋に雨水がたまったものなんで?」
「これだけ狭い、岩だらけの島ですから、湧き水ということは考えにくいでしょうな。当然のことながら、生物も住んじゃいますまい」
「いやはや、愚問でしたね」
「水深はいかほど?」と、高城は夢藤氏の背中に問うた。
「おそらく最深部で五メートルほどではないかと。たしか古文書に、そんな記述があったような気もします」
「だいじなのは」めずらしく一八が口を開いた。背負子の荷物は重荷なのか、汗が滂沱としたたっており、拭おうともしない。「夢藤の本家筋がこのため池で神事をするようになったのも、もとをただせば、ご先祖がここでふしぎな体験をしたのがはじまりだそうです。それが伝説となり、後世に伝えられたというわけです。池が天然のものだろうが、深かろうが浅かろうが、そんなことはどうだっていいわけで」
「なかなか興味深い話」高城が明るい声で言い、「樫山クン、ここからのアングルで数枚押さえといて」と、指示したので、カメラをかまえ、ファインダーごしに池の全体像を捉え、矢継ぎ早シャッターを切った。
「ため池に関する伝説があるとはノーマークでした。よろしければその話を聞かせてくれませんか。ぜひとも記事にしたいですね」と、私は言った。
山の斜面をくだりかけた夢藤氏は足をとめ、私たちをふり返ると、一八に、「よけいなことを漏らして」とでも言いたげな非難がましい眼で見やったあと、私たちに向きなおった。
「……いかにも。この池こそ雨神島の神秘を語るうえにおいて、肝心要の話でしょうな。もっとも、この伝説は同時に、夢藤筋がいかにして興ったか、恥辱ともいえる発祥の話でもあるのです。できれば、この話は割愛していただきたいのが本音なのですが……」
「恥辱ですか……。そこをなんとか、通りいっぺん聞かせていただきたい。記事にするしないは、そのあと判断しますので」
「ぜひご教示ください」と、私たちはお願いした。
夢藤甚吾郎氏は足をとめたまま、渋る様子でいたが、のどから絞り出すように、「よろしいですとも。どうせ雨乞い神事の成り立ちを聞かれるのではないかと思ってましたので、この話は避けることはできないでしょうからな。でしたら、池までおりながら語りましょう」
夢藤氏はいくぶん硬い面持ちで語りはじめた。時ならぬ突風が吹き、氏の袴の裾がハタハタと音をたててひるがえり、頭の輪郭が一瞬、きらりと輝きを放った。
彼は歩きながら次のようなことを語った。最初こそしぶしぶの口調だったが、興が乗ると、彼の語りは迫真性にみなぎるものとなった。
4
いつのころまで遡ればいいやら……およそ二七十年前、江戸中期のころである。
まだ雨神島が、名もなき無人島であった時代のこと。
熊野灘の沖で大坂行きの客を乗せた船が暗礁をかすめてしまい、あえなく破船した。そのとき、六部である夢藤匠右衛門は板切れにつかまったまま三日のあいだ漂流し、命からがらその無人島に流れ着いた。
内地までは手をのばせば届く距離にあったが、猛烈な飢えと渇きで泳ぎきる自信がなく、とにかく小休止して弾みをつけてから渡るのが得策と考えた。
とはいえ、なにか口にできるものはないかと島をさまよい歩いたが、めぼしい食糧は見当たらず、わき水とて露一滴すら得られない不毛さだった。
匠右衛門が島の高地をめざしている途中、山の稜線上でなにやら騒がしい場面に出くわした。
見れば、毛羽立った三羽のサギが、逃げまどう蛇をついばんだり、足蹴にしたりしていたぶっていた。
黒い蛇はのた打ち、翻弄されて白い腹を見せ、息も絶え絶えのようだ。蛇にしてはやけに尖った鱗をもち、いかつい面構えをしていた。いささか異様すぎる蛇だった。
匠右衛門は期するものがあり、これは見て見ぬふりはできぬと思った。
自身が乗った船が大破し、はからずも一人だけ命拾いしたのは、この人間界で生死の与奪を司る神仏のご加護があったためだと思った。
とすれば、そのお返しとして善行を重ね、徳を積まねばなるまい。
石を投げつけて三羽のサギを追い払い、蛇を助けてやった。
が、しょせん蛇は蛇。命の恩人をふり返ることもなく、山の稜線の向こうへ姿を消した。どうにか一命をとりとめたようであった。
とはいえ匠右衛門は空腹であることを再確認すると、いっそのこと、あの蛇を捕えて胃袋におさめるべきだったとほぞを噛むのであった。
気をとりなおして、山を登りきった。窪地のため池を見つけ、歓声をあげると、勇んで池にかけおりた。
どうにかため池までたどり着いたものの、やはり当時から生物の類はいるはずもなく、水中をのぞいてもやつれた顔を水鏡に映すだけだった。ドロリと淀んだ水であったが、なんとかこれだけは紛失をまぬがれた鉄鍋で水をくみ、這松の枯れ枝で火をおこし、煮沸したあと、のどをうるおした。
人心地がついたあと、視線を感じ、ふいに池の対岸にある切り立った崖を見た。
きのこの傘のような庇があり、その上にほっそりした人が腰かけているのを見つけた。
どうやらそれは絣の着物をまとい、長い黒髪と白い細面の若い娘であることがわかった。
無人島と思っていたら人を発見することができたので喜ぶべきなのだが、場ちがいな状況であるがため、警戒せずにはいられなかった。
すると女は腰かけたまま、艶然と手招きしはじめたではないか。
つい匠右衛門は魅入られ、ふらふらと池に足を踏み入れてしまった。
ところが三間(五.四メートル)と進まぬうちに、水深は急に深みに落ちこみ、汚泥に足を取られたので、おかげで女の魔性じみた魅力から、いっとき我に返ることができた。匠右衛門は気をとりなおして陸にもどった。
女の顔は神経質そうで、目鼻立ちは凛然たる武士を思わせるととのいぶりだが、どこか人間離れした酷薄さを感じさせないでもない。
匠右衛門と眼があうや、唇の両端をつりあげて遊女のような淫蕩な笑みを見せた。やけにすきっ歯であることに気づいた。
そして女はやおら両脚をもちあげ、なんと庇のうえで開脚みせた。とたんに白い脚が丸見えになっただけでなく、暗い股のつけ根までがあらわになった。
匠右衛門は年甲斐もなく、その淫靡な眺めに思わずのめりこんでしまった。
女も見てくれといわんばかりに、立膝にして股を開いた。その悩ましい股間には本来あるべき仄暗い翳りはなく、驚くべきことに金色の、眼もくらまんばかりの光が燦然と輝きはじめたではないか。まるで菩薩の後光のごとく……。
発光源の正体がなんであるか意味がわからず、匠右衛門はひたいに手をかざし、ためつすがめつ女の股ぐらをのぞいた。
すると、股間にはひし形の金の延べ棒のようなものが埋めこまれているのがわかった。
匠右衛門は劣情よりも、とっさに金に眼がくらんだ。財宝は股のあいだに咥えこんでいるだけではあるまい。ほかにもかくしているはずだ。
これ見よがしに股を開いてみせるとは、この女、奇矯にして、あまりに挑発的すぎる。
とすれば、女を締めあげてでも財宝のかくし場所を聞き出すべきだ。そのまえに、まずはあの股ぐらから金の延べ棒を一本あやかりたい。
いてもたってもいられなくなった彼は、庇の方に進みたいのだが、どうあがいても池を渡るのは難しい。
そこで池の中心部を渡るのは避け、迂回して対岸にまわりこもうとした。うかうかしていると、女に逃げられてしまう恐れがある。
「おい、女。そこを動くでないぞ。ちと、主に相談がある」と、制したが、まるで貪欲な心を見透かしたかのように、女はけたたましく笑いながら立ちあがった。
「なんて浅ましい男じゃ。生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされているというのに、この期におよんで黄金に目がくらむとは」
「女、主は何者ぞ。まさか財宝を守る魔性の精かなにかか?」
「魔性とは、聞き捨てならぬ」と、女は気性の激しそうな口調で言い返した。着物の乱れをさっとなおし、斜にかまえた。「妾をつかまえといて、魔性呼ばわりとはなにごとか。さっき助けてくれたときは善人ぶっておったくせに。相手しだいでこうも豹変しようとはのう」
匠右衛門は女が逃げ去らないように、用心しながら池の外周からまわりこみ、近づいた。
「助けた。主を?」
「この島に四〇〇年いながらにして、性悪のサギどもにあやうく殺されかける大失態をやらかしてしまったが、妾とて池から離れて用事に行くこともある」
「まさか、さっきの蛇か? とすれば蛇の精か」
「蛇じゃあない。れっきとした龍の化身じゃ。失礼千万」と、女はすきっ歯をのぞかせて高慢ちきに言った。
「龍」匠右衛門は眼をまるくし、絶句した。「無礼をゆるしてくれ。まさか主の正体が龍だとは夢にも思わなんだ。……そうだ、主が龍としてこの島にいる事情を聞かせてくれないか。じつに興味がわく話だからの」
「おーお、さっきまでは妾の守る黄金に眼をつける欲深なところを見せていたのに、趣旨がえとはどういう魂胆。……まあよい、どうせ退屈しておったところじゃ。つもる話もある。ちょいとばかり昔話でもしてやるかのう」
そう言って、女は島のため池に住み着いた経緯を語りはじめた。
一六十年前、安政の大地震に見舞われ、本土の龍神神社が被災した。長らく住処を失われていた祭神である龍は、地元の民草がなかなか新しい社を建立してくれないことを見限り、蛇に姿をかえ、安住の地をもとめて海を渡り、はるばる島までやってきた。
おあつらえ向きに山頂のため池を見つけると、そこに居つき、現在にいたるのだが、しょせんは無人島の地。社すらないところへ参拝しにやってくる奇特な者もいるはずもなく、暇をもてあましていたという。
各地を放浪する六部は、ときとして莫大な財産を築くことがあった。
なんらかのご加護の働きかけ、あるいは何者かとの契約を結んで。これは絶好機にちがいないと、匠右衛門はにらんだ。
「主が龍の精であることは相わかった。先の無礼、かさねて謝る。ほれ、このとおりだ」と、匠右衛門はコメツキバッタのように何度も月代の乱れた頭をさげ、「浅ましいのは、これ、もともとの性分。できれば、もうちと主の股ぐらに挟みこんだ金を拝ませてくれぬか。じつに奇異に映るのでの。願わくはほんの一部だけでもめぐんでくれたら、一生崇め奉るのだが。見たところ、この池には主を祭神として祀る社がないようだ。わしがぶじ、本土へもどれたあかつきには、資金を投じて立派な住処を建ててみせようではないか」
「殊勝なことを」龍女はしなやかな身体をそらせて呵々大笑し、
「お利口にしていたら、黄金をわけてやらぬわけでもない。妾とて誰かに必要とされて額づかれ、願掛けされる方が張り合いがあるからの」
「なるほど、お利口にか。矜持をかなぐり捨てて相たのむ。主をだいじに祀ると約束する。だからまずは分けまえを」
「詭弁を弄してからに。だいじに祀ってくれるか、はなはだ怪しいわ」
いまや匠右衛門は池をまわりこみ、絶壁の庇の真上まで来ていた。ひざまずき、龍女を見おろした。庇までの高さは二間(三.六メートル)強。
一か八か賭けて、ためらいもせず女めがけて飛び降りた。さしもの龍女も意表をつかれたため退くこともできず、頭から抱きすくめ、そのまま馬乗りになった。
「どうだ。これならば、さすがの龍の化身も反撃できまい。おとなしくせい」
「……この仕打ち、妾に恥をかかせて、生きて帰れると思うてか。よくもだましおったな」組み伏せられた龍女は、眼を真っ赤にし、鮫の歯のような糸切り歯をむいてうなった。
「平安時代、菅公が雷神となり、京の都に雷を降らして政敵に祟りをなしているとき、かつての領土である桑畑には雷を落とすことはなかったそうじゃのう。それが転じ、災いを避けるまじないが『くわばらくわばら』だとか。まさに、それじゃな」匠右衛門は膝で龍女の股を割った。着物の裾がはだけて、脚があらわになった。すかさず股ぐらに手を突っこんだ。「ついにわしにも僥倖がめぐってきたようじゃ。夢藤家は長らく衰退の憂き目を見てきたが、おまえが咥えこむ黄金とその力さえあれば、一気に浮上できるやもしれぬ。どうだ、我が家の守り神にならんか? 龍神――主が正真正銘のそれであり、格がすぐれているのならの話だが――を守り神につければ怖いものなしじゃ」と、六部は力まかせに龍女の股から金を引っこ抜いてしまった。
黄金の延べ棒はてらてらと体液で光り、しかしたしかな重みと荒々しい鋳塊の感触があり、まがい物とはとうてい思えない。
「みごとな輝きぶりじゃ。主はなぜこれを股にねじこんでいた? 財宝はこれだけではあるまい。一個だけとは言わず、もっとわしに分けてくれ」汗だくの顔面で、女の顔に噛みつかんばかりに近づけた。
「いやと言ったら?」
「さもないと、くびり殺すことになろう。龍の化身とはいえ、この体勢から変化できまい? できるなら、とっくの昔にしているはずだからの。それゆえ、いまが殺す好機」
「たしかに妾は、龍神の眷属でも端女に相違ないが、神殺しは罪が重いぞ。それでもやるかえ?」
「おおとも、やらいでか。これは夢藤家の命運を賭けた一世一代のかけひき。やると言ったらやる! よして欲しくば、わしに従え」
龍女は歯ぎしりしながら顔をゆがめ、
「……わかった。妾の負けじゃ。変化ができぬいま、娘子の姿のままで、おまえに相対したのがそもそもの失策。妾とて死にとうない」
その言葉どおり、女の抵抗がやんだ。匠右衛門はかけひきに勝ったのだ。にんまりと相好をくずし、手にした黄金を突きつけた。
「殊勝な心がけとは、こちらのせりふよ。どうだ、まずはほかの財宝の在り処を教えろ」
「口惜しや、口惜しや」と、龍女は辱めが耐え難いのか、切れ長の眼から大粒の涙をあふれさせ、「ええい、出してやるわ。出すとも。そのまえに、おのれはいつまでのしかかっているつもりじゃ。早くどけい」と、顔をくしゃくしゃにしながら言うので、思わず体重をかけるのをやめ、立ちあがった。
「逃げ出すのだけはよせよ」
龍女も立ちあがると、やおら着物の裾をまくり、がに股になった。
「よくも恥をかかせおって。金輪際、人間どもの言うことは信用せん。それより向こう、向かんか」と、吐き捨てた。匠右衛門は呆気にとられ、そっぽを向く気にはなれなかった。
すぐに龍女がいきむような声をしぼり出した。
陰部が見る見る開き、まばゆい金が出てきた。驚くべきことに、まるで卵でも産むように、黄金の延べ棒が排出されたではないか。
金は地面に落ち、ゴテッと重々しい音をたてた。落ちるたびに陰部からは次の金がもっこりと、装填される形で押し出てくる。肉襞が盛りあがり、淫靡さをとおり越して醜怪なながめともいえた。つぎつぎと金を産み落とし、すでに落とされたそれとぶつかって鈍い音をたて、そのうち黄金の小山となった。荒々しい、どれも不揃いの鋳塊だった。その間、龍女はウミガメみたいに涙をポロポロと流し続けた。
「もう出ぬ。在庫は尽きた……」しばらくすると、女は黄金を産みきったのか、がに股のまま虚脱したような表情を見せ、力なく言った。
匠右衛門は這いつくばって金をかき集めた。
「これだけあれば」眼を爛々と輝かせ、あさましく両腕にかき抱き、ふところに入れようとするものの、入りきるものではない。瘧にかかったように背中をふるわせて笑った。「わしも念願の富豪。主は逃がさぬ。さっきも言ったように、わしの家の守り神となれ。いや、なってくれ。いましがたまで狼藉をはたらいてしまったが、守り神となってくれたあかつきには丁重にあつかう。だから、いいだろ? な、な、な?」
「……そればかりはできぬ相談じゃ。妾はこの池から離れては生きてゆけぬ身。池から離れれば離れるほど、力は発揮できぬのじゃ。さっきも見たじゃろう、山でサギごときに殺されかけたところを。ましてや島から出れば、妾はまったくの無力となり、それはそれで不甲斐なくていやじゃ。そんな生き恥はさらしとうない」
匠右衛門は山犬みたいにうなった。
「しょせんは井のなかの蛙か。使えん奴め。しかたあるまい、主をつれていけぬなら、かわりの方法がないか模索してくれ。主の力をもってして、わしを援助するのだ。なにかいい知恵はあるまいか」
「この強欲めが」と、龍女は泣きはらした顔で苦々しげに言った。「……ならば、雨乞いの秘儀をさずけてやる。それでゆるせ」
「雨乞いとな」
「ため池のまえで祝詞を唱え、池の水をくみあげるがよい。内地の民草が旱魃で困ったとき、雨を降らせてやろう」
「まんざら悪くない案だ。旱魃が多い季節は重宝するかもな。それを商売にすれば、ひと儲けできるうえ、夢藤家の株もあがろうというもの。――もちろん、効き目は絶大だろうな?」
「まずは池の水をくみあげ、祈るがよい。それでも降らぬなら、贄を投げこめ。池を汚し、妾の怒りを呼びおこすのじゃ。さすれば、必ずや豪雨をもたらそう」
「必ずもたらすのだぞ。誓えよ、龍」
「相承知した。情けなや、おまえのような卑劣な人間に」
「おまえじゃない。今日からご主人さまだ」
「……ご主人さまに従います」
このようにして、匠右衛門は龍を手なずけたわけである。
5
私は右の掌をかざして空を見あげた。依然、冴えわたる青が頭上に広がり、微風すらそよとも吹かず、ときを刻むのも忘れたかのような、どこか非現実的とも思える眺めだった。知らないうちにレースのカーテンのような淡い雲が沖の方にかかっていたが、島の真上に到達するには数時間を要するだろう。
耳鳴りがするほどの静寂がたちこめていた。鳥の鳴き声さえない。池を取り囲むようにした山頂の窪地は、それほど日常生活圏から逸脱した場所に思えた。
「……とまあ、これが夢藤家が興ったとされる発祥の伝説でしてな。同時に、さしもの龍神を手玉にとるというあるまじき悪行をもってして、財をなした恥辱の歴史でもあるわけです。それは否定しようがありますまい」夢藤甚吾郎氏は言い、いささか話疲れた様子で肩をたたき、深くため息をついた。
そのころには我々はため池の縁まで着いていた。池の水は着色したかのような緑色で、暗い静けさをたたえ、波紋のひとつとて揺らぎがない。
「龍神を力づくで守り神にしてしまうとは、なんとも業の深いことをなさったものね」と、高城は腕組みしたまま言った。軽蔑の口ぶりはかくせない。
「夢藤家四代目、匠右衛門が池での体験後、黄金を持ち帰り――もちろん、掛け値なしの本物だったのでしょう――、莫大な富でもってのしあがったそうです。のちに匠右衛門は島にもどり、感謝の意味をこめて、ああして鳥居を建て、慰み程度の祠を設けたらしいのですが、肝心の祠は次世代の者が雨乞い神事をした際、効果てきめんの降雨をもたらしたらしく流されてしまったようで、いまは見る影もありません。私としては今回神事をやり、雨乞いがうまくいったら酷使した龍女に対する罪滅ぼしの意味で、せめて祠だけでも再建したいと思っとるんです」
「なるほど、夢藤さんが話すのをためらわれるのも無理もない」と、私は言った。「ですが、伝説はしょせん伝説にすぎないのでは? 叱責されるのを覚悟して言わせてもらいますが、家系の優秀性と、神秘を高めるために捏造された絵空事ではないのですか? まさか龍の化身などと額面どおりに捉えるおつもりですか」
「つまりメタファーね。龍女や、つぎつぎと黄金を産んだことについては、なんらかの隠喩かもしれないと」高城があごに手をそえて、鋭い眼差しで言った。
「隠喩であるにせよ、夢藤家の復興は、この島でのできごとをきっかけにはじまった。家伝が伝えること、これ真理」と、一八はゆずらない。「伝説の裏にかくされた真実があったとしても、闇のなかだ。いまさら掘り返せない」
「たしかに、隠喩が絡んでいるでしょうな」夢藤氏はあっさりと認めた。「誰かと、なんらかの契約を結んだのでしょう。それがなんであったかは知る由もありませんが。ストレートに家伝に伝えるとなると、よほど都合が悪かったのかもしれません。だからこうして歪められた」
「都合が悪いストーリーね。龍女を手なずけた話だけでも、充分バツが悪いというのに」と、高城が臆面もなく言うと、かたわらの一八が片方の眉を吊りあげ、なにか反論しようとしたが、イモムシみたいな唇がわなわなと震えただけだった。
「いずれにせよ」夢藤氏は向こう岸の断崖を見ながら言った。「我が先祖はこの事件を抜きにして語れないというわけです。匠右衛門は龍をシンボリックとする女と出会い、そして富を得た。夢藤本家筋は雨神島と、このため池とは運命共同体。それはゆるぎない。そして私はいま一度、ため池に挑戦し、家系の特殊性を再確認しようとしている。はたして雨がほんとうに降るのかと」
私は夢藤氏のまえに進み出た。
「よろしいですとも。私たちはこの伝説の信憑性について、とやかく推論すべきじゃない。まえを見ましょう」と、笑顔で言った。「では、池まで着いたことだし、さっそく神事をはじめようじゃありませんか。その結果、匠右衛門さんが正真正銘、龍女を手なずけたかどうか、明らかになるでしょう」
「楽しみにしてますよ。ひとつ、どえらいどしゃ降りを降らしてやろうじゃないの」と、にっこり微笑んだ高城が合いの手を入れた。
「それじゃあ、支度をしますので、しばしお待ちを」夢藤氏は言うと、リュックサックから風呂敷にくるんだ古文書と、柄杓を取り出した。
「高天原に坐し坐して、天と地に御働きを現し給う龍王は、大宇宙根元の、御祖の御使いにして、一切を産み一切を育て、萬物を御支配あらせ給う」
古文書のなかほどの頁を丹念に黙読すること五分。しきりに夢藤氏はうなずき、口のなかでもごもご復唱していた。事前に入念に練習してきたと見え、いざ神事の本番に入ると、祝詞はなめらかに唇から発せられた。
「呼べ飛べ龍王よ、水たんもれ水神よ……」と、腹の底からしぼり出した朗々たる声で言い、柄杓で池の水をすくいあげては岸にとばした。単調な動作のくり返し。りりしい裃袴姿の夢藤氏の額に汗が光る。
一八は背中の背負子をおろして無表情で見守り、私は黙々とカメラのシャッターを切り続け、本来ライターであるはずの私の領分である筆記を、高城がボイスレコーダーでおさめている。
夢藤氏が柄杓での動作をくり返すこと二十分ばかり。いつの間にか淡い紗のかかったような翳りが上空に現れたのはたまたまだろうと気にしなかったが、さらに五分がすぎると、濃い灰色の面積はアメーバが増殖するように広がったのだから、驚かずにはいられない。
「まさか、こうまで効き目があるとは」と、高城はポカンと口を開けたまま、空を見あげた。「これって、担がれてるわけじゃないわよね……」
かたわらの一八はさえぎり、「神事はこれで終わりではない」と言って、夢藤氏が背負ってきたリュックサックからピンク色の塩化ビニールらしき品物を取り出した。
ていねいに折りたたまれたそれを広げてみると、マンガチックなシャチの浮き輪であることがわかった。
一八は携帯用のエアポンプを使って、むっつりとした顔で足を踏み踏みし、空気を送りこみはじめた。シャチがゆっくり膨らんでいくあいだ、夢藤氏の祝詞は続けられ、この円形の窪地のなかでうつろに反響した。
「……ことわりや日の本なれば照りもせめ、さりとてはまた天が下かは」と、言ったかと思うと、「ちはやぶる神も見まさば、立ち騒ぎ、天の戸川の、樋口あけたべ」と、韻を踏んだ調子で続けた。なんのことやらさっぱりだ。
空はますます曇天の様相を呈し、いつ泣き出してもふしぎではなくなった。
……おいおい、ちょっと待て。今朝と、島に渡る道中はたしかに、ほぼ雲ひとつない紺碧の空だったかもしれない。だが、島に着いてから山頂をめざして歩いている最中、おまえはずっと空の変化に気を配っていたか? 日ごろの運動不足で息をあがらせていたせいで、観察がおろそかになっていたのではないか? すでにそのころから、淡いながら雨雲が発生しつつあったのでは? 夢藤氏が祝詞を唱えてから直後にこうなったとは決めつけるのは時期尚早だ。たんに偶発的な自然現象ではあるまいか?
ふいに夢藤氏は神事を中断した。かれこれ三十分近く祝詞を唱え、柄杓で池の水をくんでは捨てる所作をしていたことになる。汗をぬぐうと、彼は着物を脱ぎはじめた。下はふんどししかつけていなかった。さすがの高城も眼をまるくした。
夢藤氏の裸体は浅黒く、筋張っているが引きしまり、人生の荒波をかき渡ってきたようなふてぶてしさが背中の筋骨に表れていた。これからなにをはじめるつもりなのか?
一八はすでに浮き輪を完成させていた。その場ちがいなピンク色のシャチを夢藤氏にあずけた。いたずらっ気な眼と夢藤家の二人は釣り合わない。
「さて、本来ならば祝詞と、柄杓による所作だけで降雨は見こめたと思っとったんですが、当てがはずれた。こうなったら奥の手を使います。こんなこともあろうかと、ちゃんと準備しておいて正解でした」
「奥の手とは?」
「あの崖の取っかかりが見えるでしょ」と、向こう岸の崖の庇を指さした。古ぼけた鳥居が飄然と立っており、いまにも龍女がしゃなりしゃなりと、現れそうな気がした。「いまからあそこまで泳いで渡ります。そしてダメを押す」
「……はあ。よくわからないですが、見守ることにしましょ」
「一八、例のものを用意」
「ただいま」と、一八は背負子にくくりつけてあった長方形の荷物を解きにかかった。風呂敷を取り払うと、桐の箱が現れた。箱のフタを開けると、たちまち異臭がたちこめた。一八は両腕を突っこんだ。なかからつかみ出してきたのは……なんと、ひと抱えもある牛の生首だった。
首の付け根から鋭利な刃物で切断された黒い和牛で、一対の角が上向きに突き出している。耳がダランとしなびて垂れており、だらしなく口があいて、半透明のよだれがあごに付着していた。断末魔のひどさを感じさせず、安らかに閉じられていたまぶたが、せめてもの救いだった。箱から出すと、鮮やかな血が凝固しており、粘っこく糸をひいた。
一八は腰に巻いていた荒縄を夢藤氏に渡した。夢藤氏は慣れた手つきで荒縄の両端を牛の角に巻きつけて固定し、突き出た鼻の部分を縛って、だらしなくあいた口を閉じさせた。つぎに牛の首を背負子にのせて、くくりつけた。一八はそれを、しゃがんだ夢藤氏の背中に背負わせた。相当な重量になるはずだ。
夢藤氏は裂帛の気合を放って立ちあがった。背負子の牛の首は座面にどっかと座ったままで、まるで不吉な入れ墨のようだ。私はシャッターを切っていいのか判断に苦しみ、しばらく茫然と立ち尽くしていた。
夢藤氏は私たちをふり返り、「本来ならば、牛の首を抱えたまま、あの取っかかりまで泳ぐのが慣例らしいのですが、私はとんと泳ぎが苦手でしてね。自分で言うのもなんだが、こんな気味の悪いため池ならなおさらだ。孫娘から勝手に借りてきた浮き輪を使わせていただきます。異論はありますまい」
「牛の首は、やはり生贄という意味合いなのですか?」
「でしょうな。あるいは、こう見えて神聖なため池です。不浄な遺骸で汚す、という解釈もできるかもしれない」
「なるほど、これこそ、禁忌の神事と呼ばれた所以だったわけね。昔は大目に見てもらえたかもしれないけど、現代でこれをやると野蛮だと謗られかねないわ」と、高城が感心したように言った。
「ではまいります」と、夢藤氏は目礼して私たちに背を向けると、おずおずと池に足を踏み入れた。背負子の牛の首は眠ったような顔をしている。水底のヘドロに足を取られつつも、水かさが胸まで達すると、シャチの胴体部分につかまってビート板がわりとし――さすがにまたがることは重量的に無理だろう――、足をバタバタしはじめた。
もどかしいほどゆっくりとだが、確実に真向かいの絶壁に向けて進んだ。やたらと足を蹴りあげ、やたらと濁った水をかき混ぜるので、彼がカナヅチであるのもうなずけた。
6
ますます頭上はどんよりと曇り、暗く翳った。濃密な湿り気が濡れた毛布みたいに全身を包みこむのが感じられた。もはや紺碧の領土は劇的なまでに塗りつぶされてしまった。これではいつ降りだしてもおかしくない。
となりの高城は神聖なため池のまえだというのに、遠慮なくタバコの封を切り、工業地帯の煙突よろしく吹かしている。一八はなにか言いたげだったが、頬にグリグリを膨らませてむっつりと黙っていた。私は無心になってカメラのシャッターを切った。
夢藤氏は絶壁に達すると、孫のシャチをのり捨て、四メートルほど真上の庇に向けて、ほぼ垂直の壁をよじ登りはじめた。思いのほか岩が隆起していて、亀裂も入っているせいか背負子の牛の生首を背負った状態ながら、ロッククライマーそこのけにしっかりした懸垂で身体をうえにあげていく。
「あぶなっかしくないか。あのまま池に落ちたら水面にあがれない恐れがある」と、私はファインダーごしに言った。
「甚吾郎さんは定年まえまでは林業ひとすじでしたのでね。高いところは平気なようです」と、一八が言った。「もっとも、後年は社長として事務所で座ってばかりいましたがね」
「どうりで引きしまった身体つきをしてるわけだ。だったら、心配しなくてもいいか」
夢藤氏は庇のすぐ真下まで到達すると、さすがにオーバーハングをぶらさがって乗り越えるのは至難の業らしく、横へまわりこみ、どうにか楽なところを選ぶと、テラスのうえによじ登ることができた。
息を切らせて、ようよう立ちあがることができたようだ。こぶしを振りあげて合図を送ってくる。私たちはそれに応えた。
落ちつくと、夢藤氏は肩から背負子の縄をはずし、地面におろした。荒縄で厳重に固定された牛の首を解いていくのが見える。
「ところで、あの牛の生首の意味を、生贄説だとすれば」と、一八が私たちに言った。「なぜ牛である必要があるのか、わかるかね?」
私は彼の方に向き、あご髭を撫でながら、「さすがに人間を捧げるのは人道的に躊躇するからでしょ。そのかわりとなるものが牛だったわけじゃ? 牛でも倫理的にいかがなものかと思うけどね。こんなことが世間に知れたら、動物愛護団体が黙っちゃいない」
「聞いたことがある」と、高城は腕組みしたまま言った。「昔は、雨乞いをするときに神への贄として、馬を殺して捧げたらしいわ。古事記のなかにも、須佐之男命が馬の皮を剥いで天照大神のいる機織り小屋に投げ入れたシーンがあるけど、これもなにかの暗示のはず。それが時代を経るにつれて、動物を生贄として殺すのは野蛮という見方になり、生きた動物のかわりに像や絵を神社に納めるようにしたとか」
「それで神社の絵馬か。なるほど」と、私は眼をほそめ、納得した。
「なぜ、牛や馬が生贄に選ばれたかというと」と、一八は得たり顔で言った。「農耕民族にとって、牛馬はもっとも貴重で大切な労働力だったからだ。そんな大切なものをあえて殺し、身を切られるような思いをしてまで神に捧げるからこそ、ときには神の怒りをやわらげ、ときには神のご加護を得られることができると信じた。農民たちにとって、雨は生活や命の存続につながる。対等価値をもとめるなら、それ相応の痛手を被らないと見返りは得られないと思ったそうだ」
私は未練たっぷりにうなり、「これはカットせざるを得ないネタだな」と、言った。
対岸の庇のうえで、ふんどし一丁の夢藤氏は牛の一対の角を両手でつかみ、力をこめて胸の高さまで持ちあげたところだった。三日月みたいな口が裂けたのが見てとれた。乾いた高笑いが窪地にこだました。
「雨よ!」と、夢藤氏は奇怪な笑顔で顔面をくしゃくしゃにし、虚空に向かって叫んだ。「雨よ、降らしたもう! 雨よ、降らしたもうなれ! 池の主、龍神よ、おおいに怒るがいい! 我こそは天に唾する者ぞ! こらしめたくば、雨をもたらし、とっくりと我が一族を呪うがいい! 我が一族、夢藤を豪雨で溺れさせてみんかい!」
このあとも、夢藤氏の聞くにたえない罵詈雑言が続いた。合間合間に、天をあざ笑う哄笑をはさみ――。
なんという神事の奥義であろう。空は深海生物のような黒雲のうねりがますます密度をまし、からみあってのたうち、大気にたっぷりぬめり気が帯びるほどになった。
いまふり返れば、あのとき、私たちは雨神島での神事は再現させるべきではなかったと痛感する。禁忌と呼ばれ、夢藤家以外に畏怖された秘儀は、しかるべき理由があって封印されてきたのだ。それが平成の世になろうが、いささかも毒抜きされることはなかった。私たちは興味本位で墓所を掘り返してしまったのだ。墓あばきには、それ相応のしっぺ返しが待ち受けている。
突然のことだった。夢藤氏が牛の首をかかげたまま、口汚く天を罵った直後、恐るべきどしゃ降りがきた。轟然とうなりをあげて下界を蹴立て、その瀑布のごとき降り方たるや、むき出しの皮膚に当たるとマシンガンの銃弾でも浴びたような威力であった。
たちまちあたりは灰色でくすんで視界ゼロとなり、対岸の庇で佇む夢藤氏の姿はかき消された。彼の安否を気づかうどころの話ではなくなった。
私たち自身が雨でめった打ちにされ、おたがいの位置を失い、あまつさえすり鉢状になった場所であるがため、斜面から土砂が流れてきて池のなかに引きずりこまれかねないのだ。自分のことだけで精一杯だった……。一八が夢藤氏に向かってなにやら叫んでいるが、その野太い声とて届きはしまい。
「高城!」と、私は頭をカバーしながら彼女の耳もとで叫んだ。「このままだと命の危険にかかわるぞ。池から離れよう!」
激烈な雨のさなか、悲鳴に近い高城の返事があった。カバンを頭上にかざしているが、まるで傘がわりになっていない。
「……とんでもないことになったんじゃない? なによ、この雨、ふつうじゃない!」
「ここから抜け出すぞ。グズグズしてたら助からん。夢藤さんは自力で逃げてもらうしかない!」
「あの人が死んだら、私たちの責任だわ! そうなると協会も解散!」
死ぬかもしれない――それは私も直感がはたらいた。それほど殺す気まんまんの降り方なのだ。
「いまは自分たちの身を守るのが先だ」と、視界ゼロのなかから一八が急に現れて言った。腹から叫ばないと、なにを言っているのかわからない。「急いでここから脱出しないと!」
「どうするの、この雨。ゲリラ豪雨ってレベルじゃないわ。ほんとうにやまなかったら大事よ。どうにかとめるべきじゃないの!」
「……そういや」私はハタと思い出した。昨日の夢藤邸の和室で氏が言った言葉を。「降らす方法もあれば、とめる方法もあるって言ってたな!」
一八が思いつめた表情でうなった。「止雨の祈願か……。やるしかない。夢藤分家であるおれに権限はないが、しのごの言ってられん。じゃないと、たいへんなことになる!」
「とにかく、山の稜線まで退避しよう。こうも土砂がひどいとラチが明かない」
「そうだな。いったんあがろう」
私たちは這うような恰好で泥んこまみれになりながら、やっとのことで窪地から脱出することができた。ため池を見おろせば、いまだ視界は開けぬほどの篠突く雨がさえぎり、もはや夢藤氏の姿は探しようがない。大量の土砂が斜面をすべり落ち、池の水かさは急激に増していることだろう。もはや手のほどこしようがない。
依然、雨はおとろえを知らない。
ワジに沿って、私たちは山をおりることにした。
一八は止雨の祈願をすると言い張ったが、こんな状況では実行できるものでもあるまい。私と高城はそう諭して、なかば巨体の彼を引きずる形で斜面をおりてしばらくしたころだった。
その判断がもうひとりの夢藤家の命を奪うことになろうとは誰が予測しただろう。そもそも自然を相手に、興味本位で禁忌の神事を復活させるという傲慢な態度で臨んでいたのだ。審判がくだされようとしていた。
山の中腹あたりまでさしかかったことだった。狭いワジのなかを避難退路としていることが無知であり愚策であった。ワジとは干上がった川のこと。したがって集中豪雨が長引くものなら、川が復活するに決まっているのだ。
山の上方で岩と岩とがきしみあう、いやな喘鳴が聞こえたと思ったら、ひときわ甲高い断末魔の咆哮を合図に、文字どおり堰を切ったかのような事態になった。――土砂崩れ。
はじめ山稜のあたり見えたのは真っ黒な巨大な手かと思った。
それが破裂した形でのたうち、大音響をたてて蛇行し、獲物に追いすがる長い爬虫類のようにすべり落ちてきた。
「いかん、土石流だ!」と、私はうしろをふり返って叫んだ。「道からはずれろ。脇へそれるんだ!」
「えいクソッ!」一八は悪態をつき、縦列で真んなかを走っていた高城の腰を抱きあげ、ワジから外へ突き飛ばした。高城はぶざまに尻もちをついた。「あんたも、さっさと逃げろ!」と、私に向かって叫んだ。
黒々とした長物のような濁流がすさまじい勢いでせまってきた。岩石をもまる飲みし、鎌首をもたげ、怒れるごとく土石流の先端が踊りくる。それはあたかも黒龍が具現化したような姿だった……。
すんでのところで私はワジから転がり出て、黒い濁流に飲みこまれるのをまぬがれた。対岸の高城も紙一重で逃れられたらしく、茫然自失の体で土石流の行く先を見守っている。ただ、一八だけが声すらあげる暇もなく、龍の鎌首のえじきとなった。
土石流の第一波を回避できたからといって安心してばかりもいられない。ワジ以外の平地にも表層雪崩のような土砂が押し寄せており、けっして難を逃れたわけではないのだ。
私は高城に向かって叫んだ。「土石流に注意して、なるたけ溝は避けてやりすごせ! 高台を探すんだ!」
「どこよ、安全な高台って!」
「知るかよ、自分で探せ! そして我慢するんだ。雨がやむのを願うしかない!」
「……わかったわ、樫山クンもお達者で。あとで必ず会いましょう!」
「こらえろよ。やまない雨なんてあるもんか!」
「なんだか人生哲学みたいね!」
私たちはそれぞれ斜面がコブになっているところを探し、かじりつく思いで這いあがった。うずくまり、雨がやむように祈るしかなかった。
まさにこの現代にいながらプリミティヴな無垢の祈り。いまの私にできるのはそれが精一杯だった。
豪雨はあと半時間続き、島の斜面を小規模な土石流が断続的に起こるも、しだいに小雨になっていった。
黒い雨雲が西の方角へ流され、雲間を割って、陽光がそそぐようになるころになると、極限状況から脱したせいか、うつらうつらと船をこぐほどだった。
やがて雨は霧雨にとってかわり、恥ずかしげに太陽が姿を見せると、それも完全にとだえた。しばらくもすれば、地面から水蒸気が立ちのぼり、蒸し風呂のような様相を呈した。
私は全身濡れそぼったまま高城の名を叫んだ。いつの間にか首にさげていたカメラを紛失していたが、惜しいとも思わなかった。
高城はワジの対岸の、はるか向こうの巨石のうえで座禅でもするかのように座っていた。すぐ手をふり、「はーい、樫山クン。どうやらおたがい無事だったみたいね」
「再会を喜んでる暇はないぞ。二人をさがさないと」
私たちは話し合い、私はため池へ夢藤氏をさがすべく、高城は島の裾へ行かせ、一八の行方を追わせた。しかしながらいくら捜索しても、二人の遺体の衣服の断片とて発見することができなかった。
こうなってしまったからには、見よう見まねで船を操縦して本土へ帰り、捜索隊を派遣するしかない。
雨神島から去り際、船のなかで高城はため息をつき、「まさか、こんな結果になるなんて」と、言ったものだ。「あの突然のゲリラ豪雨は、ほんとうに神事のせいかしら? 牛の首を捧げることによって拍車をかけた? それとも私たち雨男・雨女の力も相乗効果がはたらいたとしたら……」
「やめろよ」私は舵をまわしながら、うんざりした口調で言った。「今日かぎりで雨男・雨女協会なんて廃業だ。バカげてる」
「廃業か。しかたないわね。……あの騒動で、樫山クンはカメラ、私もせっかくの証拠品だったボイスレコーダーもなくしちゃったし、世間に是非を問うのもむずかしくなったことだしね」
「夢藤さんには悪いが、人間さまが気象をあやつるなんて虫がよすぎたんだ。彼は先祖にかわり、裁きを受けた」
「これから親族に知らせに行くのは気が重いわね」彼女はよせばいいのに、胸ポケットから濡れたタバコを出し、難儀しながら火をつけた。「一八さんは雨をとめる方法を知ってたみたいだけど、なにか手を打ってくれたのかしら?」
「どんなに降っても、雨は遅かれ早かれいずれやむさ。やまないなんてない」
「請雨と止雨、ね」
「いずれにせよ」私は遠ざかる雨神島の島影を尻目につぶやいた。「雨をとめるには、夢藤分家の一八が命をさしだすしかなかった。彼はそれを知っていたんだろうな」
了
★★★あとがき★★★
画像掲示板『明和水産』のオカルト板『怖い島・いわくつきの村・総合』http://bbs50.meiwasuisan.com/kaiki/1303097760/『続・怖い島・いわくつきの村』http://bbs50.meiwasuisan.com/kaiki/1381658275/において、長文タレ流したのは僕の仕業です。
作中の雨神島はもちろん創作ながら、じつはモデルとなった島があります。島にある池でおこなわれる雨乞いの神事もしかり。それが島根県の隠岐諸島、島前にある無人島、星神島。星神島に関しては、前作『怖い島~』の>>424で言及しております。ついでだからコピペしておきましょう。
雨乞いの神事が行われた島 星神島
島根県の日本海側沖には隠岐諸島が点在しており、島前に属する無人島が星神島である。
ホシノカミシマと読む。なにやら意味ありげな島名だ。それに関連してか、かつて島には星神神社が設けられ、祭神は鹿賀瀬雄命が祀られていたのだ。
鹿賀瀬雄命とは、香香背男ともいわれ、日本神話に登場する天津甕星のこと。つまり星の神様だ。島名もそれに倣ったにちがいあるまい。
もっとも、星神神社は明治39年12月に原内相のもとで出された通達『神社合祀』で比奈麻治比売神社に統合され、これを機に島の星神神社は幕を下ろしたという。
それとは別に、星神島は『雨乞いの島』として信仰を集め、島全体を御神体として崇めているのだ。
島の頂上には何人たりとも見てはいけないという小さな池があり、日照りが続くときには、宇賀地区の『宮前』なる家の当主が1人参詣するのが慣わしだった。
当主は羽織、袴姿で正装し、手にした柄杓で池の水をくみ上げて祈れば、明くる日には必ず雨が降ったそうだ。
言い伝えでは、竜が天に昇るのにこの池の水がないと困るので、代わりに雨を降らせるのだという。
雨乞いの神事は実際に昭和の中ごろまで行われていた。
当時を知る人の談によると、男は船に乗って島の近くまで行って船上から祈願し、女は済(星神島の南にある西ノ島の西北端)にある比奈麻治比売命神社跡(星神神社はここから移設した)へ行き、そこから祈った。この神様に祈願すると、遅くても2、3日後には必ず雨が降ったらしい。
雨乞いは地区だけでなく、物井地区では集落の上の山頂へ行き、星神島が見渡せる場所から願かけした。その周辺を『雨乞い山』と呼んだ。
雨を降らせる池と星神(これは悪神だという)の取り合わせ。なんだか近寄りがたい島である。
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ため池に牛の生首を贄として捧げるというネタは、駒込林三(破天荒な民俗学者、中山太郎のペンネーム)の報告書『動物を犠牲にする土俗』の3章『雨乞と犠牲』と題されたエピソードから引用しました。思いきって、これも抜粋しちゃおう。
攝津國川邊郡地方では、雨乞の折には、白に黑の斑ある馬を瀧の在るところに牽いて行き、祈願の後に馬の首を斬り落として瀧壺へ入れ、後を見ずして馳せ歸へると降雨があると信じ、此の殘酷なる咒術が明治十六年まで寛行された(雑誌青年十卷七號)。
紀州田邊町の近在富田村庄川に瀑布がある、小さいけれども凄いところである。懸崖の下に棚岩があり其の前に淵がある。旱魃のときには近村の農民が集り牛の首を截り、特志の農夫に持たせ(米一俵を謝禮するのが例である)、此の淵を泳ぎ渡り、彼の棚岩の上へ牛首を供へて歸る。さうすると必ず大雨が降る。
或年の如きはこれを寛行し餘りの豪雨で却って農民が迷惑したことがある。それ故に雨乞をしても愈々最後と云ふときでなければ行はぬ。昔は實物の牛の首を截つたのであるが、近年では牛の價が高くなつたので張子で拵へえて間に合せることになつた(南方熊楠氏談) 。
備後國雙三郡八幡村の矢淵ノ瀧の藤蔓に、血の滴たる仔牛の生首が二つぶら下つてゐるのを村民が發見し、大騒ぎして引下ろしたが其の夜から同村地方には大雨が降つた。故老の言に此の瀧に人目につかぬやう牛の生首を釣ると雨があると傳へてゐるので、誰か雨乞したのであろうとのことであつた(大正十三年九月都新聞)。
岩代國南會津郡大戸村の雨乞は、猿丸太夫の故跡と云ふ上の沼へ牛の頭を投げ込むのだと云ふ(同年七月東京朝日新聞)。そして此の牛馬の首を投ずるのが簡略化されると、その骨を用ひるやうになるのであるが、阿波國の首きり馬の説話や、各地に夥しき迄に残ってゐる駒繋松の由來なども、此の土俗の説話化けされたものに外ならぬのである。
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要は、星神島と駒込林三の報告書をミックスさせ、でっちあげたというわけでして。
夢藤匠右衛門と龍女のエピソードは完全な想像力の産物ですが。
※参考文献
『生贄と人柱の民俗学』礫川全次 歴史民俗学資料叢書
『―宇の雨乞い踊り―その歴史と伝承』高橋晋一 阿波学会紀要 第57号(P157~163)
『近世知多地方の雨乞い』 日本福祉大学子ども発達学部助教 松下孜