光と影
月の光を浴びて、夜の宮殿は白く美しいたたずまいだった。砂漠の中にぽつりと浮かび、静謐な輝きを放っている。目的の場所は、宮殿の奥にあった。
砂漠の王国の第十八王女、サラサの住まう宮殿である。小さいながらも外壁には宝石が埋め込まれ、白磁の壁に無数の彩りを与えている。壁の一部を削り取って持ち帰るだけで、ひと財産になるのだ。
もちろん、盗賊に対する備えは厳重である。警邏巡回する兵は隙なく周囲を見回り、怪しい者は決して見逃しはしない。魔法の灯りで照らされた宮殿の周囲には、隠れる場所など存在していなかった。
男が潜入を果たしたのは、空からでも地中からでもない。どちらにも、網目状に張り巡らされた不可視の結界がある。男は、白昼堂々、病人として宮殿に運び込まれていた。
サラサ王女には、王族のつとめ以外に成している事業があった。病人や怪我人の治療である。幼い頃に神仙より授かったと言われる医学書をもって、人々を不治の病魔や再起不能の怪我から救っているのだ。
男の持つ秘術の中に、仮死状態となるものがあった。自己催眠により、己の肉体を仮の死に追いやる。術の解除に失敗すればほんとうに死んでしまう、難度の高い秘術だった。
男は己の命を、何とも思っていない。だから、危険な秘術も軽い心構えで用いることができた。そして殺戮を愉しみ、偸盗をよくする、外道ともいえる人間だった。
ふっと腹に力を入れると、男の身体がばねのように起き上がった。男が目覚めた場所は、宮殿内の遺体安置所である。周囲には王女の看護の甲斐なく、死んでいった者たちの骸があった。男はまったく無感動に、それらを跨ぎ越えながら安置所の出口へ向かう。衣擦れや足音の一切を、男は発することはない。するすると夜の闇の中を、男は進んでいく。
外の警備は厳重だったが、内部には兵士がいない。男は容易に、宮殿の最奥にたどり着いた。部屋の仕切りは扉ではなく、絹一枚があるのみだ。中から漏れる灯りと、苦しそうに呻く老人の声、そして王女の声が聞こえてくる。
「しっかりして。苦しいだろうけど、薬が効いているのよ」
「うぅ……サラサ様、面目ねえ……」
「悪い部分は切り取ったから、もう大丈夫。助かるのよ」
会話を聞きながら、男は絹の仕切りをくぐった。気配を完全に消して、ゆっくりと王女へ近づいていく。簡素な寝台に横たえられた老人の側で、白い衣装を着た少女。王女サラサだ。室内の灯りに照らされて、金色の長い髪が光り輝くようにみえる。華奢な身体つきだが、腰には女性らしい丸みと柔らかさがある。じりじりと近づくうち、男は息苦しさを感じた。
足運びが、乱れた。ゆらり、と視界が揺れる。頭の中に己の心臓が脈動する音が激しく響いている。男の顔から、汗が流れた。身体は小刻みに震え、立っていることすら難しい。
「ば、かな……」
驚愕に目を見開いたまま、男は転倒した。どさり、と物音がして、王女が男を振り向く。男が絶対の自信をもって用いた秘術は、いまや完全に破られていた。
「大変! すごい熱だわ……」
駆け寄ってきた王女が、男の額に手を当てる。ひんやりとした、小さな手だった。
身体の自由が、効かなくなっている。指一本すら動かすことができない。男にとってこんなことは、初めてだった。
王女の手が伸びてきて、男の衣服をはだけさせた。心臓のあたりに、細い指が触れる。
「黒まだら……よりによって、こんな場所に」
王女の声は、どこか遠くで聞こえるようだった。全身が燃えるように熱く、同時に寒くもあった。身体の中で、何か理不尽なものが暴れている。意識だけは、強くもがいていた。力が入らず、それはわずかに指を痙攣させる程度の動きにしかならない。
「大丈夫。怖がらないで。あなたは、死んだりしない」
耳元で、王女の声が聞こえた。男の脳裏に、すっと冷めたものが流れる。死を恐れるわけではない。己の秘術が、絶対の自信が打ち壊されたことに恐怖しているのだ。理解した時、男は恐怖を捨てた。
口に、薬のようなものが流れ込んでくる。ほどなく、全身に痺れが訪れた。
「少し、痛いけれども、我慢して」
胸のあたりに、冷たいものが触れた。鋭く研ぎ澄まされたそれは、男が幾多の人間に用いて命を奪ってきた、刃物の感覚だ。
「俺を、殺すのかね」
舌にも痺れはあったが、男は喋ることができた。
「この薬を飲んで喋れるなんて、驚きね。痛みは、どう?」
驚きと口にするわりには、王女の口調は平坦だった。
「ほとんどない。胸の中央が、スースーする」
「黒まだらの切除をしているのよ」
「黒まだら?」
会話のあいだにも、男の胸で刃が動いている。自分の肉体が切り刻まれる感覚は、痺れのせいか遥か彼方のものに感じられた。
「三か月前に、ここで流行った病気。あなた、外から来たのね。この国の人には、みんな予防の薬を飲ませてあるもの」
「そうだ。俺は、東のほうにある、遠い国から来た」
男は、笑みを浮かべようとした。だが、痺れのせいか、うまくいかない。
「交易? それとも、物見遊山?」
「お前を殺し、お前が神仙より授かったとされる書物を奪いにきた」
男は、あえて使命の内容を口にした。ここで殺されるならば、それも良し。男は、自分の命を弄び、愉しんでいた。
「物騒な話ね。あ、ちくっとするから」
なんでもない声で、王女は言った。ちくちくと、胸のあたりでかすかな痛みがあった。
「俺を殺さなくていいのか?」
「暗殺には、慣れてるのよ。まあ、死んじゃったら困るから、それなりの対策はしてるけれど」
身体の中に、糸が入ってくる。どうやら、胸の皮膚を縫い合わされているらしかった。
「書物が欲しいなら、あげるわ。別に、神仙から授かったとか、そんな物じゃないんだけど。あ、いちおう、思い出の品なんだから、大事にしてよね」
「至宝を手放すのが、惜しくはないのか」
「だから、そんなのじゃないんだってば。それに、内容はもう全部覚えちゃったし……はい、処置完了」
包帯を巻かれ、男はそのまま寝転がされた。
「命は、もっと大事にしなさい。自分のも、他人のも」
男は苦笑する。痺れは、ようやくましになってきたようだ。
「俺に言うことかね。お前を暗殺しにきた、俺に」
「もう、本気であたしの命を狙ってなんかないでしょ。しばらくは安静が必要なんだから、おとなしくしてなさい」
男は笑みを浮かべたまま、眠りについた。胸のあたりに鈍い痛みはあったが、すぐに慣れてしまった。
翌日、目を覚ました男は王女に言った。
「……弟子に、してほしい?」
王女の驚く顔が、男の目の前にあった。
「ああ。あんたの側で、医術を学ばせてほしい」
「どういう風の吹き回し?」
訝しげに、王女が問いかける。可憐な、年齢相応の表情だ。
「俺の使命には、期限が無い。だからいつまでにお前を殺さなきゃならん、ということはないんだ」
「そう。それで?」
「お前は興味深い。暗殺で死ぬにはもったいないくらいにな」
「あたし、いちおう王女なんだけど? 側に仕えるにしても……」
「十八番目の、だろう。その気になりゃ、もぐりこめる」
王女は黙って、男の目を見つめてきた。男も黙って、王女の瞳に映る自分を見返す。
「……本気、なの?」
「本気だ。俺を弟子にすれば、いいこともある」
「どんな?」
「暗殺から、守ってやる。奴らの手口は、ようく知ってるからな」
少し考えてから、王女はうなずいた。
「いいわ。あたしの側で、医術を学びなさい。助手が欲しいって、思っていたところだから。それと」
王女は指を一本立てて、男に言った。
「あたしのことは、お前、じゃなくて先生と呼びなさい。あなた、名前は?」
「ゲンリュウだ。よろしくな、先生」
王女の差し出した手を、男は強く握り返した。
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