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「あ、ありさんだ」
幸奈はそう言って握っていた僕の手をぱっと解きその場に屈み込んだ。そして彼女はさっと地面に手を添えた。見ると、小さな手のひらの上を黒い蟻が走り回っていた。
縦横無尽に走る蟻を落とさぬように、右手から左手、左手から右手へと橋渡しをするように蟻の動きを手の上で幸奈は転がし続ける。
「ほら、まさくんも橋の準備」
そう言って幸奈は両手を僕の方に差し出した。言われるがままに僕は両手でつくった橋を準備した。幸奈の手を伝ってきた蟻は僕の手の上でとことことせわしなく足を動かした。僕はぼーっと蟻の動きを眺めていた。
――何をそんなに慌ててるんだろう。
ふとそんな事を思った。こんなにもずっといっぱい足を動かして疲れたりしないのかだろうか。
――止まれ。
なんとなく、そんな事を念じてみた。
効くわけなんかない呪文。
――と、ま、れ。
そう思っていた。
蟻の動きが、少し緩やかになった気がした。最初は気のせいだと思った。だがしばらく見ているとだんだんと、しかし確実に蟻の速度は落ちていった。
そしてやがて、蟻はその動きをぴたりと止めた。
――効いた?
そんな、馬鹿な。
「あれ?」
幸奈も不思議そうに手の中の蟻を覗き込んだ。
彼女の小さく短い指が、蟻の体をそっとつついた。そこで僕は自分が間違っていた事に気付いた。
効いたんじゃない。
効きすぎたのだと。
「死んじゃったの?」
手の上の蟻が再び動きだす事は、二度となかった。