03 グリレ1
閉じられている瞼の上に朝日が差し込んできて、意識がゆっくりと覚醒して行く。寝ぼけ眼をゆっくりと開けると、侍女のメリーが窓の傍に立っているのを見つけた。
今日は誕生日か。――これで6歳になった。
窓から見える空は雲ひとつなく快晴で、いい日になりそうな予感を感じさせる。
本当に、いい日になればいいと願う。
メリーは開け広げた窓に添え木をはめてこちらへ振り向いた。そうして私が眼を覚ましたことに気がついたようだ。
「おはようございます。グリレお嬢様。」
「おはよう。メリー。」
眠気を振り払うように枕に顔を埋めてこすり付ける。
はあ、起きよう。
もそもそとベッドから這い出て、大きく背伸びを一度する。胸に吸い込んだ息を吐き出し、両手を水平に挙げる。
そうすると私の傍まで寄って待っていたメリーが私の寝巻を脱がしにかかる。私を下着姿に剥いて、メリーは既に近くへ準備していた水の張った洗面器から浸してあったタオルを掬い上げ、軽く絞って私の顔を洗っていく。顔が終わればあとは腕、体、足へと順に寝汗を拭き取っていく。
寝汗を拭き終えると、水差しからコップへ水を注いで、それを私の口元へ付けてきた。うがいを促され、注がれている水を啜る。もにゅもにゅと、口の中で水を少しもてあそび、ぺっと足元にある捨て桶へ吐く。2,3度繰り返せば口内がスッキリした。
メリーはてきぱきと私に服を着せていく。白のタイツを履かされ、空色のワンピースを頭からかぶって着る。少しブカッとしているが、腰に釣り下がっている厚めのひもを、背中へ引っ張りウェストを縛るように結べば上半身部分はピッタリ、スカート部分はふわりと仕上がる。いつもの標準的な服装だ。また少し背が伸びたようで、スカートの丈が短く感じられる。
「仕上がりました。」
つい、ありがとう、と言いそうになるのをこらえる。日本の小市民であった頃とは想像もつかない生活。着せ替え人形宜しくメイドに服を着せてもらうのはわりとすぐに慣れたけど、何かしてもらうたびに口に出してきた感謝の言葉を飲み込むのにはいまだに慣れない。
彼女にとってこれは仕事であり、親愛からくる奉仕の行動ではない。そして貴族である私は、市民と隔絶された身分の差を示すためにそれを断ることは許されない。
あるいは「御苦労さま」と声をかけるべきなのだろうか。しかし6歳の少女がその言葉を発している絵図を想像すると、いささか違和感を覚えてしまう。
結局、良い言葉を思いつかず無言のまま部屋を後にする。そしてその後ろをメリーは見送った。そんないつもの光景だった。
ビレ・エレアオーレ家。国名を冠する家名を持つことを許された、副王の家系である。エレアオーレ王国の初代国王、フィアンマ・エレアオーレの弟、ジェラ・エレアオーレを始祖に持つ。
凄腕の冒険者として名を馳せたエレアオーレ兄弟の仲は大変良く、建国にあたって一つの決めごとをした。兄フィアンマが国王になり、弟ジェラが副王となる。また、その地位は世襲とし、直系の家系を優先させるもの、王位・副王位の継承順位を相互に持つ、と言うものである。
現当主はダジネ・ビレ・エレアオーレ、齢43歳。外務大臣を兼任し、各国に名を知らしめている。
その第2子にして長女、グリレ・ビレ・エレアオーレ。齢6歳。王位継承順位21位、副王位継承順位3位を持つ。
それがわたし。
1階南側中央に自室を持つ私は、部屋を出た後その足をエントランスホールに向けていた。屋敷の丁度反対側、北側中央に食堂があるため、そこに向かってのことだ。ロ型に中庭を持つ屋敷の構造上、東西のどちらの廊下を通って食堂に向かっても、歩く距離はたいして変わらない。西向きに通路を周っていくことを決めたのは、
「おはようございます。お父様、お母様。」
軽く腰をおろし、両親に向かって朝の挨拶をする。
エントランスホール、玄関大扉の前には両親の姿があった。いつも忙しそうにしている両親、今日もまだ日が昇って早いというのに王城へ登城するらしい。朝食を一緒に取れることも偶にあるが、そうでない時は運が良ければこの場所で会える。
もう出発の直前だったようで、父のダジネは白いシャツにダークブラウンのチョッキといった軽い服装を纏っていた。アビ・コートを思わせる、丈の長く前の開いたコートをメイドから受け取る。母のフォーレも珍しく父に付き添うようで、ドレスにハーフマントを纏っている。
「おはよう、グリレ。」
「おはよう、今日も可愛いわね。」
私に気がついた父と母が手を止め、朝の挨拶を返してくれる。母は着用していた長手袋を脱いでぐりぐりと私の頬を撫でまわした。
「お父様、お仕事ですか?」
「ああ、今日は枢密院で会議があるのでな。そのせいでこんな朝から召集されると言うわけさ。」
父はやれやれといった風に片手をあげて首を振る。
「お母様もご一緒ですか?」
「ええ、私の方は王族会議で呼ばれたの。緊急用件で呼ばれたから、よほどのことね。」
「フォーレ。」
父が少し険しい顔で母をとがめる。
「わかっているわよ……。これ以上はまだグリレには早いわね。もう少し大きくなったら教えてあげるわ。」
母は口に人差し指を立てて悪戯っぽく笑う。
「急ぐぞ。……グリレ、戻ったら話があるから、おとなしく待っていなさい。」
慌ただしいのは毎日のことだけれど、こんな風に思わせぶりな父親は初めてだ。母を仰ぎ見るが、なんだろうね、と母も首をかしげていた。
家令のセイドリックが父に、黒のつばの上がった帽子とステッキを渡す。父が帽子を被り、出発の準備が整うと、観音開きの大扉、両側に立つメイド二人に合図を送る。合図を待っていたメイドはそれを受けて、寸分たがわず同時に扉を開け広げた。
玄関から光が差し込み、足元を空気が流れていった。通りの向こうから、朝のまだ静かな喧騒と馬車の行きかう蹄鉄が奏でる音が聞こえてくる。玄関に横付けされた馬車を引く2頭立ての馬が、待ちわびたように、ブルル、と一鳴きし、足踏みをする。
両親は手早く乗り込み、御者が鞭を入れて滑るように馬車が走りだす。窓から母が手を振っているのを、私は手を振り返して見送った。
食堂の扉を開けると、焼きたてのパンの芳ばしいが鼻をくすぐる。14人掛けのテーブルに目を向けると、私の分の朝食が用意されていた。
クロワッサンとロールパンが一つずつ、盛られたバターと鎮座している。メインのスクランブルエッグにカリッと焼いたベーコンが二切れ、とろっと焼き固めた卵の見た目の美しさと、立ち上るベーコンの油が焦げた匂いが食欲をそそる。付け合わせのサラダはレタスを下敷きに、薄くスライスされたニンジンに赤玉ねぎが彩られ、その上に生ハムが乗せられている。その上から特製のホワイトドレッシングを掛けられ、光が反射してきらきらと輝いている。黄土色に深く沈むような重厚感を持ったパンプキンスープには、彩のために乾燥パセリが散らしてある。メトロポリで制作された曇り一つない透明なグラスに注がれているのは、本日はオレンジジュースだ。日替わりで山羊のミルクが出てくるが、個人的には山羊のミルクは飲みにくくて、オレンジジュースの方が嬉しい。
見事な朝食で、朝からこれほど立派な物が食べられることを神に感謝した。でもちょっと塩分が高めかな。
しかし、
「たまにはお米が食べたいな……」
と独り言を呟いてしまった。
テーブルに近寄ると、椅子の側に控えていたメイドのアンナが椅子を引いてくれる。独り言は聞かれていなかったらしい。少し安堵する。子ども用の座面が高い椅子に、アンナに手伝ってもらって登るように座る。個人的な名誉のために言うと、一人で登れるのだけれど、登らせてくれない。見た目は幼いので、危なっかしいのだろう。
ナプキンを膝の上にかけて、食事を始める。
まだ温かいクロワッサンへザクリといい音を響かせて齧りついた。
テーブルの他には私以外は誰もいない。広すぎるテーブルを一人占めするのにも慣れたものだ。両親は見ての通り不定期な生活をしているため、なかなか時間が合わない。
年の離れた兄パルサは、正式に正規軍の騎士連隊に入隊して殆ど家に寄りつくことが無くなった。もっとも私が生まれたころには、既に訓練学校の寄宿舎に入寮していたため、会うのは長期休業の冬と春だけしかなかった。将来は副王になることが決まっているため、官僚を目指した方がいいのではないかと私は考えていたけど、貴族には一定の軍務経験が必須だと後に聞かされた。
年の離れた妹の私を、兄はよく可愛がってくれた。本性は隠しているつもりなのだけれど、男の子っぽい遊びを好む私に、よくお転婆が過ぎる、お淑やかになれ、と笑って言い聞かせた。次に会えるのはいつになるのだろう……。
少し物思いに耽っていた間に、朝食を食べ終えていた。食後にオレンジジュースを飲み干し、少し足りなかった気がしてお代わりを要求する。コップ一杯に注がれ、半分くらいでよかったのに、と少し考えて一気にあおった。
少し水っぽくなったお腹を抱えて、部屋に戻る前に裏庭に出る。屋敷は塀で囲まれているため、外からは窺えない。東に向かって回りこんでいくと、塀の上から王城の姿が一部見える場所に来る。
きょろきょろと周囲を確認して、誰もいないことを確かめる。今日も、誰もいない。さて、と日課になっている魔力の制御を始めた。