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「わしは妻を粗末に扱う気はない」――強欲な成金豚に買われた没落令嬢、思いのほか幸せです

作者: マルコ
掲載日:2026/11/08

 ――私と、愛するドルフの話をここに書き記そうと思う。

 あの日、成人の日に私が売り飛ばされたあの日から、すべてが始まったのだ。


 いまにして思えば、当時の私はあまりに世間知らずで、自分の無力さも知らない愚かな娘だった。

 愛妾の子として生まれ、本妻と姉から雑用係同然に扱われながら、いつか報われる日が来ると信じて疑わなかったのだ。

 私を繋ぎ止めていた殿下の甘い言葉を、疑いもせずに心の拠り所にしていた。


 けれど、運命とは奇妙なものだ。

 人生で最も残酷な絶望だと信じ込んでいたあの日こそが、私にとって何物にも代えがたい幸福への扉だったのだから。

 あの日――私が成人の日を迎えた、あの朝の出来事へ、記憶を巻き戻そう。


◇


 成人を迎えた朝、私は正妻であるオティーリエ様の私室へと呼び出された。

 身につけているのは、裾が擦り切れた古着の木綿ドレス。

 華美な装飾があふれる豪奢な部屋に足を踏み入れるなり、オティーリエ様は扇子を手元で弄びながら、私を頭のてっぺんから爪先まで見下ろした。


「単刀直入に申し上げましょう。エリーゼ、あなたにはドルフのお屋敷へ嫁いでもらいます」


 淡々と言い放たれた言葉の意味を呑み込めず、私は立ち尽くすばかりだ。


「……え?」


 呆然と呟いた私を、オティーリエ様は小馬鹿にしたように一瞥した。


「我が家の借金を、ドルフが一括で肩代わりしてくださることになったのですよ。その条件が、伯爵家の娘を妻として差し出すことでした。

 姉のアマーリエにはもっと良い縁談がありますからね。あなたのような娘でも、家のために役立てるのですから光栄に思いなさい」


 頭の中が真っ白になり、足元がぐらりと揺れた。


 ドルフ――その名を知らない者はいない。

 王国の流通網を握る豪商であり、元平民の近衛騎士という出自といかつい風貌から「強欲な成金豚」「無骨な悪徳商人」と恐れられている男だ。


(嘘でしょう……? そんなの、あまりに急すぎるわ……)


 私の胸に浮かんだのは、第二王子フロリアン様の姿だった。

 いつも私に、「愛している」「いつか必ず迎えに行く」と甘く囁いてくださった方。

 その言葉を信じて、私は何十枚もの公務書類の清書や下調べを引き受け、身を粉にして尽くしてきたのだ。


 いま、助けを求めようにも、殿下からは何の音沙汰もない。

 迎えに来てくれる気配など、どこにも見当たらない。


 昼前、私は父の寝所へと足を運んだ。

 長年の病で寝たきりの父は、やせ細った手で掛け布を握り、弱々しく目を閉じている。

 正妻と姉が家政を牛耳るいま、父には私を守る力など残されていない。

 私がこの身売りを拒めば、父の薬代すら打ち切られるのは目に見えている。


「……お父様。行ってまいります」


 父の痩せた手を包み込むように握りしめ、私は別れを告げた。

 夕刻。私は粗末な木綿の外套を羽織り、着替えを包んだ小さな布包みひとつを胸に抱えて実家の門前に立った。

 迎えの馬車に乗り込むと、車輪が石畳を叩く乾いた音が夕闇に響く。

 茜色だった空は見る間に濃紺へと沈み、陽が落ちたころ、馬車は郊外にそびえるドルフの大邸宅へと到着した。


 馬車を降り、使用人に案内されて足を踏み入れたのは、真紅の天蓋が吊るされた広大な主寝室だ。

 足元の絨毯は足首が埋もれるほど分厚く、部屋の隅々に至るまで贅を尽くした調度品が並んでいる。


 そこに居た大男の姿に、私は息を呑む。

 見上げるような巨躯は、軽く190センチを超えているだろう。

 丸太のように太い腕と、鉄板を思わせる分厚い胸板。

 彫りの深い顔には、左の眉から頬にかけて斜めに走る古い刃物傷があった。

 口角を片方吊り上げたその風貌は、噂に違わぬ悪徳商人の気迫を放っている。

 男の身体から、整髪油の甘さと酒の匂いがふわりと降りてきた。


「今日からお前はわしの妻じゃ。死ぬまで手放さんぞ」


 低く太い声が、耳の奥を震わせる。

 迫力に喉が鳴り、膝ががくがくと震えた。


(ああ、私はこの人の慰み者として、ここで乱暴に扱われて果てるのだわ……)


 逃げ場はない。覚悟を決め、私は両目を固く閉じて身を強張らせた。

 大きな腕が、華奢な私の肩を引き寄せる。

 荒削りで分厚い唇が、私の唇にぎこちなく重なる。


(フロリアン様にだって、手を握られたことくらいしかないのに……っ)


 胸の奥がきゅうと痛んで、奥歯を噛みしめる。

 唇を離したドルフは、私の肩を支えたまま、不審そうに太い眉をひそめた。


「……軽すぎるわい。折れそうじゃな。わしは妻を粗末に扱う気はない」


 ドルフは私を抱き上げ、寝台の柔らかな寝具の上へと横たえた。

 見上げる視界を塞ぐように、ドルフの重厚な身体が重なる。

 押し当てられた胸板のずっしりとした重みと、大きな身体の熱に、胸が詰まって声も出ない。

 けれども、最後までドルフの手つきは丁寧で、覚悟していた痛みは思ったほどではなく、身体の奥には不思議な余韻が残った。


◇


 翌朝、ふかふかの寝台の上で目覚めた私を迎えたのは、侍女頭のマルタだった。


「若奥様、おはようございます。さあ、湯浴みの支度が整っておりますよ」


 案内されたのは、壁も床も一面の白大理石で覆われた大浴場だった。

 湯船から立ち上る湯気の量と、なみなみと張られた湯の深さに、私は目を丸くして足を止めた。


「マルタさん、これは……! 薪が何束、水汲みが何人必要なのですか……!

 こんな贅沢をしては、罰が当たってしまいます!」


 下働きの身で井戸水を汲み、薪を割ってきた私には、この湯の価値が痛いほどわかる。

 必死に両手を振る私に、マルタは朗らかに微笑みかけた。


「お湯なら旦那様の薪の山からいくらでも沸かせますよ。若奥様が入ってくださらなければ、薪が無駄になってしまいます」


 上手に言い負かされ、私は恐る恐る湯船へと案内された。

 マルタの手で丁寧に髪を梳かれ、背を洗われる。

 ふんだんな湯に肩まで浸かると、身体の芯まで解けていく心地よさに、ふうと息を吐き出した。

 すると、マルタがいたずらっぽく声を潜めて私の耳へ囁いた。


「旦那様は3日前、屋敷の使用人を全員集めて仰ったのですよ。『迎えるわしの妻を、誰よりも大事にせい』と。

 若奥様を粗末に扱う者など、この屋敷には1人もおりませんからね」


(あの恐ろしい旦那様が、どうしてそんなことを仰るのかしら?)


 どういうことなのか分からず、湯の中で首をかしげてしまう。


 湯浴みを終え、用意されていた上質な絹の部屋着に身を包んで食堂へ向かうと、並べられた品々に目を奪われた。

 長い黒漆のテーブルの上には、精製された白いパン、色鮮やかな砂糖菓子、湯気を立てる肉料理が所狭しと並ぶ。

 大貴族の正餐でも毎日は口にできない贅沢な朝餉だ。

 テーブルの上座には、すでにドルフが腰を下ろし、朝刊に目を落としている。

 私に気づくと、ドルフは咳払いをし、手にしていた新聞を私の前に突きつけた。


「座れ。食わんか。……これを見い」


 そんなに一度に言われても困る。

 とりあえず、差し出された紙面に視線を落とすと、私の全身から血の気が引いた。

 一面に躍る大見出し。


『第二王子フロリアン殿下、ヴァンドール伯爵家令嬢アマーリエ嬢と電撃婚約』


 膝からふっと力が抜け、その場に倒れそうになる。


 「いつか必ず迎えに行く」と私に微笑みかけていたフロリアン様。

 その殿下が選んだのは、美しく華やかな私の姉、アマーリエだった。


(私に魅力がなかったから、お姉さまに心変わりされたのだわ……

 お姉さまのほうがずっと美しくて、あの方にふさわしいもの……)


 日陰で生きてきた自分の至らなさに、胸が張り裂けそうになる。

 よろめいた私の身体を、横から伸びてきたドルフの太い腕がしっかりと抱き留めた。


「……座れと言うたろうに。あの男はお前を捨てた。だがわしはお前を手放さんぞ」


 声が低く響く。

 給仕が小皿に取り分けてくれた柔らかな肉料理を、私は涙を堪えながら口へと運んだ。

 もはや実家にも、信じていた殿下の元にも、戻る場所はない。

 退路は断たれたのだと、飲み下した肉が喉につかえる。


◇


 それからの日々のなかで、私は途方に暮れ、戸惑うことばかりだった。

 屋敷には王都有数の仕立て屋が連日呼び出され、色とりどりの最高級の絹や、見たこともないほど細やかなレースが施された刺繍ドレスが次々と持ち込まれた。

 宝石商が運んできた立派な飾り箱には、私の瞳と同じ色をした紫水晶や、目を見張るほど澄んだ大粒の真珠が並んでいる。


「め、滅相もございません! 私のような者に、これほど高価な装飾品など身分不相応です!」


 辞退しようと慌てる私に対し、ドルフは腕組みをしたまま不機嫌そうに鼻を鳴らした。


「何を言うておる。お前はわしの妻じゃぞ。粗末ななりをさせておくなど、商人の名折れじゃ。これらはすべてお前のものじゃ」


 凄みを含んだその声に、私は反論の言葉を呑み込んだ。


 さらにある日、マルタから耳打ちされて知ったことがある。

 実家のオティーリエ様から、度重なる散財の穴埋めに、私宛ての無心の手紙が何通も届いていたのだという。

 ドルフはそれらの手紙にちらりと目を通すなり、「わしの妻にたかるな」と言い捨てて、返事もせずに暖炉の火の中へ放り込んでいたのだそうだ。

 強面で乱暴に見える旦那様が、私の見えないところで実家からの理不尽な要求をすべて遮断してくれていた。

 その庇護の重みに、胸の奥が締めつけられる。


 そんなある日、ドルフが遠方の商談を取りまとめるため、数日間にわたって屋敷を留守にすることになった。


「屋敷の差配はマルタに任せてある。美味いものでも食うて、のんびりしておれ」


 そう言い残して旅立ったドルフを見送ったあと、残された屋敷は驚くほど広く、ひっそりとしていた。


 ドルフが留守の日々の夜、一人きりで横たわった広い主寝室の寝台で、私は掛け布を首元まで引き上げて身を縮めていた。

 窓の外から響く夜風の音を聞きながら、目を閉じても眠気は訪れない。


 久々にあの男に抱かれぬ、独り寝の日々だというのに、頭に浮かぶのはあの鉄板のような胸板の重みと、大きな腕の感触だ。


(私、あの人がいなくて寂しいの……? あの怖い旦那様の傍にいたいの……?)


 そう思い至ったとたん、胸の奥が甘くうずいて、耳まで赤くなるのがわかった。

 私はもう、あの無骨な旦那様なしではいられないほど、恋しくてたまらないのだ。

 恋心を自覚したその深夜、突然廊下に重い足音が響き、寝室の扉が開かれた。

 現れたのは、予定を早めて旅の埃にまみれたまま帰ってきたドルフだった。

 起きて寝台に腰掛けていた私の姿を認めると、ドルフは驚いたように眉を上げる。


「……起きておったのか。身体の具合でも悪いのか?」


 戸惑うドルフの姿を目にしたとき、私の身体は考えるよりも先に動いていた。

 寝台から駆け下り、大柄な夫の分厚い胸へと飛び込んだのだ。


「エリーゼ……?」


 呆気にとられながらも、ドルフの太い腕が私を抱き留めた。

 大きな身体のぬくもりと、旅の汗の匂いに包まれ、目の奥がじんとする。

 ドルフは目を細め、私の額や細い首筋へと何度も唇を落としてくれた。


◇


 屋敷での生活に慣れていくなかで、私は使用人たちの仕事にも目を配るようになった。

 長年実家で下働き同然にこき使われてきた経験から、掃除や洗濯、厨房での水仕事がいかに過酷であるかを知っている。

 ある日、厨房や洗い場で働く使用人たちの荒れた手肌を目にした私は、ふと声をこぼした。


「手が荒れない布があればいいのに。それに、油汚れが落ちやすいブラシも……」


 無意識のうちに呟いた私の背後から、低く太い声が響いた。


「……何じゃと?」


 振り返ると、巡回していたドルフが立っていた。

 ドルフはその言葉を聞き逃さず、私から詳しい工夫を聞き出すと、直ちに商会が抱える工房の腕利き職人たちを招集した。

 私の提案をもとに試作された布地や掃除道具は、驚くほど使いやすく、瞬く間に王都の主婦や商家の人気を集める大ヒット商品になったのだ。


 後日、執務室に呼ばれた私は、ドルフの前に進み出た。

 ドルフは私の両手を大きな手のひらで包み込むと、満足そうに口角を上げた。


「エリーゼ。お前はただの飾りではない。わしに莫大な富をもたらす、最高の妻じゃ」


 実家で「何の価値もない雑用係」と蔑まれてきた私の経験が、この人にかけがえのない宝だと認められた。

 涙ぐむ私の胸の奥には、ドルフへの敬愛と恋心がしっかりと根を張っている。


 だが、穏やかな幸福に包まれていたある朝、残酷な報せが届いた。

 何気なく目を通した朝刊の片隅に、ひっそりと記されていた死亡記事。


『ヴァンドール伯爵エーベルハルト卿、逝去』


 頭を殴られたような衝撃に、視界が歪む。

 父の死――それも、記事によると、数日前の事だったようだ。

 オティーリエ様とアマーリエ姉様は私に父の危篤を知らせず、死に目に会わせないどころか、葬儀の案内すら送らずに密葬を済ませていたのだ。

 私を唯一慈しんでくれた最愛の父。その最後の別れの機会すら、あの者たちは無慈悲に奪い去った。


「お父様……っ、お父様……!」


 私は新聞を胸に抱きしめ、床に膝を突いて泣き伏した。

 部屋へ入ってきたドルフは、私の様子と新聞の紙面を一目見て、すべてを察したようだった。

 無言で歩み寄ると、しゃがみ込み、震える私の身体をたくましい腕の中に抱き寄せる。


「……泣くな。あやつらには必ず相応の報いを受けさせてやる。お前の父上の無念も、すべてわしが晴らしてやる」


 地を這うような低音の怒声を吐くドルフの拳は、白くなるほど握り込まれていた。


◇


 父の死を知って数日後。

 王宮では遺産相続の承認とフロリアン殿下の婚約祝賀を兼ねた大夜会が開かれた。

 一応は関係者の端に名を連ねる私たちにも、招待状が届いていた。

 さすがに遺産の話となると、無視できなかったのだろう。


 ドルフ商会が総力を挙げて仕立て上げた最高の夜会ドレス。

 白磁の絹地に繊細な銀糸の刺繍が施され、夜空の星を閉じ込めたような紫水晶の宝飾品を纏い、ドルフの太い腕に手を添えて会場へ足を踏み入れる。


 見違えるほど気品をまとった私の姿に、ホールを埋め尽くす貴族たちが言葉を失い、道をあける。

 そこへ、華美に着飾ったアマーリエ姉様と、傲慢な笑みを浮かべたフロリアン殿下が近づいてきた。


「あら、強欲商人に買われた妾令嬢が、身分もわきまえずに着飾っているのね」


 アマーリエ姉様が扇の陰から嘲笑の言葉を投げかける。

 さらにフロリアン殿下が歩み寄ってきて、身勝手極まりない言葉を耳打ちしてきた。


「哀れなエリーゼ。あんな成り上がりの豚に使い古されたのは惜しいが、まあ我慢してやろう。今からでも私の妾にしてやる」


 かつて信じていた男の醜悪な本性に、私の心は凍りつく。

 私はドルフの腕に寄り添い、毅然と顔を上げて殿下を見据えた。


「私はドルフ様の妻です。あなたのような不誠実な方に、指一本触れさせません」


 凛とした私の声が、周囲の貴族たちへ響き渡る。

 殿下が顔を真っ赤にして激昂しかけたとき、ドルフが巨躯を割り込ませて前に立った。


「王国の流通を預かる我が商会への負債も返済できぬ輩が、他人の妻に戯言を吐くでないわ」


 ドルフの放つ威厳と筋の通った正論に、殿下は言葉を詰まらせる。

 だが、ドルフの追撃はそれにとどまらなかった。

 玉座に座る国王陛下と高位貴族たちの前へ進み出ると、ドルフは懐から分厚い書類の束を取り出した。


「国王陛下、ならびに諸卿。ここに、ヴァンドール伯爵家の不祥事と、殿下の不正に関する決定的な証拠を提示いたします」


 ドルフの声がホール全体を震わせる。

 突きつけられたのは、5つの動かぬ証拠だ。


 第1に、正妻オティーリエ様が長年にわたって複数の男と関係を持っていた不倫の証拠。

 第2に、アマーリエ姉様がエーベルハルト伯爵の実子ではなく、不倫相手との間に生まれた托卵児であるという血統調査の証拠。

 第3に、ドルフが病床の父から託されていた日記帳と、全財産ならびに爵位を実子であるエリーゼへ継承させるという正式な遺言状。

 第4に、フロリアン殿下が公務を私物化し、国庫の横領と裏金の蓄財に手を染めていた帳簿の数々。

 そして第5に――フロリアン殿下が最初からアマーリエ姉様と密通しており、私を無償の清書係として都合よく利用するために甘言を弄していたという密書の数々だった。


(心変わりなんかじゃなかった……。この人たちは、最初から私を利用して、嘲笑っていたのだわ……!)


 すべての真相を突きつけられ、殿下の甘い言葉を思い出しても、胸はもう少しも痛まない。


「不届き者どもめが! 直ちに引っ立てよ!」


 国王陛下の怒声が下る。顔面蒼白で倒れそうになるアマーリエ姉様とオティーリエ様は、即座に国外追放を言い渡された。

 フロリアン殿下もまた、王位継承権を剥奪され、近衛兵によって引きずられるように連行されていく。

 静まり返るホールのなかで、国王陛下は私へ労わるような視線を向け、正式に「女伯爵」の爵位継承を宣言された。


◇


 夜会を終えて屋敷へ戻った夜。

 二人きりの主寝室で、ドルフは気まずそうに視線を逸らしながら、ぽつりぽつりと語り始めた。


「……数年前の王宮夜会じゃ。姉の重い外套を抱え、誰からも注目されずにいた小柄な娘がおった」


 ドルフの言葉に、私は目を見開く。


「白磁のような肌と、折れそうな細い首筋。健気で澄んだ瞳を見たときから、わしはずっとお前を忘れられんかった。

 身勝手な男じゃと罵ってよい。力尽くでお前を手に入れた。

 ……だが、わしはお前を愛しておる」


 顔を背け、耳まで赤く染めながら告白する大男の姿が、どうしようもなく愛おしい。

 私は柔らかく微笑むと、首に両腕を回し、自ら背伸びをして無骨な唇へと口づけを返した。


「世界で一番、不器用で優しい私の旦那様。

 ……私をお嫁さんにしてくださって、ありがとうございます」


 ドルフは目を見開き、腕の中に閉じ込めるように私を抱きしめると、耳やうなじへと唇を落としてくれた。


◇


 それから、月日が流れた。

 穏やかな昼下がりの自室。

 私は大きく膨らんだお腹を愛おしく撫でながら、机に向かっている。

 真新しい革表紙のノートを開き、羽ペンにインクを浸す。


 そこへ扉が開き、仕事を終えたドルフが入ってきた。

 机に向かう私の姿を見るなり、ドルフは無精髭をしごきながら不器用に眉をひそめてたしなめた。


「仕事は休めというておろうに」


 私は微笑んで、首を横に振った。


「これは仕事ではなく、手慰みの書き物です」


 ドルフは仕方なさそうに目を細めると、私の肩を抱き寄せてくれた。

 机の上のノート。その最初の頁に筆を落とす。


 ――私と、愛するドルフの話をここに書き記そうと思う。


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